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「死にたくない」と思わないのは、おかしいことですか

回答数回答 7
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こんにちは。
今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。
だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。

生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。
それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。
親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。

でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。
一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。

もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。
私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。
こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。


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お坊さんからの回答 7件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

素晴らしい!

ピコさんへ、こんにちは。

もう人生を杭を残すことはない、まで極めてしまったのですね。素晴らしいことです。それであればいつお迎えが来てもいいのですから、気長に余生を送りましょう。もちろん自殺はダメですよ(笑)。

私も半ば人生もう充実したと思って同じく死んでもいいやって思いましたが、今は違うようになりました。あっという間に50歳になってあと20年で自分の夢が実現できるのだろうか?尊敬する漫画家の手塚治虫先生の「もっと書きたい」と言って死んでいったように、もっと生きたいと生への未練タラタラで死ぬのもいいなーと思って、今は生きたいと思い少し運動するようになりました(笑)。将来、この世の中がどうなるのか、見てみたい気もします。息子のために素晴らしい日本でいてほしい。日本の文化、天皇陛下の御代、国体護持を守って死にたい。とも思うようになりました。

命とははかなくものと知る度に、自分はどう生きるべきか、考えています。もう少し精進しなければと思う今日この頃です。合掌

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気にしなくていいですよ

おかしい事ではありませんよ。
実は私もそのように思っているのです。
いつお迎えが来てもいいな、と。
ですから、あまり気にしなくてもいいですよ。
しばらくは満足感を楽しみ、それに飽きたら次の目標をゆっくり探しましょう。
どのみち余生を過ごすなら、楽しみがある方がいいですからね。
これまでと真逆の事に挑戦してみるのもいいかもしれませんね。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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まだまだこれから。

ハッキリもう上げます。
あなたは入り口にさしかかたに
過ぎません。これからです。
お釈迦さまは、
長い厳しい修行ののち、
35歳で悟りを開かれましたが、
どうせ伝えても誰もわかってもらえないと、説法をされなかったのですが、
仏教の守護神であらせられる梵天さまが、お出ましになって教えを説きなさいと、繰り返し言われたので、
教えを広めるようになりました。
その後、齢80で入寂されるまで、
御布教に御身を尽くされました。
そう考えると、あなたが獲得した境地は、始まりに過ぎないと思えます。
私は、浄土の教えを信奉していますので、自力の修行はしていません。
詳しく書くことを憚りますが、
一種のこれ以上はないのではないか、
と思えるような満足感、充足感を、
味わった時がありました。
ただ、それは始まりの始まりに
過ぎない。
ちょっと辛辣な言い方かもしれませんが、
門前の小僧が、門の中の極楽浄土を
垣間見たに過ぎないと、
いまでは思っています。
何故かというと、
人は社会的な生き物なんです。
一人では生きていけません。
生業の仕事をして、生活をし、
人との軋轢や息苦しさに、
時には苦しみ、悩み、
はたまた、人との有難いご縁の中で、
有難いと、手を合わせて感謝する。
そんな娑婆世界の下世話な生活の中で、いやあ、自分の体得した、
境地なんぞは、
夢幻に過ぎなかったと気付かされる。
まだまだなんだなあ。
これからなんだなあ。
とつくづく思い知らさる。
あなたも、そんな境涯は
いますぐかなぐり捨てて、
今を生き抜く、
生き切られたらよろしい。
死んでも大丈夫?
まだまだじゃないですか?
私もまだまだ、これから。
あなたもまだまだこれから。
還暦に近い爺さんの私が、
いうんだから間違いない。
ガツガツともっとどデカイ目標を、
見立てて、頑張ることを期待します。
拙僧は、お寺を繁盛させること。
信者さんを増やす。
次に、お寺は寺子屋、駆け込み寺、
そうした社会的な役割を果たすべく、
生き抜く。だから、終わりがない。
始まりすらない。
お寺があったことで、救われた人を、
一人でも多く求めること。
だから、あなたも頑張りなさい。

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浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向...
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イチローのように

こんにちは、ピコサさん。
自分の思うような仕事を
仕上げたのですね。
良かったですね!。
幸福感に満たされているのですね。
でもすぐに、心はころころ変わって行きます。
イチローはなぜに満足することなく、
事あるごとに通過点ですと笑って受け流すのですか?。
彼の大切なことはヒットを打つ事ですが
もう十分世界中の人が認める大打者となり
世界一の数のヒットを打ちました。
でも彼は満足しない。
彼は、ヒットの数よりもヒットを打つまでの
日々の努力の中に人間が生きていく上での
大切な教えがあるという事を知っているのではないでしょうか!。
彼の言葉は何時も求道者のようで
いつも世間の人を引き付けて
止まないのはそのせいではないでしょうか?。
ピコさんまだまだ先は長いです
イチローの様に頑張ってください。

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青年の自立支援(生活改善・病後の静養・引きこもり等)
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大切なひと時ひと時を

拝読させていただきました。あなたのお考えはそれでいいと私は感じましたね。それぞれに生きる目的を持って希望を抱いて生きるわけですからね。ご自分が望ましいと思う人生を歩んでいただきたいと思います。
また人生生きていくとその時その時で価値観や生き様や目的も変わってきます。それもありかと思います。
人生は永遠に続くわけではありません。己れの生命が全うされるのは一瞬先かもしれませんし、明日かもしれませんし、10年後かもしれませんし、50年後かもしれません。
一時一時を自分に向き合い生きることが大切かと思います。
どうかこれからもあなたに充実した豊かなひと時ひとときでありますようにと心より神仏やあなたのご縁あるご先祖様にお祈りさせていただきます。

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Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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そんな死ぬなんて考えなくて良いです。

 ピコさん、はじめまして、文書を読ませて頂きましたが、本当に「私の人生は幸せだった」と感じる生き方は素晴らしいと思います。ただ私たちが生きているうえにおいて、苦しみやご縁が大切ではないかと思います。お釈迦さまの教えに「人生は苦なり」とおっしゃっていますが、本当に四苦八苦の苦しみをもって生きているのだという事です。それと「おかげさま」「お互いさま」という自分一人で生きているのではなく、周りの方々に支えられて生きている事が大事ではないかと思います。  合掌

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おきもち

山寺の住職です。他の仕事と兼務してます。
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善き因縁を調えるために

ピコ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

ある意味では、生にも死にも、とらわれない、こだわらない、かたよらないということは、まさに「中道」的な考え方として、仏教の理想ではございます。

とにかく、生も死も、因縁(原因と条件)によるものでございます。

まだまだ生きる因縁があるのであれば、善き心と善き行いへと向けて、できるだけ善き因縁をしっかりと調えて参りたいものでございます。

その善き因縁を調えていくための教えが仏教となります。

是非、これも一つの機縁として、更に仏教に興味を持って頂きまして、学び修されて頂けましたら有り難くに存じます。

ピコ様のお幸せを祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

お坊さま方、早々にたくさんのお返事をいただき、誠にありがとうございます。いずれもとても有り難く拝読し、何度も読み返させていただきました。お返事の内容ばかりでなく、私の漠然とした悩みにこんなにも真摯に向き合ってくださり、時間をかけてお返事を綴ってくださったお気持ちがすごく嬉しかったです。
それに、同じ仏教のお考えを持っているお坊さま方にもかかわらず、様々なご回答をくださったことも、とても意外なことでした。私は今までお寺にはあまり縁がありませんでしたが、お坊さまお一人お一人のご信念や情熱に触れられたような気がして、仏教にも初めて親しみやすさを感じました。こちらに投稿させていただいて、本当によかったです。

「人間、生まれることも死ぬことも、自分の好きなタイミングではできないんだな」と改めて思いました。生きることは喜びや幸せであるとともに、試練や罰でもある気もします。喜びの部分だけではなく、苦しみの部分からも逃げないことが、ちゃんと「生き切る」ということなのかもしれませんが、弱い私はそう思うとちょっとうんざりというか、ごほうびを先に受け取ってから義務にとりかかる時の子どものような…「うへぇ…」という気持ちになってしまうのです。
でも、毎日が辛く苦しいわけではなく、それなりに楽しいです。たとえるなら私は今、おとぎ話のエンディングのその向こうにいるのだと思います。シンデレラは王子様と結婚して「いつまでも幸せに暮らしました」けれど、きっとその後の人生でも、お城の中の人間関係にちょっと疲れたり、王子様との子どもが反抗期になったり、喜怒哀楽がそれなりにあったんだろうと思います。ストーリーが終わった何十年後に、中年のシンデレラがもっとドラマティックな出来事に遭遇することもあったのかもしれません。

皆様にお褒めいただき、人生の早い時期に1つのハイライトを終えて「悔いのない人生だった!」と言える確証を得られたことは、私にとってとてもラッキーなことだったのだと改めて思いました。続きの人生も焦ることなく、天命を迎えるその日まで、自分らしく生きていきたいと思います。
貴重なご指針をいただき、誠にありがとうございました。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ