hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

お坊さん、好きなことができなくなったことってありますか?

回答数回答 4
有り難し有り難し 86

はじめまして。花坂 埖(はなさか ごみ)と申します。

どうぞよろしくお願いいたします。

わたしは現在、とあるWEBメディアでライターとして活動しています。hasunohaの存在も、そのメディアの編集者から聞き、はじめて知りました。

そんなわたしが今回お悩み相談したいことは、
「大好きだった言葉とうまく向き合えなくなった」です。

わたしは幼少期、全く友達がいませんでした。
そんな中で友達の代わりになってくれたのが、本の存在でした。本を読んでいると、自分が寂しいことを忘れ、自由になれた気がしました。

いつしか本だけでは飽き足らず、インターネットの誰かが書いたブログ、週刊誌の記事……とさまざまな言葉を読むことが好きになりました。

またわたし自身も手紙を書いたり、作文を書いたり、言葉を書くことがかけがえのないことになりました。一番好きなことではなかったけれど、一番得意なことだったからです。

わたしにとって言葉を読んだり書いたりすることは、世界とうまくつながることでした。

だけどある日、突然言葉を読むことができなくなりました。急に自分は最低な人間で、言葉を読んだり書いたりする価値がない人間のように思えたからです。

あんなに楽しいほどにするすると言葉を読んだり書いたりできていたのに、それがとても苦痛な行為になりました。言葉を読んだり書いたりすることができないわたしには、存在価値などないと思いました。一時期は、言葉を通して世界とつながるのは諦めようと思いました。

だけど、わたしはやっぱり言葉が好きです。今でも言葉を読んだり書いたりすることにしがみついています。たぶんそれしか打開する方法がないからです。

それでもやっぱり、言葉を読んだり書いたりすることがとても苦しく、辛く、そして言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分がとても、悲しいです。

お坊さんは、好きなことができなくなったことはありますか?そして、言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分はこれからもできないままなのでしょうか?そして、大好き
なことができなくなったWebメディアの読者の方へもメッセージをいただけると幸いです。

長々と失礼いたしました。どうぞ、ご回答いただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。

花坂 埖


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

真剣になるとたいてい苦闘の連続です

私は以前、社会学の研究者を目指して勉強していたことがあります。
子供の頃から本が好きで、大きくなるにつれて社会や文化の問題に触れたルポルタージュや紀行文を中心に読むようになりました。親が教員だったこともあり、自分も教員になって趣味で読書を続けられれば文句はない、と思っていました。
大学に進学し社会学関係の書籍を読んで魅了され、もっと深く本格的に勉強してみたいと思い、渋る親を説き伏せて大学院に進学しました。
ところが、いざ研究者を目指すトレーニングとして社会学の文献と向き合うと、これほど苦しく読み辛いものはなくなってしまいました。
「しまった、まったく向いていない道へ入り込んでしまった」と焦りましたが、周りをみれば楽しくルンルンと研究している者は一人もいませんでした。大学院生も教員も皆、ウンウン苦しみながら文献と格闘していました。
仏教界隈にも「仏教好き」な人たちがいます。中には一念発起、出家してお坊さんになる方もいます。私も個人的に何人か知っていますが、皆、お坊さんになってから楽しくルンルンしているようには見えません。中には「私の思っているものとは違った。騙された」と怒りに震えて音信不通になってしまった人の話も聞きました。
思うに、趣味の範囲で楽しめていたものも、真剣に正面から向き合うような構えができると、とたんに相手は辛く手ごわいものに思えてしまうのではないでしょうか。
好き好き、だけで楽しんでいたものが、楽しめなくなり手ごわいものとして見えてくるということは、案外、自分の構えや力量が、それと正面から対決できるレベルにまでなった印と考えることもできるのだと思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。
このお坊さんを応援する

クリエーターは それはしょっちゅうあるから!w

初めまして!尼僧漫画家の悟東あすかです。

神仏を拝む事と漫画を描く事が大好きです。
私は普通の家から発心して出家して修行したので、お寺は持っていません。
でも、祈るのが大好きで大好きで、気がついたら修行も終わって僧侶になっていました。

漫画も描くのが大好きで大好きで、それで大好きな祈りで見つけた世界観を漫画で描きたくて漫画家になっていました。

でも、祈るのがとても辛くなった時期もあります。

そして、漫画も描くのが辛くなる時が良く来ます。

それは、自分が描いているものが、人には面白く無いんじゃないかって思ったり、あと理由も無く悶々と悩んで描けなくなる時もあります。
それから、変に頭から否定された時とか…でもって、その否定を受け流せば良いのに、真に受けてしまった時とか…。いわゆるスランプってやつだと思います。

そんなときに、漫画家としては大変先輩で今はもう亡きある方から、こんな事を言われた事があります。

『大好きで良いものが描きたいからこそ、悩んで描けなくなることがあるんだよ!
皆同じなんだよ!キミだけじゃない。肩の力を抜いて!』

好きであればこそ出来なくなるって事があるんですよ。

出来ない時に無駄にジタバタするより、今の自分に出来る事だけでもやって、時間を置くのも良いかもしれません。

そして、あなたの中にある「楽しい!」という感覚のアンテナを伸ばして
出来るだけ楽しい事をしてみましょう。

『楽しい!」という呼び水に「大好きな事」は再び湧き出して来ます。

後は、四の五の言わず兎に角やってしまうと出来なかった好きな事が出来る事もありました。

出来ないで来ないと自分を縛る事をまずやめてみましょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

仏道に入門して39年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...
このお坊さんを応援する

好き、にこだわらない。

この間、「最後の秘境 東京芸大」みたいなタイトルの本を読みました。貴女とジャンルは違うけれど、「その道」では腕一本で生きていこうとしている方々です。その中に、「嫌いになっても、何故だか離れられないんですよ」と、ご自身の専攻について語っている人がいました。
私も、言葉を扱うのは嫌いじゃありません(好きです)。けれど、このhasunohaの回答ペースというか、勢いにはムラがあります。回答してなくても日常で言葉は使っている訳で、「この場で表現する・回答する」という動機の濃さが変化するのだと思いますね。私たちは根本となる教えがありますから、極論すればいつも同じ事を言っているのです。だからかしらね、「過去問嫁ってばさぁ〜」って、時々思うのです。で、勢いが落ちる。
そんな時は正直に、暫く離れます。去年の12月にも、「何となく、1週間見ない」期間がありました。けれどその間、「イヤ俺は回答が好きなのに、言葉を使うのが好きなのに、やってない!」とか、焦ったりはしませんでした。寧ろ新しい体験をして、今まで持っている言葉を意味付け・解釈し直すという期間だったのかな、と思います。
気になるのは、「ある日突然、変化した」というところです。何があったのか分かりませんが、「言葉は誤解の元になる」事を念頭においていれば、「やっちまったか」程度で済むのではないかしら。分からないけど。
あとは、何事も「好きだけでは成し遂げられない」ということです。つまり、技術を磨かねばならないということ。芸大の人も同じですが、我々も言葉の使い方は技術として身につけねばなりません。
「好きなことができなく…」うーん、ありませんね。その時には「ちょっと好きじゃなくなった」のでしょう。心は移り変わるものなので、悲しくはなりません。「書けない」という現実に素直になる。「涙は出てるけど、悲しくない」って言い張っても仕方ないでしょう?またネタがたまると、ふっと書きたくなるんだろうな、と思う程度です。「好きなものは、好きでい続けなければならない」ということはないのです。仕事だから書く、ということであれば「好き」という感情に依存しないことが必要と思われます。
「大好きなことができなくなった〜」の回答も同じです。先日、林師が紹介された良寛さんの言葉(病気の時は〜)と同じです。

{{count}}
有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
このお坊さんを応援する

言葉とは道具に過ぎない

読書は確かに文字を通してさまざまな人の考えかたを知ることが出来たり、知識が増えたりします。しかし、これはすべて考えの世界。現実とはまるで違う世界です。
文字が読めない、書けないと言いつつここに質問することが出来ている。これが事実でしょう。

書けない読めないような気持ちになっているだけでしょう。
人は、気持ちや思い、心、考えといったものに振り回されやすい生き物だと思います。目の前の現実、事実から目をそらし思いを優先したくなるのでしょう。妄想は楽しいのかも知れません。

しかし、人は現実を生きています。この身体を使い、今という瞬間を生きているのです。過去も未来もない、今の様子に触れて文字なんて読めなくても、生きています。昔の日本人は読み書きできなくても問題なく生きていたでしょう。ただの道具に過ぎないのですよ。目の見えない方や耳の聞こえない方でも救われる道が仏道です。

安心して大丈夫ですよ。きちんと学べば救われますよ。

{{count}}
有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
このお坊さんを応援する

「お坊さんのことを知りたい」問答一覧

他人がやってる寺を兼務で引き受けたくない

40代独身で、500件ほどの檀家がいる田舎の寺の住職をしております。 近所の住職死亡後、やり手のない寺を数件、兼務しており、合わせると500件ほどになります。 もともと別の自宅住まいでサラリーマンをしてましたが、途中親が病気にかかり、長男で跡取りだった私に、やってくれと親から頼まれて継いだのがきっかけで、仕事を辞めて継いだのですが、もともと私は他人とコミュニケーションを取るのが苦手なので、現在寺の檀家との関りが大変で、葬式が入る都度、寺の仕事が嫌でたまりません。 そのような状態で、精神科に通院しながら、精神安定薬と睡眠薬を処方してもらいながらなんとか寺の仕事をしてます。独身の姉にも協力してもらい、私が檀家の対応全般、姉は裏で火事全般しながらどうしてもの時だけ檀家の対応・・・みたいな感じでやってます。 近所に檀家100件にも満たない兼業住職がおり、結婚してますが子供に恵まれなかったようで、私はその寺のほうるいという立場になってます。 その寺の行事を手伝っているのは私だけで、ほかにもほうるい住職が数名いますが、書類の名前だけで、何かあっても一切かかわりたくないような状態になってます。 その住職が近々危なく、後もいない状態で、その住職の兄弟などの身内はいても、皆仕事をしており、寺なんかやりたくないと皆いっております。 今後その住職はなくなった際は、ほうるいの私がその寺を兼務として引き受けないといけないのでしょうか? 今現在500件ほどの檀家の対応を私と姉で行っており、相当きつく、これ以上ほかの住職がやってる寺の檀家のめんどうまで見れません。 正直な話、もう今なんとかやってる自分の寺の檀家の対応だけでも相当大変なので、これ以上ほかの寺の檀家まで兼務で押し付けられたくなく、関わり合いになりたくありません。 こういった場合、今後その住職がなくなった際、その寺の兼務を断ることは可能でしょうか? 本山に事情を説明し、頼めばだれか代わりの住職を派遣してもらい、後を継いでやってもらうことはできるのでしょうか?

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

お坊さんの勤務形態について教えて下さい

離婚問題で悩んでいる時、バツイチのお坊さんと知り合いました。最初彼から遊びの誘いがあり。失礼な人と断りました。今は友人として付き合っています。 友人関係が続いたのは、後日先日の行動が人として大変失礼な対応だった。反省していると、彼から謝罪があったからです。その際にも、ちゃんとしたお付き合いの話はありませんでした。 私は元夫から多種のDVをうけ男性不信になりました。いつか恋愛出来たらいいなと夢見ながら、男性が怖いです。結婚は絶対に無いです。 加えて彼は寺の跡取りで一緒に家庭を築き、寺に入り子供を産める人を探しています。私は子供を産むこともできません。だからあえてハッキリさせないようにしてました。 その後仲良くなるにつれ、プライベートを明かさなかった彼が以前より私にプライベートを見せるようになりました。気付けば毎日メールで連絡をし、月2~3回程度、昼夜時間を割いては健全に遊んでいます。トキメキはないけど気持ちは【凪】です。友達以上恋人未満の1番いい感じの時 自然と今以上仲良くなる予感があり、仲良くなりたそうな行動が見えたり、泊りがけで旅行に行くような話もチラホラ、ただ、お坊さんの勤務形態ってどうなんでしょう? 私は会社員で有給もあります。毎月月末に翌月の予定が未定。次のデートの約束は大抵決まりません。休みがまだ決まらない。分からないって、そんな事ありますか?もうずっとそんな状態で、深く付き合いたくないから、遠回しにそう言ってるのだと思うようになりました。 嫌なら嫌と言って欲しいのに旅行は行きたい、遊ぶのも仕事終わりなら全然大丈夫、凄いケチなのに自分から遊びにも誘って車も出してくれます。 どうゆうこと?と、モヤモヤしてますが、でも誰にも聞けず、彼もはっきり言わないので、やっぱり遊ばれているのでは?と思う反面、彼は嘘をつくのがべらぼうに下手で、私には嘘をついた事がない為、もしかして本当なのかも?と思いたい気持ちからこちらにお聞きしました。 休みが分かりにくいって業界的に本当ですか?何でですか?ちなみに彼は実家の住職をしながら、別のお寺に本業で務めています。本業の休みの日に実家で法事をしたりしています。 この関係がハッピーエンドにはならないと分かっていますが、一緒にいるだけで気持ちが穏やかになれる相手です。嘘ばかりの元夫の毒が抜けていく気がして魂が救われています。

有り難し有り難し 13
回答数回答 1

尊重とはどこまでですか?

ハスノハのお坊さまのおかげで「他者を尊重することが大事」なのはよくわかったのですが、尊重とはどこまでするものでしょうか? モラルに欠けた発言なども尊重するべきなのかと考えたりします。そもそもモラルというのも曖昧だと思うのです。人によって違うと思うので。 「平和だからこそ戦争が必要だ」なんて言う人もいると思うのです。これは一般的には理解されないし尊重されないことだと思いますが、「他者を尊重することが大事」ならそれすらも認めることになるのかなと思います。 これが"尊重"なら、もし私が仮にいじめを受けたとしても「これ(いじめ)すらもその人の一部なのだな...」と思うのではないかと思います。 いじめや犯罪や浮気や不倫など、世界の"事"全てです。 社会のルールを基準にするのかな?とも思いましたが、それは"社会の思い込み"の可能性もあると思いますし、何よりそれは「他者を尊重できている」のでしょうか? 社会のルールという名の"正義"で個人個人を存外に扱っているのでは?と思います。 倫理も一緒です。全て人によって違うと思うのです。 例. Aさん「別に人をいじめてもいいでしょ?」← これも"Aさんの考え"で「Aさんの一部」なのかなと捉えてしまいます。この場合、Aさんは他者を尊重できていないと思います。ですが、それを注意すればAさんの価値観や考えを否定している(尊重できていない)ことになるのかなと思います。 そうなると無関心に見えると思いますし、この文章の通り「〜と思います」や「〜なのかな」などボヤっとしてハッキリしなくなると思います。 その結果、他人が「〜でしょ」や「〜です」と言うことに神経質になると思います。なぜなら、それがその人の思い込みの可能性があるからです。 でも、その人の思い込み = その人の意見なのでモヤモヤしても無理して尊重する。 尊重とはどこまでですか? 行き過ぎれば無関心に見えてきます。"相手とは違う自分の意見"を言えば否定されていると思われ、注意すれば「他者の意見を尊重できていない」ことになり、じゃあ何も言わないとなれば、無関心と見える。 お坊さまは尊重する際、何を"基準"に持ってらっしゃいますか? 乱文で申し訳ございません。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ