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諸行無常について

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よく仏教の教えとして「全ては諸行無常であり、変化しない物はない」と言いますが、これについて少し疑問に思う所があります。
たとえば仏教の中道では相対概念の一方に囚われる考えを執着として否定しますが、
「変化する」という概念も「変化しない」の相対概念ですから、
変化しないものを全面的に否定する「全ては変化する」という考えも執着とは言えないでしょうか?

また、これらの言葉を「固定・流動」と置き換えて、龍樹の論理に当て嵌めて解説して頂いても構いませんでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

法則は行ではない

なんだか懐かしいですね。諸行無常なら仏も諸行無常も無常なんだから嘘だ!と言う人は昔はよくいたのですが、そういえば最近見かけなくなりましたね。この手の回答は久々です。

一切無常ではなく諸『行』無常であることに留意しましょう。行とはsamskaraという歴とした仏教語です。同義語は有為(うい、造作されたもの、同じくsamskara)です。造作されたものと言っても「人工の」という意味ではありません。現象のことです。私たちの身体も原因の足し算によって積み重なっている現象です。
ここで諸行無常という法則自体は現象ではありませんので、諸行無常も諸行無常であるというのは飛躍になります。質量保存の法則で「全ては気体・固体・液体と形を変えても質量は変わらない」と言っても「質量保存の法則自体も質量が変わらない」とはなりませんね。それと同じです。

「変化しないものを全面的に否定する」というのも言い過ぎです。諸行無常・諸法無我はアートマン(ずっと輪廻し続ける永遠の魂のようなもの)へのアンチテーゼだったものですから、「執着すべき現象は何も無い」というメッセージで受け取らないと話が変わってしまいます。

中道にしても「両極端を避けなさい」と言ったからといって「真ん中を取れば良い」というわけではないのです。「来世は有るか・無いかという軸に対して因縁生起」というような第三の答えでもあります。つまり今問題視されている軸自体から離れて、あるがままに見なさい。それ以上 or それ以下に膨らませてはいけませんよ…ということです。

さて、大学入試か何かに出題された現代文の問題をその著者がやってみたところ赤点になり、著者が怒ったということが昔あったそうです。著者の意図するメッセージと、断片断片の論理は必ずしも一致するわけではないわけですね。一語一語の解釈を拾っていくのではなく、メッセージの部分を確実に押さえていく学びが肝要です。そのためには一度論蔵を離れ、現代のお坊さんがメッセージの部分を強調した読み物で仏教的な感性を養ってみてはいかがでしょう。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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二諦の理解が必要

akbcde様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「諸行無常」については、世俗諦的な教えであると理解してます。

「全てのモノ・コトは、因縁によりて変化していく」という意味合いとなります。

しかし、本来は因縁(原因と条件)にも実体はなく、「空」なるものであって、どの因も縁も、あるいは果も、固定して言及しようのないものであるため、一応は、言語慣習に依拠して、措定して方便的に述べられている教えであると「諸行無常」も理解するのが妥当であるものだと考えています。

ですから、当然に、「変化する」、「変化しない」、「流動」、「固定」とも、それらが仏教において言われていることも、それぞれ方便的な意味合いで用いられている場合があるため、その概念に対してとらわれて、執着することも、本来はできないもので、また、「諸行無常」のみならず、仏教の教えにおいては、便宜的、方便的な教えに留まらざるを得ないという限界が、どうしても付き回ることにはなってしまいます。

その限界の先を何とかして言葉、論理によって指向しよう、超えていこうとして論究なさられていったのが、龍樹大師をはじめとした中観派の論師たちとなります。

特には、「二諦」(世俗諦と勝義諦)の理解が大切となります。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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悩み苦しみの解決に役立つかどうか

仏教は、悩み苦しみの原因を制御したり消したりして、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えだと思います。
そのために無常だと気づいた方がよいものに対しては、無常だと思えばよいのです。
一方で、悩み苦しみの解決に関係ないものについては、無常かどうを考える必要さえないのかも知れませんね。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

初歩的な勘違いをしておりました・・・。お恥ずかしい限りです。
回答して下さった皆様に感謝致します。
有り難うございました。

「諸行無常」問答一覧

生家がなくなる

お忙しいところ恐れ入ります。 生家がなくなる寂しさについて、乗り越え方や考え方のヒントを頂戴したくご相談させてください。 この度両親が定年退職し、まったく縁のない地方に移住することになりました。 新居も購入済みで、本人たちは第二の人生ということでワクワクしているようです。 当然ながら実家はそのうち売りに出され、私には帰る実家や地元に帰る意味がなくなってしまいます。 地元が大好きで心の拠り所としていた私にとって、生家がなくなることは思っていた以上に辛く、なんだか宙ぶらりんになるような心地で辛いです。 (今は結婚して居場所もあり幸せではありますが、自分のルーツが無くなる感覚がとてつもなく寂しいです) 親本人たちが幸せなことが一番ではありますが、毒親で振り回されていたこともあり、「また振り回されるのか…」と思ってしまう面もあります。 いずれ年老いて親は先立ち、みんな遅かれ早かれ実家はなくなるものだと思いますが、まだアラサーです。 周りは慣れ親しんだ実家に帰って安心することができるのに、私はできない。 帰る場所が物理的に消える。 大事な柱を一本失ったようで、どうにも寂しく、内心受け入れられません。 実家や地元に対する執着だと思いますが、仏教ではどのように考えて気持ちを手放すのでしょうか。 ヒントをいただけますと幸いです。

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諸行無常、生きている人の心のあり方

亡き母は、ある事業を運営していましたが、まだこれからという時にがんがわかり、あっという間に亡くなりました。 子供の頃から情熱的に活動していた姿を見てきたので、どんなにか残念で、悔しかったことと思います。 私はすでに他の仕事をしていたこと、また、子供個人の幸せを願ってくれましたので、事業は継がず無くなりましたが、母の情熱、精神は忘れることはできません。 それから数年経ち、その経験は、自分の新しい仕事に活かしています。 いましんどく感じているのは、その業界でいわばライバル的存在だった事業が活動をしていることです。 その関係者とは、もと協力関係にありましたが、トラブルがあり、仲違いしました。気に入らない利用者は満足に面倒をみない等、自分勝手な事が多々ありました。 不誠実さを糾弾すれば、足並みを揃えないほうが悪いと。貸したものも返してもらえないままでした。母は不毛な争いを避け、思いやりを大切に、最後までこつこつ活動を続けました。 真面目に取り組んできたほうは追いやられ、力尽きてしまい、ずるいあちらはなぜいい思いをしているんだろう。そう感じてしまいます。 今でも時々夢に出てきて、むなしく思います。 利用している方々は悪意はないのでしょうが、付き合えるということは、自分勝手な人の集まりなのかも、と感じます。 事業に関わった多くの物品、思い出の品々も、捨てられず、そのままです。利用している方々のためにお譲りして、使っていただけたらとも思いましたが、あちらにお渡しするのも考えられません。 この気持ち、思い出、思い出の品々、 受け入れ方、消化の仕方、なにか手掛かりになるお言葉をいただけますと幸いです。

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無常というものにひどく虚しさを感じます

大学受験間近の受験生です。 文には至らない点があるかもしれませんが、ご了承ください。 私の受験が近づいていくにつれて、親も私も不機嫌になったり口論することが増えていきました。その度に毎度「昔(幼少期)に戻りたい。」「祖父母がまだ元気で、仲の良かった親戚たちと定期的に集まっていたあの頃に戻りたい。」など過ぎた温かい記憶に縋ってしまいます。悲しくなって、ふと目に入った私が幼少期の時に母がせっせと作っていたアルバムを見て、大好きな母からの愛を改めて実感しました。しかし、今目の前にいる母親は、私が絡めば絡むほどやっぱり不機嫌になって向こうを向いてしまいます。それがとても悲しいです。私に勉強してほしいのは十分わかっていますし、母も仕事で疲れているのもわかっています。自分の合格が一番の親孝行というのも分かっています。 だらだらと前置き失礼しました。私の最も不安なことは、上手く言えないのですが、時間が自分の周りの環境をゆっくり壊しているような気がする事です。 今までの家族の幸せだった思い出と全く同じ体験はできず、また、これからの人生体験する楽しいことが全て「楽しかった過去」に変わっていくことにひどく虚しさを感じます。 まだ子供のくせにと思われるかもしれませんが、無常というこの世であたりまえであるものが受け入れきれません。 私はやはり考えすぎなのでしょうか? 時間が経つということが怖くて虚しいものだとマイナスな考え方をしてしまいます。 無常観についてどう考えるべきなのでしょうか?

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「無常」について理解出来た気がするが…

初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。 私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。 なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。 勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。 ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。 こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。 都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。 また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。 歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。 果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか? 仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ