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念仏とは..?阿弥陀様とは..?

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私の家の宗派は浄土宗で、私はよく、祈る時や心が苦しい時等に念仏(南無阿弥陀仏)を唱えます。しかし、最近不安に思う事が有ります。
それは、念仏の唱え方と、阿弥陀様についてです。
私は、念仏を唱える際には、御仏を念じ、御仏の名を口にする事を心掛けています。ですが、それが本当に正しい唱え方(観想念仏、称名念仏)と言えるのか、御仏に失礼ではないか、と思ってしまうのです。
そしてもう一つ、阿弥陀様は、御釈迦様とは、どの様な関係が有るのでしょうか。私は、以前にネットに“阿弥陀様は御釈迦様の先生である”と書かれてあるのを見た事が有るのですが、果たしてそれが事実なのか、それを鵜呑みにするのを躊躇してしまいます。もしかしたら、私は阿弥陀様の事を勘違いしているのではないか。阿弥陀様の事も知らずに、御仏を信仰し、念仏を唱えてしまっているのではないかと思うと、不安で仕方無いので御座います。
これを御覧になって下さっているお坊様、正しい念仏の唱え方と、阿弥陀様の事について教えて下さい。どうか、宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの心しだい

念仏の唱え方はどんな方法でも構わないのですよ。寝ていても座っていても立っていても、いつでも、どこでも、誰でも、一回でも一万回でも構いません。なぜなら、私達はいつ死ぬか分からないからです。ですから、いつ死んでもいいように、いつでも唱えられるときに自由に唱えていいのです。
自分の為に唱えてもいいし、亡き人の為に唱えてもいいし、他の人や生きとし生けるものの為に唱えてもいいのです。

頭の中には様々な雑念が浮かびます。それはそのままにしておきましょう。雑念を追いかけないように。雑念は浮かんでは消えていきます。それを気にしないように。もちろん阿弥陀様を想像することは良いことです。ですが、想像できなくても構わないのです。
大切なことは極楽往生を願うこと。ですが、ずっと念仏中に願い続けることはできませんから、時々思い出したように願うくらいでいいですよ。

阿弥陀様とお釈迦様の関係は、宗派によって様々です。
私個人としては、両者共あらゆる事を知る仏様ですから、仏様同士通じている、お互いのことをよく知っている、対等な関係、その様に解釈しています。
浄土宗的には、阿弥陀様の救いを人々に伝えることが、お釈迦様の本当の目的である、といわれます。私個人としてはこれは少し片寄りすぎな解釈かなと思っています。(ここだけの話)
あるいは、人々の苦しみを取り除く為の方便として、お釈迦様が阿弥陀様の事を説いたのであって、お釈迦様の生み出した仏様という解釈もあります。
あるいは、阿弥陀経などのお経が書かれたのはお釈迦様が入滅して随分後のことです。当時の大乗仏教派の若手僧侶達が、もし今お釈迦様が居たなら、苦しむ人々の為にきっとこう説くに違いない、と何度も協議を繰りかえし確信して書いたものともいわれています。お釈迦様が直接書いたお経ではないのです。そういう意味でいえば、阿弥陀様はお釈迦様の様に実在したのではなく、当時の大乗仏教の人々の理想の仏様として生み出されたともいえます。
あるいは、空想などでは無く、実在する阿弥陀様のお力によって、人を通してその救いがある事を人々にそして後世に伝えた、とも解釈できるでしょう。
他にも様々な解釈があります。

様々な解釈がある中、あなた自身がこれから知識と経験を幅広く積み、あなたなりの答えを見つけ出して欲しいと思います。
南無阿弥陀仏

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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お念仏に出遇えた御縁を共に喜ばせていただきます

蓮阿弥様
こんにちは。拝見させていただきました。

お念仏申される生活をしておられるのですね。とても尊いことだと思います。お念仏は「唱える」ではなく「称える」と書きます。仏様のお名前をお呼びするからです。修行の一部としてのお念仏ならば「唱える」ですが、極端な言い方をしますと法然様のお念仏は仏様へ「御供えする」お念仏かと思います。

阿弥陀様に失礼ではないのかとのご質問。逆に言いますと、失礼な形でしかできない者であっても阿弥陀様の方がその者の心を見通して「信じて見守って」くださる仏様ですので、失礼ではないかなと思われたのでしたら、そんな私でも見捨てず信じていてくださっているのだなぁとお思いになられて感謝のお念仏を申されるのがよろしいかと思います。もっと言えば法然様は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と仰せです。自らを内省し、愚かさを知る人こそ、仏様の智慧に出遇うことであり、阿弥陀様の慈悲の深さに気づく御縁をいただけます。

阿弥陀様とお釈迦様の事についてですが、仏様の世界観の中では、日本にたくさんの病院があるように、たくさんの仏様(お医者様)の世界(病院)があり、それぞれの仏様が迷えるいきとし生ける者、生きていない者を救いとるために働いておられます。阿弥陀病院とお釈迦病院と考えてみてはいかがでしょう。浄土宗の主治医は阿弥陀様です。主治医は阿弥陀様ですが、他の病院の先生を邪見に扱うことはしませんよね。我々の苦しみ、迷いの深さに応じて手立てを考えてくださっているが仏様だと思っていただけたらと思います。

共にお念仏を喜ばせていただきましょう。合掌

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御縁があって一般人からお坊さんになりました。現在は小さなお寺の住職をさせて...
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本地垂跡

阿弥陀如来と釈迦如来の関係をどう解釈するかは様々ですね。
私自身は、明治大正時代に超宗派の念仏を唱導した山崎弁栄上人の教学が一番腑に落ちています。

それは、「本地垂跡」というものです。すなわち、宇宙大霊である阿弥陀如来が人間としてお生まれになったのが釈尊である、というものです。これはキリスト教で、神が受肉して人間として生まれたのがイエスである、とするのと同じですね。

山崎弁栄上人は、その他にも大日如来と阿弥陀如来は同体異名(名前は違うけど同一の大霊)であるとも説かれています。(奇しくもこれは、新義真言宗の覚鑁(かくばん)上人の思想と同じです)

唱え方で不安があれば、当方一般の人向けに念仏道場をやっていますので、興味があればどうぞ。不安なんか、吹っ飛びますよ。
http://taosangha.com/

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おきもち

遠藤喨及
僕はウイキペディアでは以下のように紹介されています。 「日本、アメリカ、...
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質問者からのお礼

ありがとう御座います。
念仏や御仏への見方は、見る者の心次第なのですね。勉強になりました。
心から感謝致します。
合掌

「念仏について」問答一覧

きらびやかな誕生に比べて人生がしょぼい

母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。

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迷いを抱えたまま回向をすることについて

3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 18
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南無阿弥陀仏のお念仏で極楽に往けますか?

浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。  そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

有り難し有り難し 16
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ