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仏陀の教えについて

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仏陀はなぜほかに苦しんでいる者を助けるのですか?

それから、仏陀はどのようにして無執着という教えからそれないで世界を救おうとしたのですか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

シンプルには

ご自身が苦しみ、そして苦しみから抜け出る道を見つけられた。そして周りを見ると、過去の自身のように苦しんでいる者がいた。ゆえに助け(ようと)したのだと思います。
無執着という教えが世界を救うベースであると考えられた故、と理解しております。

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一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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苦しみの原因

苦しみの原因が執着だからです。

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遠藤喨及
僕はウイキペディアでは以下のように紹介されています。 「日本、アメリカ、...
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慈悲・梵天勧請・空と縁起

りか様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「仏陀はなぜほかに苦しんでいる者を助けるのですか?」・・

慈悲の御心がゆえになりますでしょうか。。

自分一人だけ涅槃に入り、自分だけが救われるので良しとはされなかったのであるかと存じます。

また、悟りは、ある意味では衆生が存在しているからこそ得られられる境涯でもあり、その導き手としての大恩ある衆生を見捨てにはならなかったとも。あるいは、過去輪廻の幾世における無数の母たちが、今の(輪廻している)衆生であることを知られたため、その母であった恩ある者たちに報いるというお気持ちもあられたのかもしれません。

更に、もう一つは「梵天勧請」です。

衆生を憐れまれる慈悲の御心はおありでありましたものの、この悟った教えは誰に説いても理解はされないだろうと躊躇されていたところに、梵天が現れて、どうか教えをお説き下さいとお願いされたエピソードです。

梵天は、「衆生の中には、あなた様のその尊く有り難い教えを理解できる者もおります」と。

そこで、お釈迦様は、「相手に応じての対機説法・方便を用いてならば説けることもあるだろう」として、いよいよ法を説かれることになったというものとなります。

「仏陀はどのようにして無執着という教えからそれないで世界を救おうとしたのですか?」・・

「無執着」という言葉は、「空」と共に「縁起」を理解してからでなければ、なかなか正確な理解が難しいものであり、全てのモノ・コトは、「空」であって、実体が無い、独立自存として成り立っているものは無いが、存在するモノ・コトであれば、それらは、必ず何らかの他に依存して成り立っているとして、そのことを「縁起」と説明することになります。

しかし、まるであたかも存在の顕れのその先に実体があるかのように、他に依存せずに独立自存として成り立っているもののように捉えてしまう、そのことが「執着」であるとして否定されることになるのでございます。

そして、「縁起」としては成立しているありようを正しく理解することにより、簡単には、善き因縁(原因と条件)に依って善き結果もあり得ているのだとして、悟りへと至るための善き因縁に努めていくための教えをお説きになられたのでございます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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生を掴み、死を拒む。

他人の苦しみが痛いほどわかるから、ですかね。自分が嫌なことは他人にもしない精神ですね。

人間は好き嫌いする生き物です。好きなものはもっと欲しい、ずっと持っていたい。嫌いなものからは逃げたい、遠ざけたい。この機能が備わっている以上、「命、生きること」もずっと持っていたいと執着しますし、「老い、病気、死」からは逃れたいと抵抗してしまう。これを解決しないと人間に本当の幸せは訪れないと気づかれたのだと思います。

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おきもち

若輩者ですが、宜しくお願い致します。
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「お釈迦様・ブッダ」問答一覧

釈尊の教えについて疑問があり悩んでいます

人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか?  私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。  例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。

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真言宗と浄土真宗の中のお釈迦様

はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ