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死ぬことが頭から離れない

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私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。
完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。

ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。

こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。

死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。
死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。

生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。
死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。

この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。

まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

すごくわかります。

勝手な事を言いますが、私も同じように思った事があります。
「子供がかわいそう」とか「残された家族」とか言われると「じゃあ私は?私が今苦しいのに、母親としての責任とか社会がどうとか…そんな事考えられるなら死のうなんて思わないし」と、余計に悲しくなりました。
全部自分なりに考えておられるんですよね。
投げやりではなく現実的に。例えば、自分の家族が死んでも、24時間365日悲しみ続けることは出来ない(そうしたくても)。だから自分が死んでも周りもそう。どうにか生きていく。
むしろ私がいない方がシンプルに物事がいく。
私はそう思い、hasunohaをしながら自殺する方法を検索していました(笑)
真剣に、100%実行するつもりでした。ではなぜ今日私は生きているか…「○日はお弁当の日だった。○日は子供の△△。○日はお寺の用事…」というように、何かしら引き留める予定があったからです。
そうやってだらだら生きていたら、子供が「ママと一緒にいたい」と言ってくれた。
全然関係のない会話で言われた言葉が「あぁ、私も一緒にいたいんだな」と、なんの理由もなく「死にたい」という思いをシューっと小さくしてくれました。
そして「自分で死を選べるって、産まれたことと同じくらい奇跡で幸せなことだ」と不謹慎にも感じました。さようならも言えずに、明日も会えると思って死ぬのとは違う。さようならも自分の思いも伝えて死ねるんです。だったら「今」じゃなくてもいい。明日事故や天災で死ぬかもしれない、私達はいつでも「死」の一歩前にいるんだから今は生きようと思いました。
自死を私は否定しません。自己嫌悪の反対は上昇思考。死の反対は生きること。
生きながら死を考え続けてみませんか?ある日「だから生きてるんだ」と単純で簡単な理由が見つかると思います。
私の場合は、他人からの言葉や責任を省いた「子供といたい」という感情でした。
その後も私は私で、変えられないこともありますが(笑)でも、悪い部分も含めて認めてくれた子供がいるんだから堂々と生きるつもりです。
こんな私でも誰かと繋がっている。私が欠けたら世界は少し変わる。人の命はすごく価値がある。自分には分からない、周りの目を通して初めて価値ある命になるんです。だから、私だけの命、人生ではないと仏教で説かれる。あなたが自分をどんなにダメだと思っても、私の目には大切な命に見えます。

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有り難し
おきもち

普通のOLから、結婚をきっかけに仏教に興味を抱きお坊さんになりました。 ...
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執着を捨てる

楽に生きたいなら執着を捨てることです。
あなたは完璧主義に執着していますね。
それを捨てなければいけません。
世の中は白と黒だけではないのです。
いろんな色があるのです。
勝ちと負けだけではないのです。
引き分けもあるのです。
成功と失敗だけではないのです。
成功するために努力する過程も大切なのです。

あなたがその執着を捨てたならば、世の中が混沌とした世界では無く、彩り豊かな世界に見えることと思います。

なぜ死んではいけないか?
一つは、お子さんを育てるためです。
二つめは、今までお世話になった社会に、あなたの周りの人達に恩返しするためです。
三つめは、あなたの心が成長するためです。
仏教的に言えば仏になるよう修行するためです。

お釈迦様は言われました。
「努力している人は死ぬことがない。
努力しない人は既に死んでいる。」
あなたが努力するべき事は執着を捨てることだと思います。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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死後の世界をあると仮定してみる

ぬ子さん

ご自分で理解しているように完璧主義や利己主義が苦しみの原因であると思います。別の言い方をすると、この世を自分で「コントールしたい」という気持ちがあるけど、それがうまくいかなくて混乱しているのだと思います。

生きるか死ぬかで混乱しているようですが、それは生きることが思うようにコントロールできないからであって、死にたいわけではないことがあなたの文章からもわかります。

死ぬことは怖いと言っているように生まれた以上、生きることが「本能」だからです。日々の営みはすべて「死なないため」の行為です。食べること、寝ること、排泄すること、入浴すること、衣服を着ること・・・全部、生きるためです。死なないためにやっていることです。
これが生きたいと願う本能です。

いのちあるものは、人間も犬も猫もアリも毛虫もゴキブリもみんな生きる本能に従っています。人間に追いかけられたゴキブリは必死に逃げるでしょう。「なんとしても生きのびるぞ」というプログラムが埋め込まれています。だから死にたいと言いながらも死ぬことは怖いし勇気もないのです。あなたの中に埋め込まれた「なんとしても生きのびる」プログラムが正常に作動している証拠です。

自分の作ったルールや予想外のアクシデントで自分の計画が狂うことが苦痛・・・でもそもそもこの世は人間のルールで動いてはいません。明日の天気も決められないし、変えることもできません。電車が遅れることや止まることもあなたの意思とは違う意図で起こってきます。

最初からそういものと思っていればいいのではないでしょうか。すべて予想外、想定外なのです。そう思っていれば、たまたま自分の思い通りになったら「感謝」が生じます。ラッキーと思います。

死後の世界があるかないかは証明できないから、信じなくてもいいです。でも、わたしは「あると仮定して」生きています。その方が自分のためだからです。死後の世界があるのなら、悪いことはできません。罰が怖いからです。あの世で叱られないようにまじめに生きておこうと思います。善いことをしたら、褒めてもらって何かご褒美がもらえるかも・・・と期待もできます。ぬ子さんも死後の世界があると仮定してみたらどうでしょうか。いろいろなことのみかたが少し変わるかもしれません。参考までにご提案です。
混乱から抜けでて楽に生きることができますように。仙如

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有り難し
おきもち

お釈迦様の教えと瞑想法は苦悩の多いこの世を生きるための「船」のようなもので...
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「上善如水」

ぬ子様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、死して無になるとは考えません。それは断見として退けられるものとなります。

かと言って、常住の何か実体的な「私」というものが有るとするのも、断見として退けられるものとなります。

では死後、どのようなありようとなるのか、それは、今私たちにあるような粗い肉体や物質に左右されることのない微細な意識(心)の存続の問題について扱うものとなります。

微細なる心の連続体、心相続とも申しますが、そのありようの因縁(原因と条件)により、大抵は、輪廻(迷い苦しみのループ)するものとなります。その因縁となるのは、煩悩や無明(根本的な無知)、それらに基づく行いの集積である業・カルマとなります。

ですから、煩悩、無明もそのままで、悪い行いを積むままでは、次の行き先の結果も、迷い苦しみの世界へと赴いてしまうことなります。

その行き先を仏教を学び修することにより、現世における安心や救い、幸せと共に、死後にも何とかより善き赴きへと向けて参りたいところでございます。

とにかく、「上善如水」ですよ。お酒じゃなくて、無理に周りを自分に合わせようとさせようとするのではなく(それはどのみち不可能でかなりしんどいことです。裸足の者が、全ての地面に歩いても痛くないように革を敷き詰めるようなものです。そうじゃなくて、自分の裸足に革、つまり靴を履かせてあげればよいのですよ。)、何事にも柔軟に、周りに合わせて対応できることを自分なりにしていくのです。

物事の流れの中で、自分はどうあるべきか。お近くの川の水の流れを是非ゆっくりと一度観察なされてみて下さいませ。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「死ぬのが怖い・死恐怖症にお坊さん知恵袋」問答一覧

親離れと親の死に対する恐怖心

通勤時間短縮や自立した生活をするために、数年前から一人暮らしをしている30代女性です。 両親とは仲が良いこと、実家も県内にあることから、月一回は帰省しているのですが、ここ最近、一人暮らしの家に帰る度に、寂しさと悲しさが込み上げてきます。 たまに、両親が一人暮らしの家まで送ってくれることがあるのですが、良い歳した大人が別れた後に泣いてしまうのです。 ひどい時は、車中で泣いてしまうことがあります(泣くと親を心配させるので、こっそり泣いています)。 また、両親に持病があることや、ここ数年で他の親族の死を何度か経験したことから、いつか来る両親の死のことを考えてしまうことが増えてしまいました。 命あるもの、必ず死が来ることは分かっているつもりですが、両親が亡くなったら、私はメンタルが保てないのではないかと、すでに恐怖を感じています。 実家から帰省後、悲しくなって泣いてしまうのは、親離れができていないせいだと思っているのですが、親離れをするためにはどうしたら良いでしょうか?やはり、帰省回数を減らす事が得策になるのでしょうか? また、いつかくる両親の死に対する恐怖にはどうしたら打ち勝つことができるのでしょうか? どうか、ご助言をいただけないでしょうか。

有り難し有り難し 5
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大切な人を失うことへの恐れ

昨年10月に父を膵臓癌で亡くしました。 亡くなってすぐの頃は、早すぎる別れに落ち込み、辛い日々が続きました。 しかし、母や兄、夫の支えもあり、悲しみに暮れる日々は時間の経過と共に少しずつ減ってきました。 もちろん、今も生きていてくれたらなあと思うことは多々ありますし ふと思い出しては泣くこともありますが…。 8月の初盆を終えて、父の死の悲しみと共に生きていく覚悟が出来ました。 しかし、初盆を終えたあたりから いずれは、支えてくれた母、健在の祖父母も父と同じように亡くなってしまうのだなと考えるようになりました。 母は現在、実家で1人で暮らしています。 母も10年前に癌を患い、その後2回再発していますが、幸いなことに寛解しています。 私は昔から母親が大好きでした。 父が亡くなった時も母がいたから前向きに人生生きていこうと思えたのです。 しかし、人はいずれ亡くなります。 母親もいつ癌が再発してしまうか分かりません。 一度考え出すと、亡くなってしまう恐怖が心を支配し落ち着かなくなります。 起こってもいないことが不安でしょうがないのです。 夫には起こってないことを考えてもしょうがないと言われその通りだと思います。 しかし、なかなか心の切り替えができないのです。 父を失い、そして母を失ってしまったらと考えると、怖くてたまりません。 もちろん夫も大切ですが 両親は夫とは少し立場が違う気がします。 ここ最近は暇があれば もし母親の癌が再発したらどうしよう、と考えています。 この無駄な妄想をやめるためには どうしたらいいのでしょうか?

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

死にたいと思いながら死ぬのが怖い

はじめまして。 どうしても苦しく、初めて投稿いたします。 中学生頃からずっと希死念慮があり、早く死にたいと思っていました。 大人なり愛する人に出会って、生きていたいと思うことが増えたのですが、それでも些細なことでやはり私は生きていてはいけない人間なのでは、と考えてしまいます。 死にたいと考えることで、夫に辛い思いをさせてしまう。夫に辛い思いをさせる私なんて要らないのでは、と矛盾した思いの堂々巡りになってしまいます。 そして、今年がん検診に引っかかり前がん段階で手術を受けました。現在は病理検査待ちですが、死にたいと思っていながら、いざ実際に死の可能性が目の前に来た時、最初に思ったことは「怖い」でした。 なんて弱くずるい人間なのでしょうか。 夫は癌になっていても、一緒に頑張ろうと言ってくれましたが、不安な気持ちはなくならず、意味もなく泣いたり八つ当たりをしてしまったり、毎日生きることが苦しいのです。 このようにままならない気持ちをどうしたらいいのでしょうか。 そしてこのままたとえ死んだとして、こんな私ではお釈迦様でもお許しくださらないまま、本当に無価値になってしまうのではないかと恐ろしいです。 まとまりのない文章になってしまい申し訳ございません。 このような場をいただけたこと、感謝いたします。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

過去と幸せな今について

はじめまして 私は、事情があり20年以上毎日が死にたい気持ちとの戦いでした。 あと一歩で自殺していたであろうタイミングが何度もありました。 しかし、自身の病気や手術、環境の変化や出会いなど様々な大きな変化がここ数年で起こり、ようやく死にたいと考えることがなくなりました。 それどころか、毎日が楽しくて幸せだと感じます。 食事は美味しく、友人と話せることも仕事も趣味もこんなに楽しい事だったのかと、大げさではなく生まれ変わったような気持ちです。 2か月後には夢だった業界への転職も決定しています。 ところが同時に、自分が死ぬんじゃないかという恐怖があります。 幸せだからこそ、なんとなくもっと悪い事が待っている気がして怖いです。 やっと自殺願望から抜け出せたのだから、もっと楽しみたいです。 明日死ぬかもしれないと思って生きろと言いますが、もしそうなったらと毎日焦りのようなものもあります。 時々襲ってくる、この不安や恐怖について自分はどう向き合えばよいでしょうか? どう幸せを受け入れれば良いでしょうか? 何かアドバイスやこれからの人生において心の支えになるようなお言葉を頂けたらと思います。 よろしくお願いいたします

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

死ぬのが怖い

こんにちは、拙い文章だとは思いますが読んでいただけたら幸いです。 私はよく死んだらどうなってしまうのかを考えてしまいます。自分がなくなるのが怖い、死ぬのが怖いと思い涙が止まらなくなります。体も重いです。 最初に一番悩んだのは高校2年生の時、死ぬことや自分が存在するということを考えすぎてご飯も食べられなくなりあまり眠れませんでした。母親の前で大号泣しなんとか克服したのを覚えています。そこからは、たまに死んだらどうなるのかが頭をよぎることはありましたが、なんとか考えないようにしてきました。 そして今、24歳になる私ですが、ここにきてまたこの思考を止められなくなりました。というよりも止めてしまうことが怖いのかもしれません。前ほどではありませんが寝つきが悪くなり睡眠時間も短くなり仕事に集中できない日が続いています。涙も止まりません。 ネットで色々見て自分以外にも考えている人がいると安堵する気持ちとそこからまた他人がいる、思考している、とどんどん自分が存在していること、なくなったらどうなるのかと結びつけて怖くなってしまいます。 生まれ変わりや幽霊はいるなど信じていないわけではないですが、もし生まれ変わりがあったとしてもその思考が自分ではない(現に私は前世の記憶はありません)と考えてしまい、励ましてもらってもうまく消化できないでいます。 それでも自分の中だけでは苦しくなるだけなので相談してみました。皆様のお考え等を教えていただいきたいです。

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自分の死を受け入れて生きる事は可能か

お世話になっております。 以前より、強い死の恐怖について質問しており、その度に暖かいご回答を頂き大変感謝しております。 今回は、自分の死を受け入れて生きることが現実的に可能なのか、という質問です。 今まで頂いたご回答や仏道の自習において、「死はみんな怖い、けれどそのまま生きている」「死の恐怖を無理に消そうとしない」「禅は【今を生きる】修行で、未来のことを考えない(未来のことを考えるのは、今を生きていない)」といったお考えを学びました。 このお考えの論理そのものはとてもよく分かります。そもそも怖がってたって人間は死ぬし、時間の無駄だとも思います。それでも湧く本能的な恐怖なのですから、放っておくしか無いのが実状でしょう。 また、心理学の森田療法でも同じように書かれており、宗教の壁を超えた現実的なお考えだと思っています。 ですが、その考え方は、本当に現実的に可能なのでしょうか?このお考えを知って尚、そんなふうに生きれない私がおかしいのでしょうか。 私は恐怖感に襲われ続け、正直もう疲れてしまいました。皆さんに暖かいご回答を頂いているのにも関わらず、恐怖を受け入れられない自分が情けないです。そしてできる限りの実践や自習もしてきたつもりです。自分のできる限り死に向き合って、でも実生活が疎か疎かになるから恐怖を無理やり忘れて、また思い出してはパニックになりの繰り返し。 日常的な禅などで身体で理解するまでにも至らず、3年ほど強く悩まされて「本当は恐怖を受け入れる日なんて来ないんじゃないのか、来ないまま慄き泣き喚き絶望に塗れて死ぬしかないんじゃないのか」と絶望でパニックの日もたくさんあります。 修行が足りないだけなら今後も修行するしかないのでしょうが、会得までの長い間がもう、頑張れないです。弱音吐いてすみません。 死ぬのが怖い、でもその気持ちを抱えたまま生きているのがどうしても苦しい。皆同じだからと言われても、私が納得できないんじゃ、私は救われないままです。 わがままだと思います。自己中だと思います。ただ、辛い現実から救われたいのは、それこそ皆同じなのではないかとも、思っています。 具体的な解決策はありませんでしょうか。 どうか知恵をお貸しください。

有り難し有り難し 6
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死ぬのが怖いです。

初めてこのサイトで質問をする中学生です。 私は幼い頃、意味もなく虫を殺してしまったことがあります。また、人からお借りしたものを無くしてしまったこともあります。そのことを深く後悔し、捕まえた虫は逃し、精一杯人に親切にするように心がけていますが、今も毎日歩くたびに、手を洗うたびに、息をするたびに、たくさんの微生物を殺し、食事のたびにたくさんの動物の命をいただいて生きています。人に悲しい思いをさせてしまうこともあります。 最近、こんな自分が世界一の悪人であるように思え、命を脅かされることもなく幸せに暮らしていることが心苦しくて仕方なくなりました。すると、死後に罰を受けないはずが無いと思い、何をしていても死の恐怖が頭から離れなくなってしまいました。今この瞬間も生き物を殺してしまっているのだと思うと、心臓がバクバクして、辛くてたまらなくなります。それでも、罰を受けたく無い、死にたくないと思ってしまいます。幸せを実感するたびに、申し訳なさと、死の恐怖で頭がいっぱいになります。自分勝手なことだとわかっていますが、死後もずっと今のように家族や友達と笑い合って、今のように平穏で幸せな暮らしをしたいと思ってしまいます。死によって今の幸せに終わりが来るのが怖いです。 私はやはり地獄へ行くのでしょうか。死んだら、もう二度と大切な人たちと暮らせないのでしょうか。めちゃくちゃな文章でごめんなさい。回答をいただけると幸いです。

有り難し有り難し 6
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死ぬために死恐怖症を治したい

お世話になっております。 久しぶりに相談します。 突然ですが死にたいです。 でも怖くて踏み出せません。 人間の生理的なものなので「死にたくない」と思うのは仕方のないこととわかっていますが 『今この曲がり角で刃物を持っている人に遭遇したら刺されるな』とか 『地震でマンションの上の階が落ちてきたらつぶされて死ぬな』とか 『通勤ですれ違ってる人に何かをしてしまって恨まれて殺されてしまうな』とか 常にありもしない妄想で不安になって死ぬのが怖いです。 これを死恐怖症と呼ぶらしいのですが、この症状なのかなと最近思っております。 なぜ死にたいかというと人生に疲れたというか。 私の様子を聞くと、きっと多くの人が「え、そんなことで!」と驚かれるのでしょうが もう、しんどいんで若いうちに人生終わらせたいです。 プライドが高いせいか、思うように人生が進まず『なぜ?』と 劣等感にさいなまれることが多くしんどいです。 知り合いに『今の状態がメリットがあるから無意識にそのように生きている。 そのメリットを享受しているのにデメリットを嘆くのはおかしい』と指摘され、 なんだかもう難しいことは考えたくないし、 死んで困ることはないのでもう生きてる意味もないかなと漠然に考えてます。 そんな時に『死にたくない』を乗り越えれればいつでも死ねるなとふと思いまして。 死ぬための方法はネットを漁ればいくらでも出てきますが、 死を克服するための方法はほとんど出てきません。 死を受け入れる、もしくはその恐怖を克服する方法は何かありませんか? 教えていただけますと幸いです。

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