いつも楽しく拝見させて頂いております。
最初は自分の悩みを相談しようとアカウントを取得したのですが、
他の方へのお坊さま達の、温かいお言葉を拝読させて頂いているうちに、
関係の無いはずの私まで励まされ、勇気付けられ、優しい気持ちにさせて頂きました。
特に聖人や仏様の行いを、物語の様に教えて下さる回答が好きです。
色々と己の身を省みる事が出来ます。
そこで厚かましいお願いとは思いますが、お坊様がたの好きな法話(?)を一つ教えて頂けませんでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
みんな大好き⁉︎
トンチで有名な一休さんの話です。
一休さんの庵の庭には小さな池があり、その池のほとりにまがりくねった一本の松がありました。
ある時、一休さんは弟子たちに
『あの松をまっすぐと見る者はおるか』とたずねられました!
弟子たちはそれぞれに、
どこからどう見たらまっすぐに見えるか。
と動いてはしゃがんだり、片目をつぶってみたり。
色々してみましたが、どうにもまっすぐに見えない。
すると1人の弟子がぼやくように
『しかし、この松はどこからどう見てもまがっているなぁ』
と言いました。
すると一休さん
『そのとおり!』
『まがっているものをまがっている。と見るのがまっすぐな物の見方なのだ。』
とおっしゃった。
という話なんですけど、
私はこの話が大好きです。
私たちは知らず知らず、大人になるにつれて純粋にものを見る眼を曇らせてきているのだと思います。
経験や知識なんかと照らし合わせてどこから見ればまっすぐに見えるか。
という目でしかものを見れなくなってしまうんですね。
仏法様々あれど、
ありのままをありのままに見つめる。
ということは共通です。
この話は仏法の基本をわかりやすく教えてくださっている話だと思います。
むかーしむかし、ある禅寺の料理長和尚さんがスープを作っていると、大鍋の上にモワモワっと観音さまが現れました。すると料理長和尚さんは観音さまを殴り飛ばして言いました。「馬鹿野郎…たとえ釈迦ジーさんでもぶん殴ってやるぜ………」
料理長和尚さんの修行は真心をこめて料理をすることです。食材の一品一品、調理用具の一つ一つが仏さまから授かった修行の道場です。そして今、目の前の料理を丁寧に行う自分自身に仏さまが現れます。
でも、この時の料理長和尚さんは自分とは別の、どこか遠いところに悟りや幸せがあるような気分になっちゃったんじゃないかなと思います。きっと料理長和尚さんが喝を入れたのは自分自身に対してだったのでしょうね。今、この瞬間の修行から逃げるな!と。
宗派が違うのですが、曹洞宗の道元禅師の話は好きですね。
色々ありますが、宋(中国)で修行して日本に帰った時こう言いました。
「空手にして郷に還る、所以に一毫の仏法なし。」
他の中国で修行したお坊さんはみんなたくさんのお経などを持って帰るのに、道元禅師は手ぶらで帰ってきました。
それは、覚りを持って帰ったからです。
今この場所で生きていること、目が横に並んでいるということ、当たり前の事を当たり前の事として、あるがままに受け入れること、そこに真理があると気づき、帰ってきたのです。
これこそまさに覚りだなぁ、と思います。
私は「従容録」という本にある「地蔵種田の話」という話が好きです。
「地蔵」とは地蔵菩薩のことではなく、中国の僧侶の名前です。
地蔵和尚のところに、南方から旅の僧侶、紹修がやってきました。地蔵和尚は、紹修和尚に、「南方の仏教はどうですか」と聞きました。紹修和尚は「南方では問答が盛んです」と答えました。「そちらではどうですか?」
地蔵和尚は、「うちでは、田を耕し米を作り、それを飯に炊いて握り飯にして食べている(日常生活をしている)」と答えました。
それに対し紹修和尚が「それでは肝心の仏法はどうなる」と聞いたところ、地蔵和尚は「キミは今まで何が仏教だと思っていたのだ」とたしなめた、という話です。
文才のある者は文章で、弁の立つ者は弁舌で生活する。しかし、僧堂(お寺)では煩悩を断つ行に熱心なわけではありません。法悦を得ようと積極的にしている訳でもありません。ただメシを食ってウンコをする日常生活があるだけです。
頭でどうこう、口でなんとかではない。日常生活の実践こそが仏道修行なのだ、って話です。
他にはねぇ
この問いの中の
http://hasunoha.jp/questions/369
川口英俊師の、「お釈迦様と悪口男」 の話、
この問いの
http://hasunoha.jp/questions/6901
日顕師の「牛飼いの話」
もオススメです。
大乗さま、回答ありがとうございます。
一休さんと言われると、ついつい子供の姿が思い浮かんでしまいますが、
お弟子さんもいらっしゃる立派な(当然大人の)お坊様だったのですよね。
曲がった物を曲がったそのままに受け入れる。
先入観や思い込みを捨て、柔軟な思考を持つ。
難しいですね。難しいですが、いつかは他者も自分もありのままに受け入れられる、愛情深い人間になりたいです。
大慈さま、回答ありがとうございます。
生活の全てが修行で、特に料理や食事は他の者の命を頂いているのですから、きちんと向き合い心して頂かないといけませんね。
自分とは遠い所にある物・人ばかりが、素晴らしく輝いて幸福そうに見えたりする、あの人間心理はなんなのでしょうか。
まずは自分の身の周りの事をちゃんとして、そばにいる人を大切にできる人間になりたいと思います。
光禪さま、回答ありがとうございます。
学生の頃に、ある神父さまが説教で「普通の生活が一番難しいのだ」
とおっしゃっていた事を思い出しました。
『特に奇抜な事を行う必要は無く、毎日の生活を誠心誠意行う事こそ、重要で大変で尊い』という様な意味だったと記憶しております。
張って頂いたリンクのお話は、実は私も大好きで、ブックマークに入れてあります。
今日からは、このページもブックマークにしまして、またたびたび読みに来ようと思います。
聖章さま、回答ありがとうございます。
その時代に中国まで行って、手ぶらで帰ってくる。他のお坊さん達とは、違う事をする。
目立たず周りに倣えと、何故か成長の途中で刷り込まれてしまった私には、凄い勇気だなぁと思ってしまいました。
きっと覚りを開いた道元禅師には、勇気など必要なく、そうする事こそ自然だったのでしょうね。