私の担当するお客さんの店が閉店してしまうことが多かったり、
責任者が転勤になる、担当者がやめる、ひとが離れていくことが多く
機械ものが動かないことがあったり、誤って誤動作をしてしまうこともあります。
普段の心がけがわるかったり、自分中心で感謝がないのが、帰ってくると
言っていただいたことがありますが、自分ではなかなか判断がつかず
起きてしまってから後悔することが多いです。
これをなんとか良いサイクルにかえたいのですが
どのようなことに注意をし今後どのようにしたらよいか
アドバイスをいただけますでしょうか
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大切なことは、どのような「不運」に見舞われましても、
こころがつくりだす「ネガティブな思い」に染まらないことです。
そのために物事をダイレクトに受け止める方法を伝授いたしましょう。
ダイレクトとは、好き嫌い、幸・不幸、善し悪しの思いを持たずにそのまま、ありのままにという事です。
世間という川には、毎日上流からドンブラコ、ドンブラコと、
「出来事、出会い、情報、アクシデント」というモモがとめどなく流れてまいります。
ところが時には酸っぱいスモモも流れてくるのです。
モモもスモモも、これはオフの日で家に居ても、どちらも流れ着いてきます。
アナタはそれを、受け止める人なのです。
多くの人は、このスモモを手にされようとはしません。
スモモは、桃に比べて酸が強く、酸っぱいからです。拒絶反応を起こす人さえおられます。
流れついてきた桃が、酸っぱいスモモか、甘いモモか。手に取っただけでは分からない。
甘い桃と見せかけて酸っぱいかもしれません。
スモモでも完熟していて甘いかもしれません。
私たちのもとに毎日流れ着いてくる、モモたちは、
それ自体では、良い悪い、幸福、不幸のラベルは付いていません。
たとえ、スモモがお嫌いであってもスモモにしか取れないビタミン類は摂取できるのだ、ということがお分かりになれば、人は苦労でも買ってでもするものです。どちらでも、いずれ種が良い花を咲かせて、良い香りを放ってくれるのです。
そのモモたちを、そのまま流してしまう、スル―する事も大切です。
全部を拾い上げる必要なんてありません。
でもどうしても、受け止めなければいけない時がある。
そういう時こそ、酸っぱいスモモも、甘いモモも、
「酸っぱいからイヤだ」「甘いから好きだ」というより好みの思いを持たずに、そのまま受け止めるのです。
目の前で何が起ころうとも、まず、その出来事そのものを、そのまま、ナイスキャッチするのです。
スモモも、モモも、まず、そのままに受けとめるには、心の沈黙が条件です。
それを余裕、ゆとりというのです。
酸っぱいスモモにも、甘いモモにも、缶詰のモモにも、ネクターにも、桃太郎にも、それぞれの良さがあるのです。
酸っぱいスモモな出来事も、そのまま受け止められれば、日干しして完熟させることもできるのです。
スモモもモモも、そのままに。
これ観自在力なり。
自分ではよくわからないけれど、なんだか不都合なことばかり起こる。
そういうときは、とてもやり切れない思いになってしまいますね。
自分の何が悪いのかわからない。
不安も大きいことでしょう。
そういうときに目に見えない何かがあって、それを変えたいという気持ちは自然なことなのかも知れません。
でも、それはいたずらに不安に押し流されてしまっているという状態ではないでしょうか。
仏教では「因果」ということをいいます。
因(原因)があって果(結果)がある。
悪いことや不都合なことばかり起こると、現象に振り回わされて、しっかりと原因をみることができなくなってしまいますね。
一度、不都合なこと、悪いこと、それぞれ一つずつ、原因をしっかりみてみませんか?
結果は結果として、きちんと受け止める。
そういうところから、あなた自身の今あるべき姿やなすべきことが見えてくるのではないでしょうか。
「感謝」についても書いてありましたが、「ありがとう」はもともと「有ること難し」という意味であったといわれます。
「そうあることは難しい」と意識することだといえるでしょう。
今の現象が起こっているのは、原因があっての結果です。
因と果の間には、この原因があってこの結果になるという「ご縁」です。
今の状態は、実は無数の「ご縁」によってもたらされています。
その「ご縁」を一つ一つ大切にしてみてください。
そこに「感謝」が生まれてくるのだと思います。
ご自分の廻りで、「マイナスの気」が見えない力としてはたらくから、
物事が上手く行かないと思っていらっしゃる様ですが、そうでは有りません。
また、「なんとか良いサイクルにかえたい…」との思いを持っていらっしゃる様ですが、
自らを省みて、「他を慮る気持ちをもって居ないのでは無いか」と言う思いをめぐらせば、
たちどころに「他に感謝する」事が如何に必要かがお判りになるのではと存じます。
どうぞ今すぐからでも遅く有りません。何事かをして頂いたなら、
「有り難う御座居ました。」と明るく微笑んで相手様に言ってみましょう。
感謝の気持ちを忘れずに…
必ずや、好転して参りますから…
ぜらお 様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。
「禍福は糾える縄の如し」・「人間万事塞翁が馬」と申しますが、幸・不幸は、予測できないものであって、捉え方一つでどちらにもなりうるものにしか過ぎないと存じております。
このことは己の気持ちの持ち方次第でも然りであり、悪いことが重なったりすれば、どこか「みえない力」が働いているのではないかと不安に思ってしまうこともあるでしょうが、気持ちを前向きにすれば、結果における後悔や反省を次へと活かして、己の向上に役立てることができるのではないだろうかと考えております。
また、藤堂尚夫様もおっしゃられているように、この世におけるモノ・コトは因果関係によって成り立っているため、結果には必ず原因や条件があり、その原因や条件を変えていければ、結果も変わっていくこととなります。
実際にはもっと複雑な原因・条件が絡んでくるため、この原因や条件を変えれば、確実にこの結果になるとの断定はできませんが、努力次第によっては、十分に結果を変えることは可能であると考えております。
仏教では、善因善果、悪因悪果の因果応報論を扱います。このことにつきましては、
問い「悪いやつらが幸せに生き残る時代」
http://hasunoha.jp/questions/32
にて扱わせて頂いております。
もちろん、善いこと(利他行・善徳行)に頑張って取り組んでいても、すぐには期待するような善い結果は出てこないかもしれませんが、少なくとも悪い結果は確実に少なくすることができるのではないかと存じております。
ぜらお様には、この機会に、これまで以上に公私共において更に何か善いことを行うこと(まずは十善戒〔不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見〕をできる限りに守ることから、更に可能であればボランティア・奉仕活動・慈善事業なども併せて)をなさってみられることをお薦め申し上げます。
善徳行の力によって良いサイクルへと変わりますことを祈念申し上げます。
川口英俊 合掌