人の人生は、平等ですか?
人の能力は、平等ですか?
最近、何もかもうまくいきません。その中でも、一番の悩みは、家庭です。旦那との関係がうまくいきません。どうしていいのか分かりません。
周りの友達や職場の同僚をみると、みんな幸せそうです。旦那とも仲良くて、子どももいて。仕事も楽しそう。なんで、私ばっかり嫌な思いをしなくちゃいけないんだろうか。男を見る目がなかったといえばそれまでですが、こんなはずじゃなかったと、後悔の毎日です。
今までの自分の人生を振り返り、良かったこともあります。人生山あり谷ありといいますが、その良かった時期の分を考えてもプラスマイナスゼロとは思えず、むしろ、マイナスだと感じています。この後良いことがあるなんて思えないですし。
人の人生は、平等なんでしょうか?
なんとなくうまくいく人を「もってる人」、何やってもうまくいかない人を「やっぱり、もってない人」だよね、なんていう表現を聞きますが、私は、もってない奴の分類なんでしょうか。これが、身の丈の人生なんでしょうか。
といっても、「そうだ!これがお前の身の丈だ。これがお前の人生だ。」と言われても受け入れることはできないかもしれませんが。ダサい旦那と人生を共にするのか。それとも離婚してバツがつくのか。どっちにしても、最悪です。こんなはずじゃなかったです。
今ごろは、子どももいて、楽しく暮らしている予定でした。
毎日が苦痛です。なにやっても楽しくありません。どうしていいのかも分かりません。こんな思いを相談する友だちや同僚はいて、親身に聞いてはくれますが、みんな他人事ですよね。当たり前ですが。心の中では笑っているんでしょう。
人の人生は、平等じゃないです。能力も不平等です。なにやってもうまくいく人はいく。いかない人はいかない。
私はこの先どうなってしまうんでしょう。本当に頼れる人がいません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
当たり前のことですが、人は平等ではないです。おんなじならロボットです。
違う環境でも、救われるのが仏教でしょう。男女、収入、容姿、年齢、過去の行い、何ににも左右されず今の様子だけで生きている人間だからこそ救われるのですね。
他の人と比較することは苦しみを生むだけのこと。人より自分の都合の悪い部分だけを見つけそれだけを集めたら嫌になるのは当たり前、それこそ自分勝手な見方になります。
仏教では、自分勝手な見方をする以前の様子だけで生きていくことを言います。損得を付け加える以前。自分は存在していません。だから人を妬むことなんてないのです。
平等でなくてもそのなかで救いがあるのです。
やすこさん、ご質問ありがとうございます。
人の人生は、平等ですか?
人の能力は、平等ですか?
あなたはこういう問を立てられましたね。
平等って、何なのでしょうか?
世間的に見ると、平等はすべての人が等しいという意味でしょう。
そう考えると、人によって、収入が違ったり、良いことがあったり無かったり、
そういう違いは不平等ということになりますね。
持ってる人と持っていない人、このような差があることに対して、
不平等だと叫びたくなります。
でも、平等ってそういうことだけなのでしょうか。
私たちは回向文で「平等施一切」という言葉を使います。
すべての者に平等に施すといったところでしょうか。
仏様の平等は私たちの平等とはちょっと違うようです。
例えば、このようなたとえがあります。
背の高さの違う人が水の中にいる。
背の低い人がおぼれないようにするには、高い台を足の下に。
背が立つか立たないかの人には、低い台を足の下に。
背が立つ人には、台を与えなくても、自分で顔を水面の上に出せる。
そうすると、みんなおぼれない。
救い、という基準からすると、必ずしもみんなに同じだけを施す
というわけではないのです。
きっとあなたは、救いの基準よりは上に行く施しを仏様から受けています。
そのことを、気付こうとしてみませんか。
平等ではありません。
それでも、悩み苦しみを減らす方法はあります。
自分自身の、欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩に気付き、冷静になることです。
過去の自分が考えた「予定」にこだわるのは、プライドの煩悩かもしれません。
「予定」は、修正可能なはずです。
しかし、予定変更に対応するのはエネルギーが要りますね。
みんな、エネルギーをケチりたい、怠けの煩悩があります。
あらかじめ決めた予定のとおりに行く方が楽なのです。
しかし、予定が狂ったときは、ギアチェンジして、スケジュールを変更するしかないのです。
「○○したい」「○○は楽しい」というのは、欲の煩悩です。
「○○は嫌だ」「○○はむかつく、悲しい」などは怒りの煩悩です。
まずは、自分の煩悩に気付きましょう。
そして、他人の煩悩には慈しみを持ちましょう。
理不尽な人生を、柔軟に軽やかに渡りきるために。
嫌な気分のときは、「欲・怒り・怠け・プライド」と呪文のつもりで念じてみてください。
やすこ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
人や社会、世の中には、平等なものと、そうでないものとがあります。
平等なものとは、仏教では、全て、独立自存にて成り立っているものは何も無く、実体の無い「空」であるが、しかし、存在しているモノ・コトというものは、何も無いという虚無・絶無でではなくて、他に依存するという「縁起」なるものとして成り立っているのが、平等であると考えます。全てが「無我」であり、また、「無常」であるということになります。
差別相としては、「縁起」の様態での顕れを世俗的に(実体として)捉えてしまうことによって出てきてしまうものとなります。
以上は、非常に難しいことですので、今はまだあまり深く考えるまでは必要ありませんが、ここから何が言いたいのかと申しますと、全てのモノ・コトというものは、「縁起」的に顕れており、つまり、良き因縁(原因と条件)に依れば、良い結果となるし、悪い因縁に依れば、悪い結果となるということで、更にその結果も自分の心の様態に依存して、そのような結果として捉えているものであるとして、一つには、自分のできることで、できるだけ良い因縁を調える努力に励むこと、もちろん限界や外部要因にも左右されてしまいますが、とにかく良い因縁(動機と行動)を調えていかないことには、やはり結果は望めるものにはなりません。
できるだけやれること、やるべきことで良い因縁を調えていく、そして、もちろん、結果として出てくるものを自分でどう捉えるかどうかによっても、結果の見方そのものも変わっていくこともあります。
「人間万事塞翁が馬」や「禍福は糾える縄の如し」という諺のような感じです。
とにかく、まずは旦那さんと、結婚した頃の純粋な気持ちも想い出されて、できるだけ良い結果の関係となるように努力もなさられてみられて、どうしても無理なようでしたら、我慢して不満とストレスだけを溜めながら過ごしていくというのでは、良い因縁を調えていくのも難しいことになってしまいます。
それはそれで次の行動を考えていくべきでしょう。
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
藤堂尚夫様
ご回答ありがとうございます。私は、今、救いの基準よりは上に行く施しを仏様から受けているということですか。この施しとは、一体なんなのでしょう。受けたら明るい未来はあるのでしょうか。
邦元様
ご回答ありがとうございます。平等ではない。ズバリな回答で、すっきりしました。やはり、平等ではない。平等でなくても、その中に救いはあるのですか。私にはどんな救いがあるのでしょう。
柳原貫道様
ご回答ありがとうございます。時間は平等。確かにおっしゃるとおりです。時間をかければ解決するのでしょうか。
願誉浄史様
ご回答ありがとうございます。おっしゃる通りで、私の煩悩なのかもしれません。周りの人にプライド高いという指摘をされることがあります。ギヤチェンジ…という言葉に納得しました。
川口英俊様
ご回答ありがとうございます。良い因縁を調える。確かにそうですよね。今の現状を受け入れて、明るく過ごせるようにしたいです。