皆様に大変ご好評をいただき、ご質問が殺到しています。

回答が追いついておりません。お坊さんから丁寧にご回答いただくため質問受付数を制限させていただいております。大変申し訳ございません。

「悟り」,「禅」 とは何なんでしょう

最近,生きる理由 (モチベーション) を挫折により失い,
人生最大の壁にあたっております.

そこで,一度自分を見つめ直そうと,「禅」
というものをやってみようと思ったのですが
イマイチやり方が分かりません

「禅」 の目的とは,悟りを開くため,と見聞きしたのですが
仏教での 「悟り」 とは何を意味するのでしょうか.
「悟りたい」 と思っている事自体が 「悟る」 ことと矛盾しているような気がして
良く分かりません.

また, 「禅」 というものはどのように行えばよいのでしょうか.

生きる意味
有り難し 30
回答 3
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

自分意識から解放されること

人間はいつとも知れずに想念を中心とした活動をしています。
どんな物事に処するにも、起こったことに評論者やコメンテーターのようにあれこれものを申さずにはいられない。自分の見解を交える。これが迷いの様子です。
自分・思考越しに観ているからです。悟りというのは、その起こったことに自己の見解・想念を何も添えずに処することと言えます。
心が黙るのです。
たとえば私的な見解の強い人は、何か事あるごとに問題にします。今の日本のツイッター炎上、何かあれば騒ぎ立てる、何でもかんでも自分に関わらせずにはいられない世相のさまは、悟りの真逆でしょう。
自分度数の高い・自己濃度の濃い、エゴセントリックなものの見方です。
要は自分とは本当は関係ないのに自分・エゴがしゃしゃり出すぎて心が騒がしくなる。
これは「自分」を過剰に認めているからなのです。
ですから、禅では道元禅師の教えに従い
「仏道をならうというは自己をならうなり。自己をならうというは自己をわするるなり。自己をわすするというは、万法に証せらるるなり。」と、この身心はもちろん自分ですが、自分意識だけを放ち忘れてしまう。その為に坐禅をするのです。
「わたし意識=ワタクシ」が無くなった生活は快適です。
出来事、アクシデントが何か起こった時、ただそれだけで居られるからです。
別に虚無的でもドライでもありません。冷静に物事をみつめられます。
自分濃度の濃い~干渉的で妄想の多い自分ではなくなる。
悟りの為には、自身の想念が発生時点において「自分」がやっているのではないことに気づく必要があります。
今の呼吸だって自分が自分の意志でやっていなかったでしょう。無私・無我の作用としてなされている。
この身心の働きの全てが実は自分がやっていない活動であることを自覚する。
いつとも知れず「自分だ」と錯誤してしまったのですから。
「自分が無くなる」といっても個性までもが失われる訳ではありません。
悟りは別に何も失われません。
ただこの身心の上から自分意識だけが滅するので思考脳から事実脳にシフトチェンジする。
元々自分を立てる意識が滅している最初の状態がある。自分意識が立っていない元々のさまを「本来性」を見るので見性・成性という。
世界は一秒ごとに新しい。今のこの様子に「自分(意識)」はまだ起こっていないの(仏)ですが、坐禅をしないとそこが見えてこないのです。

迷いこそが悟りの出発点

はじめまして、大分の禅寺の和尚です。
禅とは、悟りとは、等々をここで説明できたら、誰も苦労はしませんわ(笑)
1000文字しか書き込めないしね。

ただ、禅に興味を抱いて下さったことには感謝です。
そうやって質問していただくことによって、私とあなたのご縁がここで結ばれましたから^^

タイトルにもありますように、悩みこそが悟りの出発点です。
これを良い機会ととらえて、是非勉強してみて下さい。
一般向けに易しく解説した禅語の本などはたくさん出ていますし、一休さん、良寛さん、沢庵さん、白隠さんなど、有名な禅僧の伝記も読んでみたら楽しいと思いますよ。

あとは、実際に坐禅を実践してみて下さい。
佐賀にも禅寺はたくさんありますし、福岡には久留米の梅林寺や博多の聖福寺、八幡の円福寺など、修行道場のある名刹も。
そういったところで、一般向け坐禅会について問い合わせてみましょう。

あまり難しく考える必要はありません、行動あるのみですよ。

二資糧と六波羅蜜と菩提心

mayoibito様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「禅」だけではなく、仏教は全般として「悟り」を目指すための教えとなります。

「悟り」へと至るための確かなる因縁(原因と条件)を明らかになされましたのが、お釈迦様となります。

その悟りへと至るためには、特に智慧と福徳(功徳)の二つの資糧の集積が必要となり、その二つにより、悟りの妨げとなっている障りである「煩悩障」と「所知障」を断滅させることが求められるものとなります。その障りの大元は「無明」という真理を知り得ていない無知、愚かな心となります。

上記の二つの資糧の集積について簡単に示されるのが、六波羅密という布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行徳目となります。

このうちの禅定を重視する立場が「禅」の源流であると言えますが、他の五つの波羅密を無視しては禅定も成り立たないものとなります。

悟りへと向けては、六波羅密、自利利他のバランスをとるのも大切なことになります。

是非、まずは四聖諦など仏教の基本概論からも学びを進めて頂けましたら有り難くに存じます。

また、「悟りたい」という志は、発心、菩提心として何よりも大事なことになります。それも自分だけが救われるために、というものではなく、全ての皆がやがて悟りへと至れるために悟りたいという強い気持ちが大切となります。

是非、初心、初発心はしっかりとお持ち頂けましたらと存じます。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌


質問者からの有り難し - お礼

みなさま,有り難いお言葉ありがとうございました.

まだ正直良くわからないことばかりですが,
少しずつ地道に取り掛かってみようと思います.

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