皆様に大変ご好評をいただき、ご質問が殺到しています。

回答が追いついておりません。お坊さんから丁寧にご回答いただくため質問受付数を制限させていただいております。大変申し訳ございません。

霊魂の存在を否定されるお坊さまへのご質問

 こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

 こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。

 素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。

 実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。

 このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。

お坊さん
有り難し 99
回答 7
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

伊藤様へのメッセージ

相当危険ですが、あえて言葉で表現します。

「霊魂」を、その人をその人足らしめる本体であり、その人亡きあと肉体が滅んでもなお残るもの、と定義し、

「阿弥陀仏の救い」を、人が亡き後、阿弥陀仏のマジカルパワーでその「霊魂」を「極楽浄土」という理想世界が実体化したワンダーワールドに「転生」させること、と定義し、

「悟り」を、上記の内容を完全理解して信じ、それにより死後の大安心を得て、死ぬまでの人生でどんな苦悩が有ろうと屁とも感じない状態、と定義すると

「霊魂」の存在が「阿弥陀仏の救い」と「悟り」の必要条件となります。

が、

「阿弥陀仏の救い」と「悟り」はそういうものではありません。(と、私は思います。)

また、私はいくつかの回答で「霊魂の存在を否定」したことがあるかと記憶していますが、それは自らの求道の歩みから「霊魂などないと考えざるを得ない」という宗教的信念に至ったものであり、その質問に対してはそう回答することで質問者の誤解(と私は考えるもの)を解く有効な表現であると判断し使用したものであると思います。
ですので、私が全知全能の存在ではない事実に則しますと、『霊魂の存在については、「分からない」することが最も妥当』というあなたの意見は全くおっしゃる通りであります。

しかし、本サイトの回答は「僧侶の個人的見解」に基づいてなされるものであり、また私の意見が絶対ではなく、複数の僧侶が補完しあえるという環境にも鑑み、今後とも自らの宗教的信念を表現することをお許しいただきたいのと同時に、言葉の使い方には細心の注意を払うべきことを改めてお教えいただきました。

最後に、「阿弥陀仏の救い」を残された字数で私なりに表現すれば、「お前を救うぞ」という「阿弥陀仏の願い」を聞いて私が素直にうなずくことであります。

そこには「悟り」がわかった!「阿弥陀の救い」がわかった!とわかったものを握りしめる「私のはからい」は認められません。
私たちは「わかって」救われるのではなく「わからない」(ことがわかる)ことで救われるのかもしれません。

そう、ルソーの言葉にあるように

『私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信ずることによって迷うのだ。』

では、「わからない私」が何にすがるか。私の場合は「霊魂」ではなく「阿弥陀」であったということです。

否定しない側の人間ですが・・・

質問に引き寄せられました。
荒唐無稽ですか・・・
幽霊の話、、、
私の宗派では、なんとなくこう・・スルーされてるような感じですね。
私の宗派は時宗です。

吉武師のおっしゃる通り「個人的見解」を尊重し合ってのことでしょう。

私は子供の頃、親父に蹴られ殴られ、罵られながら、鼻血を流してお経を覚えました。
「おのれ、ちゃんとお経覚えんかい。こんなんじゃ、ろくな葬式できるかえ。」
「ええか、ワシは阿弥陀さんの代わりに殴っとるんじゃ。」
阿弥陀さんてお経できんかったら殴るんか・・・仏って意外とヒドイな。
若干私は阿弥陀さんを恨んでました。

じゃあ、何が信心のきっかけとなったのか?
幽霊話からです。

本堂へつながる廊下、擦りガラス越しに白いものが通った。
なんやろって話してると、檀家さんから電話が鳴って、身内が亡くなったので枕経に来て欲しいとの事。
こんなのを、ウチのばあちゃんが何度か体験したそうです。
「亡くなってまず、阿弥陀さんにお参りに来たんやろう」ばあちゃんが話してました。

じいちゃんの無縁仏の話、檀家さんの話、まあ私の体験も含め、結局は阿弥陀さんに救われてんのやろなと、結論に達しています。

質問とちゃうこと書いて、申し訳ない。
余計なお世話かもしれませんが、伊藤さんの文章、面白かったです。

以上です。

回答僧

鳳林寺

光禪

誤解です +追記します

こんにちは。

 私は霊が見える方を否定することはありません。また霊の存在に肯定も否定もしません。

 悟りは霊的なものではありません。心の状態です。本当になります。
 霊魂の有無と悟りは無関係です。

追記の方が長くなりましたが、追記です

 輪廻についてですが、私は本当にお釈迦さまが、「医学的に死んだ」者が生まれ変わる、という考えで輪廻を説いたのか疑問に思っています。つまり生きているものが、心あらたに「うまれかわった」という意味で使っていたのではないか、と考えています。

アングリマーラの話があります。
 アングリマーラは、殺人鬼で、殺した人の指を首飾りにしていました。その後改心しお釈迦さまの弟子になるわけですが、ある時アングリマーラが托鉢していると難産で苦しんでいる女性がいました。 何もできなかったアングリマーラは戻ってから、どのようにすればいいか釈尊に尋ねると、釈尊は「私は一度も人を殺めたことはない(←これは真実ではないですよね) 、その徳によって母子は安全に出産できるだろう」と言うように答えました。アングリマーラはそれは本当ではないので功徳はないのではないかと疑問を伝えたところ、 「では、『私は<出家して仏弟子として生まれてから>一度も人を殺めたことはない』といいなさい」と答えました。アングリマーラがそのとおりに母親に唱えると、無事に子供が生まれた。という話です。
 ここでポイントなのは、<出家して仏弟子として生まれてから>とした所です。アングリマーラは、出家したことで生まれ変わった(輪廻した)とお釈迦さまは考えていた、と想像できます。

 もちろん、死んだ者が帰ってきた事はないですので、本当に死んだ後どうなっているかについてはわかりません。ですから医学的に「死んだ」後に、他の何かに生まれ変わっている可能性もあります。あなたの輪廻や霊魂の考えを否定するものではありません。

心相続

伊藤様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

霊魂のことはこれまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/霊魂

問題は、霊魂というものも、何か実体的な、独立自存的な、永久永遠の不変的な何かを想像してしまうと、それは誤りとなります。つまり、霊魂も「空」なるものということになります。

「空」なるものといっても、じゃあ、何も無いのかと言うと、そうではないと拙生は考えております。

前世から今世へ、そして死後の来世へと続いていく、我々の普段あるような粗いレベルの意識ではない、心相続(心の連続体)、微細心というものが「縁起」的にあり得ていると考えております。

その心相続のありようを、できる限りより善いものとして、善い赴き、もちろん、悟りへと向かっていけるように仏様とのご縁、仏教とのご縁を大切に日々紡いで、悪い行いをなさずに、善い行いに努め励みて、心を浄らかに調えて参りたいものであると存じております。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

追記 やりたい人だけがやるものです。

追記
お礼を拝読しました。仏教の出発点は、お釈迦様が自らの苦を消すために出家された事です。決して他者の救済ありきではありません。だから、義務などは存在しません。質問者さんがおっしゃられたように仏教は「やりたい人がやるもの」です。基本的なスタイルは「万人を救う」ではなく、困っている人を救うところにあります。心が健康な人まで引っ張り込むような布教はしておられませんでした。お釈迦様の時代のインドは倫理観などが崩壊しつつありました。霊魂の有無についての討論が盛んに行われ、極端な考えが横行しました。その中で、この身はただの物体の集合体に過ぎないと快楽主義などが幅を利かせていたのです。だから、お釈迦様はあえて霊魂についての言及は避けました。どう討論しても判らないことですし、その事に捉われても旧然の考え方と大差が無くなるからです。輪廻転生も同じです。ただ、輪廻転生に関しては、当時のインドでは常識として考えられていましたので、社会依存の教団を作ったお釈迦様としては否定せずに肯定していましたが、お釈迦様の考え方としては本当は否定したかったのではないかと思います。(布施を貰って生活する仕組みを作った事で、お釈迦様は社会から反発されないように徹底した考え方、規則を作りました。これが律というものです。)お釈迦様の考えは来世などの功徳より、現世で人としてよりよく生きる方法(法といいます)を説かれたお方です。そんなお方が死後の世界に基づいて教えを説く必要がございましょうか。この部分をしっかりと勉強して理解しないと仏教を勘違いしてしまいます。
追記
お釈迦様の一切皆苦は真理に気づく前の人々にとってのものです。様々な原始仏典にも真理に気付いた人の幸せが説かれています。お釈迦様は死期をさとった際に「この世界は美しいものだし、人間の命は甘美なものだ。」と遺されました。一見矛盾するようですが、お釈迦様のご誕生からの流れを見れば、お釈迦様の御心が救われ、大悟された事がよく伝わるお言葉です。

回答僧

大慈

整理しながら順序よく学びましょう

ん〜…やはり私が霊魂を否定していると見られていたのでしょうか。私はあくまで「分からない」派ですよ。詳しくはこちら。
http://hasunoha.jp/questions/12983
専門用語を使えば「断見と常見はどちらも極端」なのです。仏教はあくまで中道の宗教です。さて、ここらでちゃんと整理しながら学びましょう。

まず輪廻思想はお釈迦さま以前からあり、ヴァルナ(カースト制度)の論拠でした(浄土思想・阿弥陀信仰は後世の成立なので別軸です)。「お前ら身分の低い連中は過去世の行いが悪かったから低カーストなのだ。でも俺たち身分の高い者は過去世の行いが良かったから貴い。だから現世で俺らに盾ついても無駄無駄。せいぜい何回も生まれ変わりながら頑張れや」という話です。
これに対して「いや、ンなこと言ってりゃ世の中が良くなると思ったら大間違いだぞ」と言い出した人たちの1人がお釈迦さまです。

つまり、お釈迦さまが方便として輪廻を作ったという話ではなく、当時の支配的な常識と逆のことを言ってアレルギーを起こさせないよう、方便として当時の常識に寄り添いつつ、その中身をすり替えるという手法でした。
だからお釈迦さまはアレルギーを起こして離れていく心配のない弟子には「来世のことなんか考えないで修行しろ!」と叱り、1発勝負の一般の人には「誠実に生きなさい。さすれば来世で楽を得るでしょう」と話したわけです。

面白いのが長阿含経という古いお経では、お釈迦さまの章の一番最初が「お釈迦さまが国王に説いた強国の育て方」に始まります。その強国の条件こそ「君臣の上下関係や長幼の順を守りましょう。しかしどっちが偉いではなく、上下長幼お互いに敬いあいましょう」という「このように生きるべきだ」なのです。むしろ「このような社会を作るべきだ」です。「修行=誠実に生きる=善い社会のあり方」なのですよ。面白いでしょう?
「心の教え」というのは個人だけの話ではなく、そこまで込みなのです。以前お話しした「無我を前提とした輪廻」も、結局はここに繋がってきます。

ゆえに私は悟りをこう説く。
http://hasunoha.jp/questions/12225

リンクを含めてかなりの字数になり申し訳ありません。だがしかし、次のご質問に続きます(笑)
http://hasunoha.jp/questions/13938

回答僧

けんじゅ

否定することで見えなくなってしまうことってありますよね。

伊藤様
こんにちは。拝見させていただきました。

近代以降各宗派共に教義教学が整備されてきました。また西洋から哲学的な学問が入ってきた時に、日本のインテリ達は、霊魂だとかあの世だとかを語っている迷信的なものから西洋に対抗するために脱却して洗練された思想にならなければならないと思った人がいました。迷信的なもの前近代からの脱却、コンプレックスがあったのではないかと推測します。それはそれで洗練されて良い面もあったのですが、その結果教義も哲学的になり神秘的、俗信的なものを廃した高尚なもの道徳的なものになっていき、それらを下敷きにした学僧達によって我々は教えられてくるものですから、霊魂だのそういうわけのわからないものは仏教という高尚な教えの中にはないという考えが主流になってきたのです。お釈迦様はそんな俗信的な教えをとくはずがないなんて風に。輪廻に対しても同様です。そうなると浄土も怪しいものになってきて浄土はこの世のことだとか言い出す人も出てきました。

個人的には少なくとも浄土教は輪廻と魂の中で苦しむ衆生を救うために説かれた教えだと思っています。魂の汚れを持つ私たちは永遠に輪廻の苦しみから逃れる術がなく、だからこそ浄土へ生まれさせようとはたらいてくださる阿弥陀様の導きに出遇えた事へのご恩報謝の行を勤めさせていただく生活をおくることだと思います。

固定的な魂ではなく、「業縁によって変化し続ける魂のようなもの」だと思えば否定しなくなるお坊さんも増えるのではないかと思いますし、否定するお坊さんは私のような歪んだ人ではなく、教えられたことをちゃんと伝えようとする真面目なお坊さんなのかもしれませんね。大切なのはこういう相談する場所では特に霊魂という言葉の背後にあるその人の昇華されぬ気持ちを受けとめてあげることなんでしょうね。


質問者からの有り難し - お礼

 お坊さま方、ご回答誠にありがとうございました。お礼のコメントが遅れてしまい、誠に申し訳ありません。皆様のご回答を拝見して、お坊さまの中でも様々な考えがあるのだということを、改めて実感いたしました。本来ならば、それぞれのお坊さまにお礼のコメントを書かねばならないのですが、文章量が膨大になってしまうため、皆様のご回答を拝見して、私が感じたことを以下に記載させていただきます。何卒ご了承下さい。

 お坊さま方のご回答を拝見して、霊魂の存在を肯定される方にも、否定される方にも、それなりの道理があるということを改めて実感いたしました。そのことを承知の上で、私がなぜ「霊魂」や「輪廻転生」を信じるのかと言いますと、「それが無ければ修行する意味が無くなってしまう」と考えるからです。悟りが単なる「心の状態」であるとするならば、修行はやりたい人間(=安心を得たい人間)だけがやれば良いだけのものであり、「修行」は「趣味」の領域を出なくなってしまうように感じます。仏教が「心の教え」であるならば、それは一定の義務(=このように生きるべきだ etc.)を伴わなければならず、そのためには死後の世界観に基づく価値判断を下す必要があるのではないでしょうか?

 また、今回のご回答にはありませんが、「お釈迦様は、輪廻や浄土や阿弥陀仏は方便として説かれたのだ」という考えにも、私は疑問を持ちます。「方便」である限り、それは人間の都合で考え出されたものでしかなく、善や真実に至る道では無いように私には思えるからです。キリスト教の神と仏教の仏は異なるのかもしれませんが、シモーヌ・ヴェイユがドストエフスキーを批判して、「神が人間にとって有益だから私は神を信じるのではない。神が真実であるから私は神を信じるのだ」と言った言葉に、私は深い共感を覚えます。

 長くなりましたが、率直な気持ちを述べさせて頂きました。出過ぎたことを言ってしまい申し訳ありません。ご回答誠にありがとうございました。

柳原貫道様 再度ご回答頂きまして誠にありがとうございます。「お釈迦様は、来世などの功徳より、現世で人としてよりよく生きる方法を説かれたお方です。」という一文を拝見して、「本当にその通りだなぁ」と思いました。「抜苦与楽」という考え方が仏教の基本であることも、非常に大切なことだと思っております。しかしながら、輪廻転生を説かれないことに対して、私は最後の点で納得ができないのです。なぜなら、「生きることが苦しいのならば、修行しないでさっさと自殺してしまえば良いのではないか?」と、どうしても思ってしまうからです。こんなことを考えてしまうこと自体、執着心から起こっていることかもしれません。しかし、私にとっては輪廻転生が無ければ、自殺は苦から逃れる一番手っ取り早い方法であるように思えるのです(現在、自殺を考えているわけではありません)。こういった自殺の問題に関して、柳原様はどのように考えておられるのでしょうか。お時間がありましたら、ご回答頂けますと幸いです。どうぞよろしくお願いします。

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