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私は韓国の判決が許せません。

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有り難し有り難し 47

仏教に、盗まれた相手の許可なく、泥棒のを横取りしても良いという教えがあるのでしょうか?
報道を視て、韓国の仏教には、道徳や理性がないのかと思うと悲しいです。

長崎県対馬市の観音寺の前住職が怒っていましたが、お坊様が怒っておられる姿を初めてみました。
このままでは、仏様も悲しまれていると思われますし、とても悲しいです。

対馬だけではなく長崎や他でも韓国人の盗難事件があり、東北では仏様やお稲荷様が韓国人に多数、破壊される事件も起きています。
これでは、下手すればの宗教戦争です。

どう思われますでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏を“盗んで”祀ってもその人たちに仏心が宿ることはない。

まず、お坊さんが怒っているのは私憤ではなく公憤でしょう。
あの方でなくても、泥棒行為を「是」とすること自体おかしなこと。このご時世において泥棒行為を良しとするならばピコ太郎さんのPPAP権利問題だって俺のだと主張するあの欲張りな人のものになってしまうというトンデモ事態を容認することになり、世界中がむちゃくちゃになります。
その仏像を巡って何百年という歴史の背景があった・に・せ・よ!ここ百年以上にわたって代々管理をされてきた仏像を「無許可に」「勝手に」「承諾なく」「話し合いなく」持って行ってしまうという行為はどこの国の誰が行うにしても、仏心からほど遠い強奪行為、泥棒行為にほかなりません。
ましてや仏像という泥棒行為をしてはならないと説いているお方の像を泥棒行為で持ってっちゃうっていうその感覚自体が宗教心でも仏教心でもないということを彼らは気づかないといけません。
自分たちさえ良ければいいんだという関係性を無視した泥棒行為によって手に入れた仏像を祀り上げてもその行為が本質的に仏教ではありません。世間も認めてはくれないでしょうし、俺のだ俺のだと言っている心自体がすでに仏心からほど遠いと感じます。
ここからは私的な意見ですが、そういう仏像は与えてしまってよいと考えます。
お釈迦さまは奪い合いを是とされないことでしょう。
日本と韓国の関係が悪くなるようでしたらむしろ差し上げればよいのです。
人には本来、誰にも奪えない仏心があります。
そこに気づかずに物質の中に仏心があると思っている人たちは厳密には仏教が始まっていないともいえるのです。
子供を取り合っている母親双方にその子供の手を引っ張り合いをさせた結果、その子供が「痛い!」といった時に、手を放した方が本当の母親であったという仏教説話が示すように「仏の心が損なわれないよう」に扱う人たちこそが真の仏教者なのです。
だから、私どもは手放せばよいのです。
仏は仏や仏心を敬う人たちの心に宿るものです。
物質と自我を愛する人たちの心には宿りません。
彼らがやっていることは、自分や我欲を満たすことを愛する行為であって仏の心を愛する行為ではありません。自分たちの仏教心がズレていたということに気づける日が来るまでの勉強機関として提供すればよいと思います。
私のお寺の仏像でよければ差し上げても良いです。
互いに真の仏心に目覚めてまいりましょう。

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おきもち

他人のふり見て我がふり直せ、という諺があるように、私達はただ正しい行いを心掛けるのみです。

仏教の実践に仏像は必要ではありません。

ただ、仏教の実践とは感情をコントロールして理性で考えることです。
それができていない泥棒や関係者達が、彼らの為にも、早く仏教を学び実践して欲しいと願います。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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仏教徒として信仰を持って

拝読させて頂きました。判決内容については詳細を確認しておりません。
が、しかし盗みは罪であることは共通認識したいと思います。
対馬のご住職様がお怒りなさるのももっともかと思います。自分のお寺で起きたら大変なことですからね。
双方の主張があるでしょうから冷静になり、しっかりと経緯を調べてみて、共に仏様を信仰する者として、仏様を敬いながら今後を考えて頂きたいと思います。
仏像は仏様本体ではないでしょうが、私達にわかりやすく仏様のあり様を見せてくださいますからね。
仏像は有難い存在ですから。
仏教徒として良心に従って対応して頂きます様にと切に仏様にお祈りしております。

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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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法律という名のゲームの話。怒りは不要。

仏教では、怒りの煩悩は悩み苦しみの原因だと考えます。
ですから、どんな理由があろうと、自分が正しかろうと、怒りは手放した方がよいのです。

韓国の裁判での判決は、日本人の感覚から言うとおかしな気がします。
しかし、裁判というのは、法律というルール上のゲームの試合なのです。
勝っても負けても、スポーツ感覚でよいのです。
負けた場合にリベンジ(控訴)するのも、スポーツで負けた選手がリベンジする感覚でいきましょう。
選手同士は戦いますが、べつに恨みはなく、ルール上で対戦しているだけ、という感覚でいきましょう。
俗世間の裁判は、総てそんな感じいいと思います。
不服申し立てや批判はすればよいですが、そのときに、憎しみや怒りは不要です。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

ありがとうございますm(__)m

「仏教全般」問答一覧

良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

有り難し有り難し 9
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