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私でも瞑想はできるのでしょうか

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有り難し有り難し 26

瞑想はほんとうに
誰でもできるのでしょうか。

私は昔から
はっきりした病名はないですが
体がちぎれるんじゃないかと思うくらいの痛みに悩んでいます。足が地につかない感覚があります。

でも、そんなときに
リラックスしよう
深呼吸しようと言われると
腹が立ってきます。

深呼吸?!どうやってこの痛みの中でしろっていうんだよと痛みに堪えるのに必死で
そんな言葉を言われると
イライラしてしまいます。
そして
リラックスって一体なんでしょう。

リラックスがわかりません。

瞑想は体が柔らかくて、
健康で、
心の余裕がある人じゃないと
できないものではないでしょうか。

体がガチガチで苦しくてたまらないときに、
そんな時こそ瞑想をと言われますが、
そんなときに瞑想なんてできないのではないでしょうか。
それでも
瞑想はできるものでしょうか。
どっちでしょうか

私の甘えでしょうか。
教えてください


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

リラックスではなく観察すること

ゆりかごさん

身体がちぎれるんじゃないかと思うくらいの痛みで足が地につかない感覚ってとても大変ではないですか。病名なしではがまんするしかないのでしょうか・・・そちらの方が心配になりました。

そんな状態で深呼吸と言われたら確かに腹も立ちます、イライラもするでしょう。それほどに痛いときは呼吸も浅く早くなっているし不規則になっているはずです。それは痛みという緊急時の生理的な反応なので、深呼吸をしろというのは理に適っていないのです。

瞑想はリラックスというイメージがありますが、ほんらいの仏教の瞑想はリラクゼーションとはちょっと違います。痛みで苦しいときは、痛みに「気づく」ということです。ふつうはそこで「痛い、大変だ!」「嫌だ、どうしよう!」と反応してしまうので、さらに苦しみが大きくなります。

落ち着いて いま自分の身体に何が起きているのか、何を経験しているのか観察します。その観察がしっかりできると、たいていの物事は自然に変化して消えていきます。あわてず、落ち着いてよく観ることで自然に正しい対処の仕方がわかります。その結果としてリラックスするということにはなります。リラックスしようリラックスしようと思ったら、心理的な反応として逆に緊張してしまいます。

ただし、呼吸を調えることで心も調うし、心が調うと身体も調っていきます。痛みがあってイライラしていて呼吸が速いと気づいたら、深呼吸ではなくて、少しだけゆっくり深めの呼吸で吐くことに意識を向けてみてください。呼吸は鼻でしてください。そして、自分がイライラしているという「感情」にも気づいてください。そうすると少しは落ち着いた感じがするのではないでしょうか。

瞑想は座って目をつぶりじっと静かにしているというイメージだったかもしれませが、瞑想はどんなところでもどんな状態でもできるものです。

1日5分・・・それが難しければ3分・・・それも難しければ1分・・・30秒でもいいから、自分の呼吸に意識を向けてみてください。それも瞑想ですがら、そんなところからスタートしてみてください。

ゆりかごさんの身体が良くなりますようにお祈りさせていただきます。仙如

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とりあえず紹介

日本テーラワーダ仏教協会のホームページに、ヴィパッサナー冥想の説明があります。

http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html

同じ協会のホームページに慈悲の冥想というのもあります。

試しにやってみてはどうでしょうか。

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「仏教における瞑想」問答一覧

うつ病の中でも利他の心を持つためには

5年ほど心の病に苦しんでおります。最初は適応障害という診断でしたが症状が悪化し、3年前にうつ病と診断されました。 それでも昨年から始めた漢方の治療やカウンセリング等の効果で体調は良化しており、検査の数値も改善してきています。 しかしながら「ものを考える余裕」が生まれたこともあってか、生き方に対する苦悩は深まるばかりです。 うつ病に向き合う手がかりとして、宗教・哲学・心理学など多くの本に触れているのですが、その多くで「他者に関心を持つこと」「他者と関わること」「他者のためにはたらくこと」が幸せへの道として説かれていました。仏教においても、「利他」は大切な考えだと思います。 しかし、今の私には「他者のためにはたらくこと」はおろか、「他者と関わること」も考えられません。他者とつながりを持つことを恐ろしいと感じてしまいますし、他者のことを考える余力自体も不足しているように思われます。毎日念仏をお唱えするときも、自分の身体のことや心のことばかりを考えてしまいます。 自分でも「利他の心」を持てたらとは思うのですが、負のループに入ってしまっているような気がしております。 勿論、日々の中で「他者を傷つけないように」「他者を不快にさせないように」と心がけているつもりではおりますが、それだけで良いのか、と自問自答してしまいます。 どのような心がけで日々を過ごせば良いのか、ご助言を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

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瞑想とは

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マインドフルネスについて

瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。 そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。 どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。 そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。 しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。 マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。 仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。

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