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仏教における勉学

回答数回答 3
有り難し有り難し 27

ご閲覧頂きありがとうございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。
中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。

誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。

ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。

仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教語はややこしい。お坊さんが書く読み物の方がオススメです

ご返信ありがとうございます。パーリ語の原語が分かりませんので確実なことは言えませんが、「学識ある」という言葉は他の頻出ワードに置き換えると「理法を知る」くらいのニュアンスです。

329が分かりやすいです。中村先生の原文では「智慧」と書かれているものをやん様は『知恵』と書き直していらっしゃいますね。ココ重要です。仏教系大学で最初に習う所で、テストに出ます。
仏教では一般社会の『学識』、つまり知識をたくさん得ることを嫌います。世間で成功するためには大切なことですが、それと仏教の「苦を離れる」 という目標はまったく別のベクトルです。だから仏教では一般社会の『学識』を知恵、仏教的な理法としての「学識」を智慧と書き分けます。
平たく言うと、いわゆる頭の良さが知恵、生きる上での善い心の持ち方が智慧です。今、私が良さと善いを使い分けたの気付きましたか?慣れるまでややこしいですが、ココ重要です。

なぜ頭の良さを嫌うか?別に頭が良いと悪いわけでは無いのですが、結局のところ仏教は「手放しなさい」という教えなんです。親にとって我が子は大切です。でも、我が子かわいさにえこひいきばかりしていると、まわりの人と険悪になり、結局は自分自身も子供も窮屈にまります。そうではなく、我が子『だけ』という執着を手放し、我が子もよその子もママ友パパ友もみ〜んな大切にしましょう。そうすれば皆で支え合いながらwin-winの人生になりますよね?その方が賢いでしょ?と、さわりだけ話せばこんな感じです。
ここで一般社会の『学識』は得るベクトルです。これが「手放す」ベクトルと矛盾してしまうわけですね。

それでも仏教を勉強しないといけない。なぜなら「手放しなさい」ということを知るには、『手放しなさいという学識を得なければならない』から。この避けようのない矛盾を「維摩居士(ゆいまこじ)の沈黙」と言います。

そして学識を得てそこで満足をしてはいけない…皆そこで満足して歩みを止めてしまいがちだから知恵が悪者扱いされがちです。手放しなさいという学識を得て、そこから手放すことを実践してようやく本物です。

「宗教は学問に肯定的でない」イメージは科学とキリスト教が仲悪いからです。仏教としてはトバッチリです。
http://meaning.main.jp/modules/pico/index.php?content_id=2

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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仏教から観た勉強はこの自己を学ぶことです

実は仏教を学ぶ最大の目的は「仏教を学ぶことではない」のです。
そんなバカな!と思われるでしょうが、以下をご精読願います。
「お釈迦様は仏教❝学❞を学んでいない」からです。
後世の僧侶がお釈迦様の教えを情報化したり難解な学問のようなものにしてしまったものを私たちは仏教であると誤認しています。
そこに3センチ位のズレがあることを私たちは知っておくべきでしょう。
自己の真相を明らめた人が仏陀=覚者。覚者になるための教えが仏教。
道元禅師は【仏道をならうというは自己をならうなり】と示されているのは、その故です。
みんな仏教を学ぼうとするからお釈迦様からずれていって変な宗教になっちゃうのです。
だから「仏教・仏道を学ぶという事の真意は、この自己の真相を学ぶことである」と喝破。
ここが分ると膨大な書籍に押しつぶされずに道が開かれます。
仏教において「学」とはお勉強ではなく自己を学ぶ事です。
世間では「釈迦は仏教とかいうものを学び広めた人」と思われているフシがありますが、このはじめの一歩を間違うとかつての私のように仏教学問のようなものばかり学んで自己に目が向かなくなる。
普通「仏教」と聞くと、仏教らしいものを「概念」で想起する頭脳が働く。
このhasunohaもいわゆる「仏教」ジャンルでしょう。
ですが、それは月を指さす指。悟りの空へ旅立つための滑走路。
仏道の修行の上においては学問・文字・知識を詳細に理解することより、この自己が明らかになることの方が大いなる学びです。
原点のお釈迦様を考えてみましょう。
お釈迦様は仏教とかいう経典や書物を何も持たずに、裸一貫で禅定された時、❝学問や知識によらずして❞自己をハッキリと明らかにされました。それが悟りというものです。
その為の道標、悟りの空への滑走路となるための具体的な実践が真の仏教というべきものです。
道元禅師正法眼蔵現成公案はその具体的なありようを説かれています。
「仏の道をならうという事はこの自分自身の本来のありようを明らかにすること。それは自分意識をなげ捨てて自己を忘れること自然に一切の物事・事象によって、自己が悟りのありように導かれてハッキリと実証される。その様子は自他の隔てもなく、一切の物事が常にそこで完結している。(迷いも悟りも是非善悪も浄不浄も一切を飛び越えている。=脱落している)…その自己の真相を悟ることである。」

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おきもち

向こう岸(悟り・涅槃)に渡れば、捨て去る筏のようなもの

やん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教から見た「学問を勉強すること」について、でございますが、もちろん、例え仏教であっても、この世俗世間で生きていくためには、学問の勉強も当然に必要で大切なことになります。

ある程度、モノ・コトの分別、世俗的常識、生きていくための知識、仕事のための知識なども付けていかなければ、社会生活はとても営めるものでありません。その点は、仏教であろうがなかろうが、この世界で実際に生きて生活している以上は当たり前のことになり、疎かにできないものとなります。

しかし、仏教の最高真理としての「勝義諦」としては、学問も、学識も、知識も、分別も、これら全ては実体としては成り立っていない「空」なるものであって、そこにとらわれて、執着することはできないものとなります。

もちろん、それらにとらわれて、執着することはできないにしても、世俗世間で生きていくためには、完全に捨て去ることはやはりできません。しかしながら、あくまでも、それらは依存関係、縁起によって成り立っているものに過ぎないということを理解していくことが求められるものとなります。

仏教の目的とする悟り・涅槃へと向けて、学問も、学識も、知識も、分別も、もちろん必要で、悟り・涅槃という向こう岸へ渡るためにも必要ですが、渡り終われば捨て去る筏のようなものであるという感じでございます。

そのあたりのことの理解へ向けては、是非、興味がございましたら、龍樹大師の「中論」も学び進められて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

大慈 様
ありがとうございます。学識についての文でよろしければ、いくつかあるかと思いますが今ぱっと見つけたのは十三、正しい遍歴の371「信念あり、学識ある賢者が……」という部分です。

323「学識の深い立派な人」、329「性急であってふらついているならばかれには知恵も学識も増大することがない」など、学識あることを良いこととして書かれているのがいくつか見つかりました。

変更、ご解答ありがとうございます!
学識の学とは、国語数学理科社会のことではなかったのですね……。
やはり全くの素人がそのまま手を付けると曲解してしまいそうなので、もっと噛み砕いて説明された本から入ろうと思います。
「手放し」についてはお坊さんの草薙龍瞬さんが書かれた「反応しない練習」、まだ触りしか読んでいませんが「実践する」ことについて度々重要性が説かれていたので、大慈様のご解答を読んでいる時にピンときました。
また、「仏教から学ぶ実践方法」が解説されているんですが「ブッタのことば」で言われている「学識」とはまさにそのことだったのですね……。
「学識」を国語数学……の意味で読んでいた時に「仏教は執着から離れる教えなのに学問はすすめる?学問を学ぶとは知識に執着することでは?」という疑問がうかんでおり、この質問の根本ももとはこの疑問から発生したものだったので、大慈様のご解答がすっかり答えて下さって大変助かりました。
リンクも今少しだけ読んでみましたが、とても面白そうで、教えて頂きありがたいです。科学と宗教は対立するものとされていますが、(このイメージもキリスト教の影響でしょうか。)その科学のプロフェッショナル達が仏教を尊重するというのは、すごいことですね。
ご解答ありがとうございました!!

川口 英俊様
ご解答ありがとうございます!
向こう岸とは、仏教でよく聞く「彼岸」というものですね。
世の中を行き渡るために学問などは必要だけれども、向こう岸に渡ったあとは捨て去るものである、と……。
しかし、努力と苦労を重ねて得た知識だからこそ、捨て去るというのは苦しい選択ですね。この苦しみが執着とわかっていても難しい選択です。
教えて頂いた龍樹大師の「中論」、早速学んでみようと思います。
ご解答ありがとうございました!

丹下覚元 様
ご解答ありがとうございます!
「それは月を指さす指。悟りの空へ旅立つための滑走路。 」
ははあ、すごい言葉ですね……この一言だけでみごとに仏教とは何かを説明されていると思いました。
月を指差せば月にたどり着けるわけではないように、仏教は方法や手段を教えてくれるものであって、仏教を学んだから悟ったというわけではないと。自分に帰化することが大事なのだとよくわかるお言葉ですね。
「仏の道をならうという事はこの自分自身の本来のありようを明らかにすること。」
仏教を文字で学んでいると、時々この最重要なことを忘れてしまいそうになるのですが、頂いたこのお話しを胸に刻んでさらに深く仏教に触れていこうと思います。
ご解答ありがとうございました!

「仏教全般」問答一覧

良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

有り難し有り難し 9
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ