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出家するということ

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有り難し有り難し 26

こんにちは。今日は出家するということの意味について質問いたします。
俗世間は修行の場であるとつくづく思います。この数週間、こちらは夏休みということもあり、毎日仏教について学んだり瞑想したり、とても大きな生きる知恵を得ています。もちろん、知れば知るほど自らの至らなさや愚かさにビックリがっかりして足踏みすることも有ります、仏教初心者ですが残りの人生かけて努力するつもりでおります。
そこで質問です。俗世間は生きてゆく上で避けられない修行の場です。
ですが、出家するということはこの俗的な苦しみを出来るだけ避けて清らかな心にする、悟りに最適の場所を選ぶ、そういうことなのでしょうか。
出家できる環境の人もいればそうでない人もおります。
学校に例えますと、ある専門学校があるとします。そこにいくと専門職につく最適な近道になるわけです。
ところが、学校に行きたいけど状況が整わず行けない人もいます。学校になど行かなくても通信教育を受けたり、別の道は沢山あるでしょうけど、指針がしっかりないのです。
それに、こういう状況を、まあ縁だからしょうがないだろうととることもできるかもしれません。(今世はそういう時でないとか)
出家しないと得られないこととはなんですか?
また、出家する人としない人の違いはなんでしょうか?
お坊さんがたが、なぜ出家なさって生涯にわたってお釈迦様の教えに忠実に生きて世の中の人々の役に立とうと考えられたのか、ご自身の経験などを教えていただけると幸いです。
子供が三人おりますし、修行のみならず毎日はたくさんの喜びと幸せに満ちていますので、何もほかの人生を望んでいるわけではないのですが、出家されてお寺に従事されておられることが理想的だなあ、とちょっと思ってしまうのです。それは現在に不満があるからなではなく、仏教の生き方がまさに真の道だなあと思うからです。

回答お願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

特に違いはない

出家とは読んで字のごとく、家を出ること。家族を離れ、自分を知るための修行にのみ専念しいきることでしょう。

そうした意味から行けば、現在の日本の仏教において、本当に出家している僧侶は少ないでしょう。世襲しているお寺が多いことを考えると、出家とは形ばかりになっているように思います。

在家も、出家も同じ人間。どちらが良くてどちらが悪いという事もないです。どちらでも、仏道とは何か、自分とは何かということをしっかり追求し修行していけば、必ず救われるのが仏教でしょう。

どんな立場の人でも救われる道だから、本物なんだとおもいますよ。

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有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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今の場所でいいのです

出家しているお坊さんに怒られるかもしれませんが、必ずしも出家がいいとは限りません。
世俗から距離を置いた日々の生活と瞑想で貪瞋痴の三毒を捨て生きることは良い仏道修行であります。
しかし、世俗から離れるあまり井の中の蛙となり、世俗の人達より自分の方が尊い存在だと思い込み、かえって私利私欲に落ちてしまうこともごく稀にあるのです。
ですから、あなたの場合も今の場所で修行されるのがいいと思います。捨てるべき貪瞋痴の元は好き、嫌い、無知です。好き、嫌いの感情が無いのは人としてつまらないので少し抑えるくらいで、そして、無知にならないように色々な事を色々な視点で知りましょう。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。
そうですね、私がお坊さんの生活に憧れるのは無い物ねだりな部分もあるような気がしてきました。
出家してもたいしたこと有りませんよとか、本当の意味で出家しているお坊さんは少ないですよ、と言われると出家は沢山あるうちの一つの道でしかのかもしれませんね。
そうかもしれませんが、こうして無償で私たちの心の迷いに手を差し伸べ、こころの闇に光を照らしす言葉をくださるここでのお坊さん方には大変感謝、尊敬しております。

「仏教における瞑想」問答一覧

うつ病の中でも利他の心を持つためには

5年ほど心の病に苦しんでおります。最初は適応障害という診断でしたが症状が悪化し、3年前にうつ病と診断されました。 それでも昨年から始めた漢方の治療やカウンセリング等の効果で体調は良化しており、検査の数値も改善してきています。 しかしながら「ものを考える余裕」が生まれたこともあってか、生き方に対する苦悩は深まるばかりです。 うつ病に向き合う手がかりとして、宗教・哲学・心理学など多くの本に触れているのですが、その多くで「他者に関心を持つこと」「他者と関わること」「他者のためにはたらくこと」が幸せへの道として説かれていました。仏教においても、「利他」は大切な考えだと思います。 しかし、今の私には「他者のためにはたらくこと」はおろか、「他者と関わること」も考えられません。他者とつながりを持つことを恐ろしいと感じてしまいますし、他者のことを考える余力自体も不足しているように思われます。毎日念仏をお唱えするときも、自分の身体のことや心のことばかりを考えてしまいます。 自分でも「利他の心」を持てたらとは思うのですが、負のループに入ってしまっているような気がしております。 勿論、日々の中で「他者を傷つけないように」「他者を不快にさせないように」と心がけているつもりではおりますが、それだけで良いのか、と自問自答してしまいます。 どのような心がけで日々を過ごせば良いのか、ご助言を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 9
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瞑想とは

ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。

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マインドフルネスについて

瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。 そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。 どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。 そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。 しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。 マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。 仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。

有り難し有り難し 18
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ