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落ちてたお金を神様に届けて自己嫌悪..わたしは間違っていた?

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有り難し有り難し 18

私は幼い頃、落ちてた一円、十円を喜んで拾ってた記憶があります(十数年前なのでほぼ覚えていないのですがあったかな..という感じです)

ただ中2.3の時、落ちていたお金が目に入り法律や道徳を色々学んだ私にとって、どうしようか悩みました。勿論法律的にはアウトでしょうが硬貨1枚ですし夜も遅くコンビニの募金箱も奥の方にあって、なかなか言い出せなく..

帰る場所がないのならと神様に。
祠の賽銭箱に入れさせて頂きました。その時は仕方なく..とおもっていたのですが時が経ち、落ちていたお金を神様に押し付けるのはネコババよりも一番の罰当たりでは無いかと気付き、慌てて渡したお金に50円程プラスして賽銭箱に入れ謝罪しました(その時は手持ちがあまりなく母に少量借して貰いました)

ただどうしても罰当たりな事をした、という自覚があり謝罪しても神様、仏様に見放され敵視されてるのではないかと不安です。

これからは10円、1円でも迷惑な顔をされても警察に届けようと思います..。

私自身、罰は当たるもので回りめぐって自分に来ると思います。勿論私が何千円、何万円(そんな大金は持ち歩きませんが)を落として誰かが拾い自分のものにしても文句は言えないでしょう。

高校も始まりなかなか行くことも出来ないのですが、出来る限り祠でお賽銭を入れ、向かう度に反省の意を示したいです。 

昔は心がすさみ悪いことを無自覚でし法に触れる事もしていました。今はそんなことしないと心に決め懺悔文を空いた時間に唱えていますが、やはり罪を重ねた私は見放される運命ですよね..?
  
これから私はお賽銭を入れるだけではなく、他に出来る事は無いのでしょうか。

今更、過去の不正や罪を思い出し馬鹿なことをしたと自己嫌悪に陥ってます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こんにちは。

 落ちていたお金についてですが、今少し調べたところ、法律上は1円でも落ちていたら交番に届ける事になっているようです。しかし法律の運用上、500円程度以下であれば、交番に届けても、交番の方の「はからい」でそのままもらっていいよ、ということになるようです。私も小さい頃、友人と100円玉を交番に届けたことがありましたが、交番の方は、「ごくろうさま」とその100円玉を受け取り、「ではこれはごほうび」と他の所から100円玉を持って来て、私たちにくれた思い出があります。拾得物について、たくさんの書類を書かなくてはならず、そのような少額の拾得物を真面目に扱っていてはモニョモニョ..それに、硬貨を落としても、交番に「落としました」という人もまずいないのでしょう。...などのオトナの事情もあると思います。(財布を拾い、中に1円玉しか入っていなくても、その場合はきちんと届けましょう。落とし主が現れる可能性が高いです)

 というわけで、少額の硬貨が落ちていた場合、まあそのままあなたのものにしてしまっても構わないと思います。が、それでは気分が落ち着きませんね。そこでお賽銭箱に入れる、というのはのは、良い方法だと思います。
 お賽銭箱に入れたお金は、神様や仏さまのものですが、実際使うのはそれを管理している神社やお寺さんです。私の寺では、お賽銭は共同募金などの募金に回しています。どこのお寺さんでも、お賽銭は、多くの人に役立つ事に大切に使われていると思います。ですので、コンビニなどの募金箱に入れたことと結果としては同じです。決して「押しつけた」事にはなりませんので、ご心配なく。

 これからも、その正直な気持ちを大切に、一方で四角四面に決まり通りにやるのではなく、柔軟な考えで生活していきましょう。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。お礼遅れてしまい申し訳ございません。
かなり神経質な所がある癖に、やってしまった後に後悔するタイプで毎回苦しんじゃうんですよね…法は守るべきですが交番に届けても帰ってくる場合もありますし、その時々によってどうするか判断させて頂きます。ありがとうございました ^^)

「神社・神様」問答一覧

神を信じられなくなって辛い。

カトリックですが、神父さんに相談しても解決しないので、こちらにおすがりしています。 数年前、ヒルティと言う偉人の書いた幸福論3部作に心酔しました。良い事も書かれていて非常に感銘を受けました。只、迷信も結構書かれていて、、書物や場合によっては人との出会いは導き、とか。人との出会いは導き、と言う事を信じてしまい、当時出会った人と結婚しましたが、タイプの方では無かったのですぐに苦しくなり、、やむ無く離婚を申し出て相手を非常に傷付けました。私もそんなひどい事を自分がした事に傷付きました。以来6年半経ちますが、神は何故こんな事をしたんだろうと、考えています。答えは勿論ありません。神を信じられなくなってしまいました。辛いです。神父さんとかは、その出会いにも別れにも意味があると言いますが、彼女の嘆きを見た私には、意味があったとは思えません。何でこんなひどい事を神はしたんだろうと悩み苦しんでいます。神は予定はしない、と神父は言うのですが、納得いきません。ヒルティが迷信を書いていたのを信じたのが悪かったと思っていますが、抜け出せません。どうしたらいいのかなぁ、、何卒宜しくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 38
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天部の神様と死について

こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 1
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神を信じられなくなってしまいました辛い。

カトリックのクリスチャンですが、神父さんに相談しても一向に解決しないので、こちらにお縋りしています。 数年前に偉人のヒルティと言う人の幸福論と言う著作を読んで心酔しました。何度も繰り返し読みました。確かに良い事も書いてあったのですが、書物や人との出会いは導き、と書いてあったりして、当時の私は私の知らない宗教の神秘かと思い、信じてしまいました。当時出会った女性が自分のタイプでは無かったにも関わらず、運命の人だと信じて結婚しました。直ぐに苦しくなって耐えられない位になり、やむ無く別れをお願いして離婚しました。彼女は号泣して私の胸も引き裂かれる様でした。 以来6年余りが経過しますが、未だ神に逆らって離婚したと言う気持ちが無くなりません。どうして神はこんな事をしたのだろうと答えの出ない問いを続けて苦しんでいます。でも神を信じているから、答えが欲しくて。神父さんにも相談してみましたが、キリスト教も誤った解釈があるとかとは、絶対に言われないので、一向に楽になりません。地獄を彷徨っています。神が何故不幸になる様な事に導いたのかなぁ。どうか宜しくお願い申し上げます。死にたい位辛くてなりません。涙

有り難し有り難し 20
回答数回答 1

稲荷信仰の宗教学民俗学的知見を求めてます

 最近、狐に呼ばれているような気がします。稲荷神社に参る必要性を感じているのですが、どこの稲荷神社に行けばよいのかわかりません。  20歳の時に初めて参り強く心惹かれ、なんとなく購入してきた狐のぬいぐるみを会社に居る間ずっとお世話させていただいていた京都の伏見稲荷大社が筆頭ですが、子供の頃に毎日通っていた千駄木の満足稲荷、今は両親の離婚に伴い縁のない実父の家が代々氏子を務める根津の根津神社内の乙女稲荷、生まれた病院の隣の湯島の花姫稲荷にも縁があります。現実問題として現住所が東京であるため、伏見稲荷大社以外でも失礼にあたらないのであれば、そちらに参りたくもあります。  また、昨年は自殺を考えるまで思い詰めたいた時期もあったのですが、その際に縁もゆかりもなかった女性に救われました。その方とは今は連絡が取れないのですが、不思議な人で、どうも今を思うと言動の節々や所作から、狐だったような気がしてなりません。ただ、この方は仏教系の荼枳尼天に近い気もしており、そうなると仏教系の豊川稲荷に行くべきかもしれません。  祀るにあたってリスクがあると言われる稲荷神ではありますが、それだけに失礼のないよう調査しており、また、この機会に一生祀る覚悟もあります。そうでなくとも、召喚には応ずるべきですし、もしも本当に自殺の間際から救ってくださったのがお狐様であるなら、お礼は言うべきだと強く感じています。故に、気軽に選択できずにいろいろ調べている現状です。  神仏には何かを求めるものではなく、あくまで個人の努力を応援してくださる存在として、私個人の思想と行動を中心に考えるべきということも重々承知しており、現実的な偶然を神秘的な問題と混同する危うさも理解しています。しかし、今回は、なんとなく重要な問題のような気がするので、心の問題というよりも、宗教学・民俗学的問題としての情報を求めています。  稲荷神の分霊に関して、総本宮である伏見・豊川の祭神と、それ以外の全国の稲荷神社の祭神は、神道系仏教系の同カテゴリの稲荷であればそれぞれが等しくどこからでもアクセスできるのか、派遣され憑いてくださるという眷属に関してはどのようなシステムで運営されているのか、全国の稲荷神社に参拝して信心を納めても良いものなのか、宗教学・民俗学に詳しい方がおられましたら、回答もしくは書籍の紹介いただけると幸いです。

有り難し有り難し 8
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ