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いつやるの

回答数回答 3
有り難し有り難し 36

昨日、外に出てて駅で電車待ちの際、女性が意識なしレベルで倒れて。駅に私しかおらず消防に電話して蘇生を続けていました。成り行きで付き添って病院まで今も。その女性、意識を取り戻され「4月に結婚する」とおっしゃっていました。
付き添ってる間、副ご住職様から頂いたお言葉、メールを繰り返していました。何度かお伺いし、やっと話すことは辛かったことばかり話して泣いてた。

「掴めば膨れ上がる。客観的にみる」「マイナスに振り回されることなく、プラスにも振り回されることなく」だったら私のしている事は真逆。

お話にお伺いに行くなら「こんな事ができた!」「これが目標!」「こんな事をしたいけど、どういう心持ちでいたらいいの?」そういうお話をしに行くのだと思います。

昨日の自分を超えられるかもしれません。

いつやるの?
今でしょ!


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

(ありのままの)自身を深信する(深く信じる)

マイナスにも振り回されない、プラスにも振り回されない

そういう心持ちのテクニック?はある程度は鍛錬でどうにかなるのかもしれません。しかしそうした心の浮き沈みというのは縁によってどうとでもなります。
親しい人が亡くなったら悲しいです、私の念願の思いが叶ったら嬉しいです。そうした感情は自然に湧き上がってくるものでしょう。そうした自然な感情の揺れ幅までなくなっては寂しいでしょう。
問題はその揺れ幅がおさまらない事、どちらかに振り切ったままそこで停滞してしまう事ではないでしょうか。
揺れる事をそのまま認めることができるならば揺れは自然な揺れとなり、プラスに揺れるもよし、マイナスにゆれるもよし、そういう私もご縁のいただきものとして引き受けていけます。

明石家さんまさんのこんな言葉があります。
「俺は絶対落ち込まないのよ。落ち込む人ってのは自分のことを過大評価しすぎやねん。」
これは実際に「落ち込まない」ということではなく、自分を過大評価しない「もっとできるはず」と思っていないならば「落ち込みなどものともしない」という意ではないでしょうか。

「こんな事ができた!」「これが目標!」「こんな事をしたい」

というのは向上心です。ずっと向上心を保てるならばそれでよいのですが人間そうもいきません。「やっぱりダメだ」という日もあるでしょう。
向上心というのは「もっと良い自分」を信じることです。明石家さんまさんの自分を過大評価しないとは「今の自分」をそのまま信じることです。「こんなはずない」「こうなるはず」「できるはず」ではなく、「こんなこともある」「そんなこともある」「やむなし」な私です。
それは「どうしようもない」という情けない私ではありません。「どうしようもない」というのは「どうしようもある」自分を掴んでいるからそう落ち込むのです。「どうとでもなる」自分がハッキリするなら縁のままに全てを引き受けていけます。

そういう私を教えてくれるのがお念仏です。自分の姿は自分で見えません。だから仏を念じなさい、仏の声を聞きなさい、というのがお念仏。仏から「どうとでもなる」私の姿を教えていただき、その今の私を深く信じるのがお念仏です。

今の私はあらゆる縁に生かされています。もちろんあなたも他の方を生かす縁となっていることでしょう。

南無阿弥陀仏

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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ありがとうございます

 おはようございます。

 過去の問いも拝読しました。
「スターオブライフ」(アスクレピオスの杖)の話、初めて聞きました。⚕「この中で命のやり取りが行われている」。なるほど良い言葉です。hasunohaもお寺も、いのちのやりとりがおこなわれている、という場所になると良いと思います。私もそういう覚悟で回答していきたいです。
 私は地元消防団に入っていますが、地震や火災の際の心得として「まず自分の安全の確保」を、と言われます。自分が助からなければ、人を助けることはできない。怪我人を助けようとして自分が怪我をしてしまったら、怪我人の人数が増えるだけだ、って教えられます。

 仏教には「自未得度先度他」(じみとくどせんどた)という言葉があります。「自分はまだ救われていなくても、まず先に他の人の幸せを願う」という利他救済の心のことです。これだと自己犠牲的な考えになってしまいますが、私は、誰かを助けた事で、助けられた人が「自分も同じようにほかの誰かを助けよう」という気持ちになり、それが巡り巡って、最終的に自分自身を助けてくれる人が出てくるんだと考えます。あなたはその女性を助けた事で、「救いの環」の中に入ったのです。「人を助ける」善行をするためには、「助けを求めている」人がいなくてはなりません。あなたが「救いの環」の中に入った事で、あなたは「助ける側」、また「助けられる側」として必要とされているのです。
 (あなたが助けた女性が無事結婚できるといいですね。立派な行動をしました)

 ネットで躁うつ病と出たのですね。以前ネットでの診断をお勧めしたのは私ですが、ネットだけでの診断ではまだ確定できませんし、お薬も処方してもらえません。まずはかかりつけの内科医などで良いので、「ネットでこのような診断が出ました」と相談してみましょう。お医者さんによってはそこでお薬をもらえるかもしれませんし、もしそこでは診断もお薬もできないなら、できるお医者さんを紹介していただけます。まずは「いつも行っているお医者さん」に行ってみてください。

 直接お坊さんから心無い態度や言葉を言われた、とのこと、同じお坊さんとしてお詫びします。

 また、あなたのご質問から勇気をもらって質問してくださる方がいらっしゃるといいですね。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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その前向きな向上心を大切に。。

ぴょんこ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

まさに、昨日の自分をハンドルネームのように「ぴょんこ」と超えられていかれようとされるお気持ち、大切で前向きな向上心であるかと存じます。

誰だって、色々と悩み苦しみや憂い、不安、恐れの中に日々おります。かくいう拙生もですよ。

でも、昨日より今日、今日より明日と、日々の悪い行いへの懺悔や、悟りへと向けた菩提心生起、戒律の取り直しなども行いつつ、少しずつでも心のより善き変容、より善い行いを目指して、仏教の実践に取り組ませて頂いております。

是非、ぴょんこ様も少しずつで構いませんので、無理し過ぎず、頑張り過ぎず、焦らずに、自分なりのペースで、より良い人生を過ごすため、幸せのためにも、仏教の実践に取り組んで頂けましたら有り難くに存じます。

例えば、宜しければにて、毎日一回でも、三宝帰依、慈悲心の生起(四無量心など)、悟りを希求する菩提心の生起、懺悔、戒律(在家五戒や十戒)の誓約、功徳(少しなりのできることからの積みたる善行)と回向(普回向など)をされてみられても。。

※お礼を拝見致しまして・・

仏と法と僧の三宝に心から帰依致します。全ての生きとし生けるものたちが、迷い苦しみから離れて、安楽となりますように。全ての生きとし生けるものたちを安楽とするために悟りを目指して精進します。これまでの悪い行いを懺悔します。守るべき戒律・在家五戒(みだりに生き物を殺めない・盗まない・不倫をしない・嘘をつかない・お酒を飲まないの五つ)をできる限り守ります。ちょっと意識して行った善い行い(笑顔で挨拶した、電車で妊婦さんに座席を譲った、コンビニの募金箱にお金を入れたなど)の功徳を、全ての生きとし生けるものたちが、仏の道を進み終えて、悟りへと至れるためにと回向(「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを」)すること。

※再追記・・

戒律は、どちらかと言うと、悪い行いを慎むための消極的善い行いであると言えるでしょう。更に十戒やあるいは菩薩戒、三昧耶戒など色々とございます。

これでも分かりにくいかと思いますので、また分からないことは遠慮なくにご質問されて下さいませ。

迷い苦しみ、憂い、不安や恐れを乗り越えていくために、共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

鳳林寺 光禪 様
ご回答、有り難うございます。
私のような者でも、命を繋ぐ事ができました。
4月にご結婚される女性が幸せになられる事を願っていますし、そう思える自分を好きです。
光禪 様がおっしゃるように救いながら救われたんですね。
実はメンタルの病院に月に1度、通っています。最初は不眠で、軽いうつ症状が出始めて、弱い薬を飲んでいます。
ご心配かけて、ごめんなさい。
本当に有り難うございます。

法覚寺 吉武 様
有り難うございます。
明石家さんまさんの御言葉を教えて頂いて「なるほど!」です。そういう見方があるのですね。
今は、いろいろ悩む事もありますが「そんな時もある」
なんとかなります! たぶん。

六萬寺 川口 様
ご回答、有り難うございます。
大変、申し上げにくいのですが、四無量心?在家五戒? 「例えば~」が、お恥ずかしいですが学がないからか意味がよく分かりません。
噛み砕いて教えて頂けませんか?
どうか、お願い致します。

六萬寺 川口 様
度々、有り難うございます。
こういう事ですか?
生きとし生けるものが苦しみから逃れるために在家五戒という五つの約束ごとを、できるだけ守りましょう。功徳を積んで、自分が得た功徳を皆に分けましょう。
なのでしょうか?

六萬寺 川口 様
何度も有り難うございます。
何となく理解できたような気が致しますが難しいです。

六萬寺 川口 様
教えて頂けませんか?
いろんな方のご質問とかご回答を拝見させて頂いて今日、お坊さんから頂いた御言葉を読み返していたら私の頭にクエスチョンです。

三宝(仏法僧)の意味が…。
明るく、正しく、仲良く。
明るく…誰にでも明るく接する

「お坊さん」問答一覧

僧侶になり、お坊さん便に加盟したいです

 現在60です。  最近、退職しました。これから浄土真宗本願寺派の僧侶になって、できたら死ぬまで僧侶として働きたいと考えてます。  まず、僧侶になるためには、得度を許可し所属寺になってくださる師僧さんを探さなくてはいけないこと、そしてそれがかなり大変なことは調べて分かりました。その難関をなんとかクリアーできたとして、その後の僧侶としての生活について教えて頂ければ嬉しいです。  どこかの所属寺に所属する教師僧侶になれたとして、その後、そのお寺に雇って頂くということをまず考えました。しかし、最近では、他人を雇うほど余裕のあるお寺はあまりないと考えました。そこで、自分でネット(イオンやお坊さん便)などを利用して、法事の機会を与えてもらいつつ、修行&生計を立てることができれば、色々良いのではないかと現在考えています。  そこで教えて頂きたいのですが、お坊さん便などを利用して、所属寺外で法事を営むことは、所属寺から許可してもらえるでしょうか?また、許可してもらえるとして、やはり収益の何割かをお礼として喜捨させて頂けば良いのでしょうか。  僧侶になることは真剣に考えています。そこから、生活できるくらいの収入をもちろん得たいと考えていますが(年金が少ないので)、残りの人生を他の人に貢献するために使い切りたいという気持ちが強くあります。ご相談頂ければ大変うれしいです。

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僧侶として人として

父兄は曹洞宗の住職、副住職の僧侶です。 寺族である母が亡くなりました。 その後四十九日、秋春のお彼岸、一周忌、新盆。 何も連絡がありません。 伯母や従姉妹達にも連絡はありません。 亡き母の誕生日に孫達が実家に集まる事も拒否されました。 理由を教えてくれる事もありません。 こちらからの連絡は直接してはならず弁護士を通すように伝えらています。 法要とは故人を偲び、残された遺族が悲しみをのり越えて生きていくために、心の折り合いをつける大切な仏教行事であると思っています。 その機会を尊敬していた僧侶である父兄に一方的に奪われて 驚きと理不尽さと不安で心がいっぱいです。 今年は三回忌になります。 たぶん連絡は来ないでしょう。 お寺で産まれ、一生をお寺の為に尽力した母があまりにも可哀想で不憫でなりません。 今後、僧侶として檀信徒の方々に何を布教していくのでしょうか。 僧侶も人間です。 間違いも犯すでしょう。 保身に走りたくなる気持ちも分かります。 でも、逃げずに向き合う時は必要です。 やってない。俺じゃない。知らない。覚えていない。分からない。 と逃げ回っていても誰も解決などしてくれません。 誤魔化し、嘘をつき、欺くことをやめて 自分の立場を自覚して誠心誠意、他者に対して心を尽くす事を 人して僧侶として今生を生きて欲しいと思っていますが、 無理な願いでしょうか。

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田舎の寺を継いだが辞めたい

はじめまして。 地方の田舎の寺を親から継いだ40代独身です。 20代で修行を終え、最近登記も済ませ、住職となりました。 姉(独身)と父(もう高齢化してきてます)と私の3人でやってます。 母親は檀家の紹介でお見合いし、父と結婚。しばらくアパートで暮らしてましたが、姉が産まれ、しばらくして、弟である私が産まれました。 その後、寺に入ってほしいと祖父母からの要望で、田舎の寺で祖父母と同居となりました。 母はそこそこ有名企業で収入もよく、当時結婚が当たり前の時代、相手はほかにもいたというのに、なぜ寺なんかに嫁いだのか・・・。 私らの子育てがあったので、仕事をやめ、寺で生活してましたが、慣れない祖父母との同居生活、加えて急に来る檀家の対応等で精神疾患となりました。 どうしても無理だと思った母を見かね、父は私らを連れて寺を出ることになりました。寺から1時間程度離れた別の場所に家を建て、そこで私らは育ちました。住所変更も済ませ、学校などもそちらの地元を出ました。 その後、私は専門を出て就職したのですが、父が病気にかかり、寺を継いでやってくれと頼まれまして、仕事をやめ、そのまま修行を終え、寺に入って住み込みで約10年ほどやってきました。 田舎の檀家寺になりますので、近辺のほとんどが昔からの檀家です。 付近の住職死亡後誰もやらなくなった無住の寺を代務でいくつも抱えており、その負担が私に全部来るようになってます。 朝でも夜でも電話もなく、いきなり急に来る檀家が多く、毎回相当なストレスを感じてしまいます。少しでも出れなかったり、いないと、なんでいないんだ?どうなってるんだ?と怒鳴る檀家もいて、もう寺にいたくないとさえ思うことが多いです。 葬式が入れば、戒名いらない、葬式だけ1日でやってくれ、寺に親が昔勝手に建てた墓があるから仕方なく、住職を呼ばないと納骨ができない・・・そんな感じの檀家がほとんどで、毎回対応するのがものすごい大変です。 今はまだなんとか父がいますので、いろいろ聞きながら、私が檀家の接客電話担当、姉は裏方で主婦みたいな感じでやってます。 もう姉も私も結婚は難しいと思ってますし、檀家は全部あわせると400件ほどおり、次はいったいだれがやるのか・・・。 できることなら私と姉はやめて、寺から出ていき、よそから住職呼んで継いでもらいたい・・・甘い考えなのでしょうか?

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祖父の葬儀での出来事

先日祖父が亡くなり、生前からの祖父の意向もあり、家族のみ参列し、所謂直葬を執り行いました。 無宗教ということと、以前身内の葬儀の際にお坊さんの振る舞いについてとても嫌な思いをしたことがあったようで、それ以来自分が死んだら戒名もお経もいらないから家族だけで見送って欲しいとのことでした。 祖父の希望通りに直葬を執り行ったのですが、せめて火葬場ではお経を1回くらい読んで貰った方がいいのではないか、と親族の一人から声が上がり、じゃあそうしようということで、その際お世話になっていた葬儀屋さんに相談し、お坊さんを手配して下さるとのことで火葬の前に読経していただけることになりました。 お経が始まり、喪主である祖母がまず焼香し、それに続いて参列者が順番に焼香を行っていたのですが、一人ずつではなく三人ずつ焼香を行って欲しかったようで、お坊さんが読経中ですが参列者のいる後ろを振り返り、すごい目付きで睨んできました。 確かに焼香台は三つありましたが、特に何も言われなかったため、喪主に続き一人ずつ焼香を行っていました。 お坊さんの様子に気付いた火葬場の職員の方が、三人ずつどうぞと声をかけてくださったのですが、その間も時折こちらを睨みつけるように見ており、更には肩を竦めため息を吐いていました。 あまりの出来事に唖然としたと同時に頭にカッと血が登り、動悸が激しくなりました。 そのくらいの衝撃を受けました。 そのお坊さんにとっては数ある内の一つかもしれませんが、私たち遺族にとってはそうではありません。 大切な祖父を侮辱されたようでとても腹が立つと同時に悲しくて仕方ありません。 祖母も気付いており悲しがっていました。 こんなことなら祖父の言葉通り、読経してもらうべきでは無かったと後悔しております。 そのお坊さんへのお布施は一万円お渡ししましたが、お金さえ貰えれば後はどうでもいいのでしょうか? 腹の中で何を思ってようが自由ですが、それを表に出さないようたった数分も我慢できないのでしょうか、それが不思議でなりません。 上記したように、以前にもお坊さんのことで嫌な思いをしたことがあり、それに今回のこともあり、もちろんそんな事はないと分かってはいるのですが、こんな人ばかりなのですか? また、この悔しい気持ちの落ち着け方が分かりません。 アドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。

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何が正しいのかわからない。

私は地方の檀家寺に生まれました。 幼い頃から父にお坊さんになること以外の道を許されず、反論すると暴力や大切なものを壊されたりしてきました。 逆らうことができ学生時代は本山に寄宿しながらの修行生活をしました。 しかし、修行を終え娑婆に帰ってから、自分でやりたいことを選べなかった後悔と青春時代を失った後悔に襲われました。 それと同時に本山から帰ってからは周り(寺族、檀家様、周りの寺院)からの期待が大きくなっていました。 住職が私のいない間に周りのお寺や檀家様に「息子は望んで家を継ぐために本山に修行に行ってる」と意気揚々と話していたそうです。 それだけではなく住職は結婚したら将来同居がすぐできるように二世帯住宅を完成させていました。 結婚しても、食卓でも仕事の話やすぐに機嫌を損ねると癇癪を起こし暴力を振るってきた父と一緒に生活することは相手のことを考えると私はできませんが、、、。 そんな日々が数年続く中で住職から荒行に行くようにいわれました。 私は生まれつき身体も弱いですし、正直行きたくありません。 本山での修行中は家を継ぐ決心や僧侶になる発心がない状態でした。 しかし、逃げずにいたのは本山よりも癇癪を起こす住職の方が怖かったからです。 今は祈祷寺でもないのにこれ以上、修行をしたくないという思いがあります。 そのことを父に話すと癇癪を起こし泣きはじめます。 もちろん、修行道場は自分自身の信仰あって成立することです。望んでもいけない人が大勢います。 縁あって寺に生まれたからといって私のような中途半端な人間が僧侶を志してはいけないと思っています。 本山から帰ってきてからは上記で書いたことや、父の癇癪や、親の言う通りに生きない罪悪感(荒行に行かない)で押し潰されそうになり鬱病になりました。 今は療養施設に入っています。 最後にですが私は決して僧侶という仕事は嫌ではありません。大切な生き方だと思っています。 ①僧侶の皆様は自分の将来をどのように決めてきたか。 ②本山で修行し、周りや親の期待されているが荒行に入らずに今後もその期待に応えれない罪悪感をどうしたらいいのか。 ③私のような人間が僧侶を続けて良いのか。 応えられる範囲でご教示ください。 よろしくお願いします。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ