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阿耨多羅三藐三菩提、とは?

普段お唱えしているお経の一節についてお教えください。

般若心経や阿弥陀経には「阿耨多羅三藐三菩提」という言葉が出てきますが、結局これはどういう意味で、何を指すのでしょうか?
本などで調べても、

・最高の理想的な悟りのこと
・無上正等覚とも言う
・一切の真理をあまねく知った最上の智慧。真理を悟った境地。

としか出てきません。
いったい御釈迦様はどういう真理について何をお悟りになったのでしょうか。

行事・座禅・お経
有り難し 22
回答 2
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

阿耨多羅三藐三菩提とは。

jackさん、こんにちは。

「阿耨多羅三藐三菩提」の漢字そのものはインドの言葉「アヌルッタサミャクサムボディ」の音写なので意味はありません。それを意訳して無上正等覚(最高の正しく等しい悟り)という漢字におきます。

私は悟っていなので悟りの本質は話せませんが(笑)、
今風にいえば「宇宙の真理・法則」ということです。
仏教では、世界は神が作ったというようなものではなく、法則で動いていると見ます。その法則とは二つの法則「変化(諸行無常)」と「関係(諸法無我)」でなりたっているということを理解したということです。
そこが仏教が他の宗教と少し考えの違うところです。どちらかというと哲学的でもあります。それが人間社会にも厳然としたルールとして存在しており、それを学ぶことによって心が悩みから解放されるという結論に達しています。

変化とは時間軸であり、関係とは空間軸でもあります。経典には悟りの世界は仏でしか理解できないと解かれています。私は宇宙が好きなのですが、最近、宇宙の大きさを素人レベルで学ぶ度に、この時間と空間の概念は人間では到底、把握できないことをあらためて思い知らされます。

合掌

 

元々が阿耨多羅三藐三菩提。

今私は渋滞MAXの高速道路にいますが、渋滞混雑であっても、それが「ただそうあるだけ」でいられること。それが活きた阿耨多羅三藐三菩提です。まさか、と思うでしょうが。
阿耨多羅三藐三菩提とは無上正等覚。
いわゆる悟りのこと。その心を会得することが仏教の最大の目的です。特別視する人は多いですが、知らないが故に特別視をする。
仏教の仏の字は悟り・覚。それが仏教なのに日本仏教の多くは悟りが無い。
悟りを認めなくなったら果物ジュースなのに果汁が無いと言うに等しい。アンパンなのにアンが無い。
ファンタグレープ、無果汁みたく。(笑)
辞書的な意味の説明を省き悟りの心に至る具体的な方法だけ記します。
「お釈迦様はどういう真理について何をお悟りになったのでしょうか」これは質問が間違っています。
悟ると真理しかありません。
理屈や文字、左脳的言語概念ワールドを離れる。
文字化された真理のプラカードにも用が無くなり、釈迦が説かれた真理そのもの(法相)になる。
そこをよく観れば最初からそうだったとハッキリする。
悩みや苦しみが生じない心になる。
なぜ苦しみが生じないか。
沸き起こる思いが無毒無害になるからです。
なぜ沸き起こる思いが無毒無害になるか。
心の中で沸き起こる想念というものは発生時点で無我・セルフ化されていないと気づくからです。
無我とは、己の事ではなく自我色の無い事。
誰が生みだしたのでもない。
自然にポンポン出ている。
凡夫、衆生はそれ知らない状態のこと。思いをポンポン沸き起こしては思考に憑りつきああだこうだと論ずる姿のこと。出た思いをPCファイルをクリックして展開するように取り扱い人我の見解を介入させる姿勢です。人間の好き嫌いや良い悪いというモノの見方を「人我の見(にんがのけん)」といいます。
悟った者、仏陀、無我なる者は、思いが出てきてもそこに手を付けない。発生した元々無我の思いを無我のまま、誰の手にも触れることなく思いに触らないから文字通り❝障り❞がない。
日常の出来事に関しても同じです。
冒頭に申しあげた、車の渋滞でそのまんまで居るとは、こういう事です。
元々目前の事は人間の思慮分別の染まり事がなく、無色透明。
日常の出来事も、そこに元々こちらの都合や人間の自我のはからいの無いから、誰の事でも何事でもなく過ごせばいい。
そういう様子で過ごすことが阿耨多羅三藐三菩提です。


質問者からの有り難し - お礼

御礼が遅くなりまして申し訳ありません。

染川智勇様、安穏寺了叡様
お二人の言葉をよく考え、自分なりに噛み砕いてみました。

諸行無常といいますと、平家物語が連想されます。
そこでは「栄華を極めても永遠には続かない」と言う意味で使われていますが、それが正しいのだとすると「何かにこだわっても、それが永遠に続かない」「人生は短いのだから、こだわって苦悩するのをやめて今を前向きに生きよ」ということなのでしょうね。

つまるところ「こだわっても意味は無い」「ありのままの今を受け入れて生きることが大事」ということをお悟りになられたのかと思いました。いかがでしょうか。

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