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死期を決めること

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有り難し有り難し 21

常に自分の体のことを考え、生きていく。
家族は自分のことばかり話、心配してくれない。
耳のことを考え転職するにもどんな仕事がいいのかわからない。
死期を決めてあと一年で死ぬと決めることが、精神的に楽になれるのではと思います。
吐き出してばかりすみません。
毎日八つ当たりしてやけになってます。
苦しみを認めたらやけにしかなれないんです。
苦しまずに早く死にたいです。
楽しかった毎日が遠いです。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死期を定めることを本当に考えてみることは、大事なことです。

死期を定めること。それによって、御自身の「いのち」と
向き合えるということであれば、それはよろしいことだと
思いますが、

いつ死ぬのかすらわからぬのが我々です。
明日、いや、このあと、ふいに心臓が止まる。事故にあう、
そんなこともよくある話なのです。

ですから、あと一年を苦しみなく生きる、ということは、
その一年をどれだけ「大事に生きるか」に尽きるのでは
ないでしょうか。いつ死ぬのかも儘ならないわけですから。

そうして、「大事に生きる」ことに尽くしたとき、
いかに自分や他人が「自分の都合」によって振り回されているかにも
気が付くはずです。

大事に生きること、それは、いまの自分の「あるがまま」で生きることです。

「あれもわたしにはない。これもわたしにはない。」
じぶんの都合にあうような「ないもの」を探して、心を砕くのは
大事に生きてはいないのです。

死期を定めて生きる。それは、
とても大切で、とてもあなたに合った生き方を見つける、
素晴らしいものになるのではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

自分の弱さを病気のせいにしないで!

こんにちは、みきさん。
自分に降りかかってくるものには
全てに意味があります。
それを一つ一つ超えていくのが人生です。
その超えていこうとする日々の努力の中に
生きている意味が輝き出すのです。
自分の弱さを病気のせいにしないで
前を向いて下さい。
自分の病気を遠くから見ると苦しさは増すばかり
勇気を出し正面から病気と向き合ってください!。
それが、今、生きているという事です。
それを我々は、日日是好日(にちにちこれこうじつ)と言うのです!。

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おきもち

青年の自立支援(生活改善・病後の静養・引きこもり等)
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自己治癒力を上げるために

みき様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

色々と身体の不調がおありのようで、誠におつらいことでございます。

以前のご質問も拝見させて頂きました。

身体の不調には、もちろん色々な機能低下の問題が控えているのではないかと存じますが、不調を治して、自己治癒力を向上させるために、免疫機能の回復とデトックス機能の回復が必要なことのある場合がございます。

また、都度出てくる症状への対症療法では、根本的な治療になっていないことも考えられます。

不調が都度都度、各所に出てくる場合には、何か根本的な原因があると考えて、治療に取り組むことが望まれるものとなります。

根本的な原因として、例えば、ホルモンバランスの変化による副腎機能の低下なども考えられます。

とにかく、一度、自己治癒力をあげるためのことについても調べられて、考えられてみて下さいませ。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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自分に向き合ってみませんか。

みき様
こんにちは。拝見させていただきました。

永年押さえ込んできた感情があふれ出してきているのではないかと文面から感じました。特にご家族との関係が心の底に重荷となってのしかかっているのではないでしょうか。「私の事を見て欲しかった」「気持ちを受け入れて欲しかった」「愛されたかった」「そのままで信じて欲しかった」という気持ちがないですか。ご両親をイメージして「言って欲しい言葉」を想像してみてください。それがみきさんが欲していた言葉なのだと思います。

失礼を承知で言いますが、ご両親は強く心に不安を抱えて生きてきたのではないかと思います。あるいはご両親も親との仲が良好ではなかった。不安を抱えた人は他人を受け入れる余裕がありません。ないどころか近くにいる立場の弱い者(子供)に無関心になったり傷つけることで自分の不安から目をそらそうとします。あなたが価値がないのではなく大人、両親の言葉を「信じてしまった」のです。子供は甘えたいですものだからこそ大人の言葉は心の縛りになりやすいです。

自分を受け入れるとは、弱い自分を認めることです。「受け入れて欲しかったんだな」と自分が押さえてきた気持ちを聞いてあげること。そして「期待」にとらわれていた心に気づくことです。あなたはここまでこんなにつらい環境の中でも強く生きてこられました。その強さこそが本当です。そしてハスノハという仏教に出遇われた。まさに仏様は見捨ててはおられなかったのだと私は確信します。

「つらかったなぁ~でもまぁいっか仏様が一緒にいてくださる」つらい時はつぶやいてみてくださいね。

厳しい事を書きました。他人の言葉に縛られた人生ではなく自分の人生を歩み始めること。それは決して楽なことではありません。覚悟がいるかもしれません。一歩踏み出してみませんか。応援しております。

合掌

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有り難し
おきもち

御縁があって一般人からお坊さんになりました。現在は小さなお寺の住職をさせて...
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質問者からのお礼

皆様ありがとうございます。
自分なりに身体を悪くなる自分を受け入れようと試みているところです。
日常生活を送るなかで不具合が生じることに本当にショックですが、あと一年と死期を決めても怯えていたのでは、目的をはたせないので、精神を落ち着かせる方法を模索してます。
親孝行と小説を書き上げたいです。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 13
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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ