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座禅について

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最近初めて座禅会というものに参加しました。
そこでの座禅の目的は、自分の歩む道を見つける為に自分を見つめる。浮かんだ煩悩はちぎって捨てる。無明を捨てれるように煩悩を捨てる、と教えて頂きました。
座禅をしながら自分の反省点を浮かべては、あぁ、ここが悪いから煩悩だ。と悪い点を思い浮かべ捨てるようなイメージ。その繰り返し。
お家でも数分間ですが座禅をしていますが、果たしてこんな感じの座禅でよろしいのでしょうか。
自分を見つめ直し道を見つけるということが難しいように思います。ただ反省点を思い浮かべ捨てるだけ。
どのように座禅と向き合えばよろしいのでしょうか?どのような考えで座禅をしていけばよろしいのでしょうか。座禅について教えて下さい。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

坐禅

思いというのは出てきた時点では煩悩ではありません。
煩悩の原因とは、物事を自分に都合よく、思い通りに運ばせようとする自我意識こそが原因です。
難しいので流行りに乗って分かりやすく妖怪ウォッチのジバニャンをお借りして「自我ニャン」といたしましょう。
煩悩が起こるのは、過剰な自我意識「妖怪自我ニャン」のしわざであると仮定するズラ。
では、自我ニャンはいつ現われているのか?
それは煩悩が発生する、させるメカニズムを知れば、煩悩から影響を受けず、悟りを得られるズラよ。
その「しくみ」とは、
❶「思い」は起きた時点では煩悩ではない。
❷そこにとりついて
❸自分の好きや嫌い、都合・不都合など自我の取り扱いを介入させること…が煩悩発生のしくみなのです。(20回読んでね♡)
たとえば、坐禅中や今からイヤな出来事に遭遇すると、イライラ、ムカムカ、ドンヨリが心の中にふわりと現われます……、ね?
❶それらは発生時点では、縁に触れて自然に発生しているだけなのです。
まだ煩悩とは呼べない状態、純粋無垢、おおやけのものです。
……が!
❷そこにピッタリとりついて、
❸「ああ、イヤだな、この状況を変えたい」などと自分の都合や判断を加えるからこそ煩悩になるズラよ。
☆よってアクシデント時に自然に出てくる❶という思いに❷とりついて
❸自分の都合を立てること。これが、煩悩を作り出す妖怪ジガニャンならぬ自我意識、ご都合意識ズラ。(ワカル?)
♪「よう出る、よう出る、ヨーデル♪」と、出てくる思いを煩悩にするのは妖怪のしわざならぬ、思いにとりついて、取り扱う私たちの自我意識のしわざだったのです。
この「しくみ」に気づけば、あとは❷の「思いへのとりつき」を控えるだけです。
「出てくる思いとは前方を走る暴走車のようなものです。
前方を走る暴走車に対して、わざわざ自分の車体をぶつけにいくような愚かな人はいません。暴走車のような思いと、自分との良い距離感、車間距離を保てば、前方の暴走車は自然に去っていきます」
今すでに思いの暴走車は走り去っているはずです。そこには思いの世界の自縛から自由になった静かなる事実の世界があるばかりです。
自我ニャンを見つける心の眼「煩悩ウォッチ」は誰もが持っています。
さっそく沸き起こる思いを〝ウォッチ〞(観察)して、とりつかない禅修行、煩悩ウォッチをしてみましょう。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

丹下 覚元様

真摯に分かりやすく受け答え下さりありがとうございます。
ありのままの、起こった出来事のみ自分の意思を加えない状態が縁。でも意思を加えると煩悩と理解しました。しかしある出来事に対し、
相手は本当にそう思ってるのか、いや、違うから連絡ないのでは?と思いを想像して苦しくなってしまいます。中々その想像や思いを捨てるのは難しいです。煩悩を捨てる。到達したいですね。

「坐禅について」問答一覧

アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

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