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「好き」なんて意味がない

誰かを「好き」だと思うのは意味がないんでしょうか。

片思いなどファンのようなもので
相手が思ってくれないと全く意味がないんでしょうか。

恋愛ごとの相談をしたときに
いただいた言葉をネガティブに反芻して落ち込んでしまいました。

その問いが『自己満足で時間を失ってもいいのですか?』と
優しさからくる言葉だとうっすら感じているものの
覚悟がたりないのか応えに納得ができないのか
やさしさよりも、言葉に傷ついてしまいます。

恋愛相談
有り難し 12
回答 2
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

意味は自覚するもの

誰かを「好き」だという感情は起こるもの。感情が起こったというところまでが事実。その起こった感情に意味が「ある」か「ない」かは誰かに規定されるものではないでしょう。自覚するもの、させられるものでしょう。

意味は私が「思う」もの。「感じる」もの。つまり後付けです。私が意味ないとしてしまったら意味がなくなってしまいます。誰かに意味はないと言われようと、私が意味があると思っていれば意味はあります。

そして、もっとつっこむならば、たとえ私が自分でも意味がないと感じてしまっても、そこには「意味がないという意味」があると私は思いますがね…どこまでいっても意味はある。感得することができる。つまり、無駄はないということです。

『自己満足で時間を失ってもいいのですか?』

と、めろんさんが感じた問いについて、どのような意図でその方が問われたのかはわかりませんが、私は大切にすべき問いだと思います。むしろ誰かに問われなくとも、めろんさん自身が自分で自分に問うべき問いとも言えるのではないでしょうか。

その好きという感情が自己満足なのかどうか。たとえ片思いのまま終わろうとも自分が本当に満足していけるのかどうか。我々はめろん様の人生にとって代われませんので、その好きという感情で傷つくのも、満足していくのもめろん様自身です。

我々が何を語ろうとも、めろん様自身がその片思いには傷つかず、あるいはたとえ傷つこうとも、本当に満足し、意味を見出していくことができるのならば、こちらの心配は杞憂に終わるのみです。
もちろん、こうして言葉でやり取りする以上は我々も語る言葉には責任を感じていかなければなりません。
しかし、めろん様の人生という責任はめろん様自身でしか果たせないのです。

私はそのお方はそういうことを問うてくださったのではないかと思います。

優しさと甘さは違います。時には厳しい問いかけをし、その方が自分で責任を全うできるように促すのも優しさです。どこまでいっても我々は相談者様の人生の責任は負えません。ある意味で無責任なのです。

「大丈夫だよ」といくら優しく声をかけても、本人が大丈夫でなければ大丈夫ではないのです。

しかし、そうした意図が伝わるのも相手の立場に寄り添うという「優しさ」あってのことだとは感じております。ご指摘ありがとうございます。精進致します。

回答僧

円通寺

邦元

心、気持ち第一主義にならないこと

好きになることは、いいことだと思いますよ。しかし、そこに冷静さを失い、我欲により相手に自分の方を振り向かせたい、と思い苦しむことは避けたいですよね。
「好き」の感情は冷静さを失うと、ただのワガママの押し付けになります。
そこに注意して、「心、気持ち第一主義」にならないよう、そこを真実にしない生き方が理想的であると思いますよ。
自分を見失うことになります。


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