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こんなにつらいものですか?

先日家族を亡くしました。
病気だったこともあり受け入れることも理解も出来たつもりです。
ですが、やはり時々どうしようもなくつらく、亡くなった本人の苦しみを考えれば、どうこう言うべきものじゃないかもしれません。

こんなにつらくても、自分の身体に不調という不調は無く、これ以上の苦しみは無いというくらいつらいのに、何故こんなに身体は元気でいつも通りいようとするのでしょうか?これから何度もこんな別れを経験し、その度に失った悲しみとは裏腹に、いつも通りに生活をしていこうとする身体と向き合い続けないといけないのですか?

遺された人間にこんなつらい経験をさせる死に別れって一体何なんでしょうか?もうよく分かりません。

死について
有り難し 19
回答 1
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

精進落とし

 こんばんは。ご家族を亡くされるというのは、私も経験が多いわけではありませんが、本当に辛い事です。今こうして文章を読んでいるだけでも、自分がお祖母ちゃんにしてあげなかった後悔の思いが蘇ります。
 お葬式が終わってお骨上げが済むと、たいてい「精進落とし」という食事があります。私はここで「亡くなった方との別れ」がもう一度あると感じています。私は食べる=明日も生きていく。けれど故人は食べない=陰膳は据えますけれど、食べない。儀式というのはこうして、現実を受け入れさせるしかけがたくさんあるのです。「受け入れる」というのは、つまり認めること。「あなたと私は、もう別々の所にいるのです」という。だからその場では、「食べることが故人の死を受け入れること」に繋がっているのです。
 そして案外、これが食べられるのです。緊張が解けてくるので。そして、同時に自分にこう言って下さい。「私は命を続けていく。この命は、あなたから戴いたものです(一緒に育ったものです)」と。残念ながら、この世では「会うは別れのはじめ」です。生まれて来るのも一人なら、亡くなって往くのもひとり。どうしたってお別れはあるのです。そして、そう思うからこそ「一緒にいられる日々」が輝いてくるのですよ。
 今は一緒にご飯を食べている家族とも、いずれお別れします、早かれ遅かれ。それが何時になるかは分かりませんが、そうなること自体に間違いはありません。であるならば。
 共にご飯を食べられる有り難さ・喜びをおろそかにしてはいけませんね。
 悲しみに身体を合わせようとするのではありません。身体が気持を作るのです。悲しみを感じている脳も、身体の一部です。身体を合わせようとして拒食したりすると…亡くなった方は喜びませんよね、きっと。「命ある限り生きなさい」と仰るのではありませんか?
 お名前も存じませんが、その方が極楽往生できますように、明日のお勤めで思いを寄せさせていただきます。


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