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死に行く人への心構え

回答数回答 4
有り難し有り難し 42

先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。

中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。

先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。
ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか?

そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。
先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「あなた」の「今」の死への思いが聞きたい

「枕経」の質問に回答した者の一人として、気になっており、すでにお二人の回答が入っておりますが戻ってきてしまいました。

さて、「そのような人の、死に際しての心構え」つまり、ご質問における、

「どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っている」人

ということになろうかと思いますが、これではなんとも申し上げられません。

仏教はこういう場合はこうすればいいという処世術でも、こうなった時はそうすればいいかという対処法の予習でもありません。

仏の教えは正に今、悩み苦しむ人に寄り添う具体的なはたらきかけでございます。

「そのような人」ではなく「あなた」が「今」何に悩み苦しみ、どういう状況なのか。おそらく前回の質問から推察してもお抱えの大きな課題があることだと思います。

書ける事、書けない事、インターネットの特性への恐れもおありでしょうが、もしかしたら私たちがまた何か力になれることもあるかもわかりませんので、また機会がありましたら「具体的なあなたのお話し」をお聞かせください。

人間の死亡率は100%です。そういう意味では心構えも確かに大事でしょう。しかし、それはあくまでも具体的な生の歩みの中から問われてくるものでありましょう。

生もご縁、死もご縁。私が望むものも、望まないものもみなご縁。あれはいるけど、これはいらないというわけにはいかないのです。それが老・病・死の縁だとしても。

共に仏の教えに「私」(あなた)を聞いて参りましょう。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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念仏を唱えるだけです

死は宗教、宗派、個人の思想などによって様々な受け止め方、解釈の仕方があります。
私としては、死を前にした人や生き物に対してできることは念仏を唱えること、念仏を聞かせることだけです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と聞こえるように唱えるのです。
阿弥陀仏は、極楽浄土へ行くことを願って阿弥陀仏の名を唱える者を、命が尽きた瞬間に迎えに行き極楽浄土へ連れて行くと誓われました。
極楽浄土とは覚りに至る為の仏道修行をする所ですが、更に、先に行き修行しているご両親やご先祖達と再会できる所でもあります。
枕経とはその名の通り、本来ならばまだ息のあるうちに念仏を唱え聞かせてあげたいのですが、実際はなかなかそういう事もできず、亡くなった後で唱えることが多いのが実情です。
しかし、浄土宗の宗祖法然上人は、人は儚くいつ死ぬか分からない、夜寝れば必ず朝が来るとは限らない、いつ何処で命のともし火が消えるか分からない、だから死を前にして念仏を唱える事、念仏を聞く事が出来ない事もあるだろう。だから、常日頃から念仏を唱えなさい、毎日念仏を唱えなさい、と言われました。
私としても常日頃から極楽浄土を願って念仏を唱えて欲しいと思います。
声が出なければ声を出しているつもりで構いません、それも難しければ代わりに周りの人が唱えて聞かせてあげてください。
南無阿弥陀仏

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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次の生もしっかり頑張って下さい、です(補足あり)

曹洞宗で最も多く読まれている枕経は「佛垂般涅槃略説教誡経」です。
これは涅槃に入られるお釈迦さまが弟子たちに最後の説法として佛弟子の生き方を説いたものです。

このお経には極楽も地獄も出てきません。天女が舞い降りて来て妙なる音楽に包まれながら亡くなった方の魂を光の国に導いてくれる、なんてことも一切書かれていません。
佛の教えをどうやって実践して生きるか、ということがこんこんと説かれています。

死は今生の区切りとなる一大事ですが、だからといって「これで完結。大円団」というわけではありません。今生の生き様が宿縁となって、やがて後生が始まるのです。

道元禅師は「私たちは善い宿縁のおかげでなかなか生まれにくい人間として今生に生まれ、なかなか巡り会えない佛の教えに巡り会えた。生まれ変わり死に変わりをくり返す命にとって、またとない大チャンスだ。こんなにラッキーな自分の命をぼんやり浪費して良いわけがない」と説かれています。
また、「私たちが死ぬ時、ついてくるのは自分の生き様から得た宿縁だけだ。私たちが佛の教えを実践しなければならない道理も知らず、善悪も弁えないような誤った考えの者たちに巻き込まれてはならない」とも説かれています。

ですから、枕経でも今生の復習と後生の予習を兼ねて、お釈迦さまの最後の説法を読むのです。
今生での成果を振り返り、次の生でもしっかり頑張れるように、とはげまされるのです。

(補足)

人は自分から死に近づいてはいけません。
生死は佛の教える通り、因縁の大きな流れの中で向こうからやってくるものです。自分の勝手な判断で訪ねて行ってはいけません。

生死による悲しみから逃れようとして悩みの中に落ち込んだり、逆に死によって安らぎが得られると勘違いして求めるようなことは、どちらもはっきりと間違いです。

私たちは、どのようにしてより良く生きるか、という生きるための教えを常に求めなければならないのです。

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新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。
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臨終の事を習うて、のちに他事をなろうべし

圓常寺聖章様が回答されておられますので、重複はしないようにと思いますが、まさしく聖章様の言われる「念仏」の部分を「お題目:南無妙法蓮華経」と変えてもほぼ、同じような回答になります。
ただ、宗祖日蓮聖人は「人の寿命は無常なり、出る息は入る息を待つことなし。賢しこきも、はかなきも、老いたるもの、若きものも定めなき習いなり。さればまず臨終の事を習うて、のちに他事をなろうべし」と仰せになっておられ、人間の寿命というものは、いつ閉じるか分からないゆえに、まずは自分自身の臨終(死)を考えたのちに、人生を生きぬくことが肝要と言われました。
ご質問の死に行く人の心構え。どんな状況かによっても異なるでしょうが、いかなる宗教も死んだらエンマ大王(仏教的に)が待っているから、心して死ぬようになんて言いませんよね。
ゆえに、死後、安心なる境地が待ってますとなります。

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おきもち

日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにも...
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「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ