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越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)が気になります

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有り難し有り難し 34

密教をご存知のお坊様に、質問をさせてください。
3つ質問があります。
「越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)」が非常に気になっております。
密教には、在家の人間がやってはいけないことがあると聞きました。

在家の人間が、阿闍梨の許可なく、勝手に真言を唱えたり、伝授なしに梵字を書いたり手印を結んだりするのはいけないと聞きました。
これを破ると越三摩耶戒罪、越法罪という宗教上の罪になる。
何の功徳も、ご利益もなく、徒労に終わる。
「大叫喚地獄に落ちる」とか「無間地獄に堕ちて出ることができなくなる」という恐ろしげな記述もありました。

1つ目の質問です。
何人かの先輩の信徒(在家)から色々と聞いて、自分なりに考えをまとめました。

・真言なら唱えても良いし、功徳もご利益もある。
・手印を結んだり、梵字を書くのはやめたほうが良い。
・阿字観はお坊さんの指導のもとやること。独学は駄目。
・本格的な祈祷の真似事をやるのは絶対に駄目。
・「地獄に堕ちる」は、師僧の指導に従わない・修行のルールを守らない修行僧を戒める方便。でも原則として守らなければならない。

これでよろしいのでしょうか? 

2つ目の質問なのですが。
私は信仰を持つ前から、仏教に強い興味がありました。
多くの本を集めて読んでいたのですが、愚かな素人の悲しさ、当時は越三摩耶戒罪のことは知らず、手印や梵字の書き方の本、さらに儀軌や口訣書を含めた専門書もかなりの数、蔵書として所有しております。
また密教美術にも惹かれ、曼荼羅の色紙も購入してしまいました。
しかし阿闍梨の許可なく、曼荼羅を建立したり、儀軌や口訣書などの専門書を読むのも越三摩耶罪に当たると聞きました。

・小さな仏壇の上に、両界曼荼羅の色紙を額に入れて飾っているのですが、これを気にするのはやはり神経質すぎるでしょうか?
・密教の専門書を読むことを気にするのも、神経質すぎるでしょうか?

3つ目の最後の質問なのですが、先輩の信徒(在家)から、

・「そもそも貴方は結縁灌頂を受けておらず、正式に三摩耶戒を授かっていないので、越三摩耶罪は成立しない。だから気にする必要はない。しかし灌頂を受けると越三摩耶罪が成立してしまうので、注意しなさい」と聞きました。

この解釈は正しいのでしょうか?

長文かつ生意気な質問で、申し訳ありませんが、ご意見を伺えましたら幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

御仏縁

kentarou様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「越三摩耶戒罪」につきまして、確かに密教では、誤解や誤用を避けるためにも、正式な灌頂を受けなければしてはならない慎重さ、畏敬さが必要なことがございます。

だからといって、極端に萎縮してしまってはいけません。

もしか致しますと今、なさられておられることが、強い菩提心とやがて結びついて、密教の門を正式に開くご仏縁となるかもしれませんから。

何よりも貴方様のように思慮深く慎重に密教を扱われる姿勢こそが、誠に大切なこととなります。

こんな話もあります。あくまでも余談として。

「これまで幾度となく輪廻する中で地獄にも何度も落ちてきているのに、今さらまた地獄に落ちることを心配するなど滑稽なこと。それよりも、せっかく有り難い仏法と出会える機縁に恵まれている今生を無駄にせず、最大限活かさなくていったいどうしようというのだ。今こそ心からの三宝への帰依と共に、やがて全ての衆生のための悟りを得たいとしての強い菩提心を起こして、できる限りに少しでも仏道を前に進めていくことこそが肝要である。」

是非、機縁がございましたら灌頂を受けられることをご検討なさられて下さいませ。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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越三摩耶、越法罪

kentarouさん、こんにちは。
質問が複数お見受けされるので端的にですが、順番に回答させていただきます。

まず一つ目
だいたいおっしゃる通りですが、印にしろ阿字観にしろ梵字を書くことにしろ師僧となる阿闍梨から灌頂、伝授を受け所作と所作の意味を教えていただいて初めて意味を為します。
古いお経にも非器(器量・資格のない者)が行ってもまったく無意味で徒労に終わると説かれております。
確かに今の時代、様々な教本がありますが、あくまでそれは灌頂や伝授を受けた者が自己の研鑽に使うものであり、それ以外は手厳しい言い方をすればデタラメです。

二つ目
小さな両界曼荼羅、仏壇に曼荼羅を飾るのは本式本義ではないですが、ご縁あって手元にきた曼荼羅でしょう。飾られるのは構いません。
また美術として興味を持たれるのは素晴らしいことですし、購入されるのは構いません。

ただし、一方で儀軌や口訣書などの専門書を読むのは越法罪です。
特に口訣書は口頭面授を基本としており、本の内容をわざと師匠からの口伝を聞かなければわからない、間違えている状態にしている本もあります。

三つ目
大きな誤解があります。確かに結縁灌頂は灌頂の一種ですが、密教僧侶、行者として専門的な勉強するためには然るべき師の元で決められた修行をし、伝法灌頂に入壇する必要があります。

>正式に三摩耶戒を授かっていないので、越三摩耶罪は成立しない。だから気にする必要はない。
これは大きな間違いです。
本来は三摩耶戒を授かっていないのであれば、僧侶や在家の区別はなく、密教の修行、密教瞑想も印を結ぶことはもちろん、真言陀羅尼を唱えることも禁じられていました。

今の時代はそこまで厳しくはありませんが、今の時代でも在家用の真言宗(密教)経本を前から順番に読んでいけば、必ず先に三摩耶戒真言をお唱えし、三摩耶戒を簡易的に護持する部分があり、その後に十三仏や各仏様のご真言をお唱えするようになっています。

蛇足ながら、確かに今の時代は簡単に様々な情報が手に入ります。だからこそ情報の取捨選択が非常に重要であり、こと密教においては情報の取捨選択の目安が師匠からの教えや代々伝わる口訣にあります。情報の取捨選択ができなければ迷い、誤解、不信だけが残り、信を深め真の心の安らぎを得ることはできないでしょう。

以上参考になれば幸いです。
合掌

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有り難し
おきもち

未だ愚迷凡夫の身ではありますが、皆様の一助になるようなお答えができれば幸い...
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質問者からのお礼

川口英俊様
ありがとうございました。

本を読む人間の副作用で、どうしても理屈に囚われがちで、在家信徒はそれに執着してしまっては本末転倒、もっと大事なことがあるとは分っているのですが、なかなか理屈から自由になるのが難しいです。
私の場合、本を読まなければ、信仰を持つことは無かったので、ここがジレンマでもあります。
お坊さんと直接いろいろとお話しできるご縁も、なかなか持てない環境に住んでおりますし・・・・

現在は、知識の公開が美徳とされる社会、印刷技術の進歩、そのためでしょうか。
本来、お坊さんしか読めなかったはずの専門の本が、大型書店や図書館に普通にならんでいます。印や梵字の書き方の本に至っては、近所の商店街も小さな本屋さんでも売っています。

教典を字義通り受け止めるなら、在家は真言すら唱えてはいけないわけですが、どこのお寺でも普通に在家信徒は唱えていますよね。
本を読むと、著者によって越法の境界線はバラバラです。真言すらNGとおっしゃる方から、在家が祈祷をやっても良いじゃないかと簡略した法を公開しておられる方まで、両極端です。
ここまで極端ではなくとも、手印を在家がやることについても、やはり本によってバラバラです。

それで私は、すっかり混乱してしまいました。
しかし、長い六道輪廻を考えれば、地獄の恐怖に囚われるより、もっと広い視野で仏縁を大事にすべき、このお話しで、だいぶ考えの整理がついてきました。
灌頂を受けることも含め、仏縁を大切することを考えてゆきたいと思います。
ありがとうございました。

沙門 亮鷹様
ありがとうございます。
懇切丁寧なご教示、感謝いたします。
大変勉強になりました。

越三摩耶を避ける自分の注意等についても、だいたいが間違っていなかったことを伺いまして安心しました。

ただ、儀軌や口訣書を買って読んでしまったことについては、失敗でした(汗)。
(ほとんどチンプンカンプンでしたが)
私の深刻な煩悩の1つが、余計な好奇心でして、これは自分との戦いです・・・。
ともあれ、今後は在家をわきまえ、もっと慎重になろうと思います。

特に結縁灌頂について、とんでもない誤解をしていたことを教えていただき、感謝いたします。
確かに在家用のお勤めの本にも、三摩耶戒真言があり、そこが疑問だったのですが、ご教示いただき氷解いたしました。
そして結縁灌頂の重要性が理解できました。
誤解から結縁灌頂を受けることを恐れていたのですが、それが本末転倒であることが分かりましたので、ご縁のあるお寺を探してみたいと思います。

ありがとうございました。

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