諸行無常や諸法無我はああそのとおりだなと納得するのですが一切皆苦についてはいまいち納得できません。
物事は解釈によっては良くも悪くもなるものですから全ては苦というのはなんだか理解できません。全てが苦なら生きる理由も無いと思います。
一切皆苦について詳しく説明をお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
一切皆苦とは、自分の思い通りにならないのがこの世のありよう、ということです。
質問者様が、たとえば誰かに対してとか、何かに対して、こうであってほしい、こうしたい、という願いや求めがあるとします。でも世界はその願いや思いとはまるで無縁なあり方として存在している。
そういう姿であるのが、この世の姿、という意味になるのです。
人間個人の主観(私)を無くして、一切を見渡せば、それが人間にとって凄惨悲惨な現実であっても、判断を下すわたくしが存在しないので、評価以前の世界のありようを知る事が出来るはずです。
物事を主観的に観れば人間的な苦楽はありますが、山や川は苦しみませんし、楽しいことだって苦しくないことだってあります。
「一切皆苦」とは私たちの主観を言ってるのではなく、この世が思い通りにならない状態の世界=苦境=自我とは無縁な世界=苦といっているのです。
✖「この世は苦しみである」
〇「この世は自分の願いどおりにならない=一切の存在は自分の思いの影響を受けないありかたである=苦」が適切な訳と言えます。
ここでいう「苦」とは、いわゆる「苦しい」という意味ではなく、この世界の道理・ありよう、状態を言い表したもので「主観的な感じ方、判断として脳裏にあらわれる❝苦しい❞という意味での❝苦❞ではなく「思い通りにならないさま」という事です。
思い通りにならん、ということがこの世の大前提であるのですから、このことを自覚すればこそ、欲を加えれば思い通りにならないから苦しいということもわかる。よって、欲の火を抑えようとする様になるのです。
「自分のものの見方=我見」を通して世界を都合よく、枉げて(曲解して)観てしまうのが人間です。
そういうものの見方が、実際に人間の脳の働きとして機能している現実があります。でもそれは変える事が出来るのです。
脳の機能的に言えば「悟り」とはそれを機能させないで物事を人間的な判断抜きに正しくありのままに私見を加えずに観ている状態とも言えます。
世界は元々、苦しみでも安楽でもありません。
一切は思い通りにはならない。だからこそ、それを深く理解すれば、思い通りにしようとするアクセルの空ぶかしをするような、愚かしい生き方を止めるようになります。そういう戒めの面も持っていると思います。
人生には楽しいことも、うれしいこともあるのに、なぜ、一切(すべて)が「苦」なのか、と言えば、楽しいことも、うれしいこともその裏には常に「苦」が存在する、ということだと思います。たとえば、人の死を考えた場合、自分の家族の死ほど悲しみが深い死はないのではないでしょうか。故人との楽しかった日々が多ければ、それだけ故人の死は、残された私たちにとっては深い悲しみになり、常にその人のことを思い出すことでしょう。逆に、どんなに有名人であっても、あるいは残忍な行為で命をうばわれた人であっても、その人が自分と直接かかわりがなければ、常にその人のことを思い出し、嘆き悲しむことはないことでしょう。昔の西部映画『シェーン』の一コマに、マリアンが息子のジョーイに「・・・ジョーイ、シェーンを好きになっちゃ駄目よ」 「いつか、行ってしまうのよ、つらいわよ、好きになったら」という台詞がありますが、この一切皆苦を考えるときに、私はいつもこの台詞を思い出し、そして、その台詞があることを私に教えてくれた亡き私の父を思い出します。
おっしゃるお通りでそのまま聞けばとてもネガティブな話です。
人生には楽しいときもあるじゃないかと思います。
お釈迦様がお話下さったのは、生まれてから死ぬまでが「苦」だという話ではありません。
生まれ死んでまた生まれる・・・という六道輪廻全てを「苦」とお説き下さったのです。
繰り返し繰り返し生まれては死んでいくいのちの在り様が「苦」であり、そこから解脱しなければ幸せにはなれないですよ、という話が仏教の根本です。
原典を、ある人が漢訳すると「一切皆苦」。これを私が漢訳すると「諸願無叶」、訳者によって違う表現もできる。四字熟語にしたかったから、強引に「原典(思い通りにならない)」を「苦」と翻訳したのかも。私は強引に諸○無○に落とし込みました。願い事が全て叶うわけじゃない、結果が思い通りにならないから、楽しめる。参考になれば。
先般、京都花園大学教授、佐々木閑(しずか)先生の講義の話を聞きました。
先生はインド仏教史が専門です。NHKの番組にもお出でに成られております。
題は先生がその講義の根本として、話されたものとのこと。
生まれながらに幸せないのちと言えるものはひとつもなく、
幸せとするのは、その後になにを成すかによるものだ、ということだそうです。
バラモンにうまれようがスードラにうまれようが、死などと隣り合わせにあるのが
いのちです。
釈尊が言いたいのはこの不幸ないのちを受けて、
「さてどう生きるか」なのだと小生は思います。
釈尊の口癖というか、インドにおける挨拶みたいなものでもある
「スヴァーハー」は、「幸あれ」等の言葉とされますが、それは無我である
いのちを悟ったが故に、つまり人生は不幸なのだとわかったからこそ、
「いのちよ、幸いであれ」と
願った言葉なのだろうと感じます。
一切皆苦とは、畢竟、「今」を希望をもって生きていくための言葉とも
言えるのではないか、小生自身はそう思っているのです。
答えにはならず、勝手気ままに述べました。ご無礼をお許しください。
合掌
釈心誓さん
亀山純史さん
丹下 覚元さん
回答ありがとうございます。
釈心誓さん
亀山純史さん
丹下 覚元さん
回答ありがとうございます。
釈心誓さん
亀山純史さん
丹下 覚元さん
回答ありがとうございます。
星 大晃さん
禅僧むらたさん
回答ありがとうございます