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慈悲の心を増やすにはどうしたら良いですか?

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有り難し有り難し 32

前に質問させていただき回答を頂くなかで、自分に慈悲の心が無い(かなり少ない)と気づきました。性格が悪くなっていると言いますか…
自分を好きになるために良い人間に変わりたいと考えています。アドバイス頂けたら嬉しいです。

下に思いの丈を述べさせていただきます。

慈悲の心は大切だと認識しておりますが、ここ数年で急激に慈悲の心が消えていっています。(自分でも自覚するくらいに急激な変化です。)

元々慈悲の心は少なかったのかもしれませんが、今や枯渇しています。

自分の分析では、自尊感情や自己肯定間が非常に低からではと考えています。そこをまずは何とかしてみよう、自分を肯定してみようと小さなことですが日々の習慣的に継続してできることに取り組んでいます。

また、余裕がないのか(何故余裕が無いのでしょう?)人に対する寛大さも欠けて来ています。

以前人から、私には「白」か「黒」しかなく、世の中には「グレー」が沢山あるのだ。それを理解し許容できなくてはいけないと忠告を頂きました。
今では「今、これはグレーだな」と理解できますが、許容まではできていません。(どちらかはっきりしてと考えてしまいます。)

''大きな苦しみを耐える方が強くなれる、人に優しくなれる''と何かで読みましが、
3年~4年ほど前に大変忙しく厳しい環境の仕事に心を病み、今年異動をした職場で「しんどい、辛い」という周りの同僚に対し、「私の苦しみや辛い環境と比べたら、全然マシではないか!!」と狭い心になっています。
(辞めたり長期の休みなどを取らなかったので、耐えたと自分では捉えています。)

人に対して寛大さも慈悲も無い状況で、自己嫌悪におちいります。自分を好きになりたいはずなのに…
分かりにくい質問かもしれませんが、良い人間に変わるにはどうしたら良いかアドバイス頂けたら嬉しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まずは自分に慈悲を向ける

迷える豆大福さん

自分に慈悲の心が少ないと気づいたということは、このこと自体評価できることではないですか。自分を客観的にみれることが自尊感情や自己肯定感をもつ始まりです。性格が悪くなっている気がするのは、ひとつは自分のありのままがよく観えるようになったからかもしれません。ほんとうはもうちょっとマシだと思っていたのに、ありのままの自分は違ったと知るとショックですね。もう一つは自分をもっとよくしようとか変えようと思って、ちょっと頑張りすぎているかもしれません。無理して自分に厳しくすると、人にも厳しい目を向けたくなってしまいます。

慈悲のこころを持つためには、まず自分に慈悲を向ける必要があります。自分を好きになるということは、理想的になった自分を好きになるという意味ではありません。人に優しくできなくて心が狭くて寛大さのない自分、そういう自分を認めるということではないかと思います。

そうすると、こんな自分でも友達でいてくれる人もいるし、親切にしてくれる人もいるし、助けてくれる人もいる・・・。ありがたいな~と感じる。自分も人を裁かないで、人の悪いところも赦してあげよう。だって自分だってたくさん赦されているんだもん・・・って気持ちになりませんか。

より良い自分になろうとする向上心は人間として大切なことです。でも、上向きばかりでは人は向上しないのです。自分のありのままをダメなまま受け入れることからしか慈悲は生まれてきません。慈悲はエゴの下に隠れています。自己嫌悪も自分を思うように変えたいというのもエゴなのです。
力を抜いて身体の感覚を感じながら「ありがたいな~」と思うことからはじめてみてください。慈悲はだれの心ににもあるものです。まずは自分に慈しみのこころをむけましょう。仙如

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質問者からのお礼

回答を頂いたことに気づかず、お礼が遅くなりました。大変失礼致しました。

回答をくださり、ありがとうございます。

ありのままに気づいたというよりも、ありのままは駄目と押さえていた(前もあまり押さえられていないと思いますが…)のが、余裕が無いのか押さえきれず、''自己中心的な嫌な自分が垂れ流し状態''です。

そして、確かに自分に慈悲の心を向けたこともありません。大嫌いです。
(この前も年配の方に、自分の駄目なところばかりでなく、良いところも見つけてあげないと、可愛そうだよ。と言っていただきました。)

それでも、なかなか自分に慈悲の心を向けることができません。
最近では、職場で挨拶をするのもままならず、ダメな自分を日々攻めています。

頑張って自分に慈悲の心を向けられるようになりたいです…
アドバイスくださり、ありがとうございました。

「仏教における慈悲」問答一覧

無償で人を助け続けることについて

はじめまして。 無償で人の要求に応え(助け)続けることとは、仏教的には何なのか、続けることに嫌な気持ちを持つ理由は何なのか、嫌になった場合はどうしたら良いのか、などお話伺いたいです。 きっかけはバイトです。 現在北欧に住んでおり、仕事はレストランでのバイトです。バイト先にはジプシーが大抵1日3人ほど来ます。 ジプシーとは、道で物乞いをするホームレスのような人々のことです。ヨーロッパで多く見かけられ、北欧にもいます。 彼らは決まって「カップとお湯をくれ」と横柄な態度で要求してきます。 私の何人かの同僚は、一切断っています。 理由は、1人の要求に応えると他のジプシーがどんどん来てお店がお客さんとジプシーで忙しくなるから、とのこと。 他の同僚と私は、たかがお湯を渡したところで減るものは無いし(店としては、カップ代の損失)、無銭でご飯を要求されているわけでも無いので、毎回要求されたら渡してきました。これで誰かが助かるなら渡した方が良いし、渡さないのは冷たいとも思ってました。 しかし、繰り返されるごとに段々嫌な気持ちになるようになりました。 お店が忙しいある日、1人のジプシーがいつも通り要求してきました。彼は2つ欲しいと言いました。ただでさえ忙しくてイライラしてるところに、嫌だなと思い始めてたジプシーの要求が来て、私は腹が立ちました。この怒りから早く解放されるために、彼に早く帰ってもらいたくて、私は2つお湯を渡しました。 ところが続けてまた別の1人のジプシーがお店にやって来てお湯を要求してきました。私の苛立ちは更に悪化して、お湯が無くなったと嘘をついて彼に早く立ち去ってもらおうとしました。 しかし彼はもらうまで帰ろうとしませんでした。なぜなら、前のジプシーが2つももらってるところを見たからです。 結局別のスタッフにお湯が無くなったことを説明してもらい、彼に帰ってもらいました。 なぜ私は、人助けを段々嫌になっていったのか、なぜある人は助けてある人には怒ったのか、自分の人助けへの感情や思考がわからなくなりました。お湯をあげる行為は1分で済み、それ以外の損害は私にはありません。 仏教的に、人助けとは何なのでしょうか、そもそも助けるという考えが誤っていますか。私の感情や思考方法について何かヒントがあれば教えてください。 最後までお読みいただきありがとうございました。

有り難し有り難し 28
回答数回答 2

慈悲の心を持つためには?

私は精神に病気を持ち、人生で2度の自殺を経験しています 生きる意欲がわいてこないというわけではなく、食べていくために働かなければならないということが受け入れられず、死のうとしました それはすでに自分の中で消化しすでに悩みではありません 問題は、食べていくために嫌な仕事をひたすらやり、その姿勢から同僚や上司をとても苦しめてしまったということです 今はその仕事をやめて無職ですが、以前人を苦しめてまで生きていた頃の自分を思い出すと、とてもやるせない気持ちになります 生きていくために仕方がない、それで周囲を傷つけてしまった こんなことなら死んでいたほうがはるかにましかもしれない、そういう道もあったんだと考えています 今は生きることに迷いもなく、死んでいくことも怖くはありませんし、私はあの世を信じていないので裁かれる心配もありません ただ、どうしても昔の自分の生き方に後悔を持って、今はそれに苦しんでいます 仮に因果応報が私の身に降りかかったとしても覚悟をして生きているので素直に裁かれるつもりはありません ただ、覚悟だけを頼りに生きると周囲の人にも覚悟を求めてしまい以前の自分と何も変わりません 自分は十分に傷ついたと思いますが、それを優しさに変えることができません 慈悲の気持ちを持つにはどうすればいいでしょうか?

有り難し有り難し 15
回答数回答 1

間違った教えの見分け方

前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。 (※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q「慈悲」は人によって全く違うのか あるお坊さんの問答にて1 「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。 別のお坊さんの問答にて2 「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。 どちらも実在するお坊さんの問答です。 慈悲とは何でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この回答で、 「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」 というご意見と 「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」 というご意見がありました。 双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。 しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。 非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。 間違っているのでしたら、どのように間違っているか。 どのように見分ければよいのでしょうか。 仏教に無知な私にも分かるように教えてください。 お願いします。

有り難し有り難し 25
回答数回答 3

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ