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臨死体験から蘇生しました、私が生かされた意味とは?

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随分と昔の話になりますが…

子供がまだ産まれて間もない頃、
笑われてしまうかも知れませんが、外出先で原因不明の心肺停止になり、ICUに運ばれ臨死体験をしました。

この時に単に復活した!というより、本当に生まれ変わったというか、リセットされた、一回しんだのに再び生かされた!という不思議な感覚で、心も体もスッ
キリ感が凄くて、『おまけでもう一度もらった人生、何かしなくては!』と、無性にかきたてられる様に、心理学を勉強しカウンセラーの資格をとったり、それをふまえてボランティア活動に精力的に参加したり、今は、犬の保護活動を手伝わせてもらったりしながら、我が家にも保護犬が里子として来てくれて一緒に生活してます。

臨死体験の時に、祖父が現れて救ってくれたのですが、祖父は、神仏をとても大切にする人で、生きてる時に私にも『誰も見てない時こそ真面目にやるんだよ!』と教えてくれました。

だから、日々まっすぐ生きよう!人には優しくいよう!先祖や周りの人に感謝しよう!と生きてきましたが、なかなか思う様に生きられず、お金を騙しとられたり、DV、浮気されたりなども経験し離婚して、いまだに、困難やトラブルに巻き込まれてしまい、どう生きるべきか?分からなくなります。

私は、至らない所ばかりだし、見返りを求めて何かをするべきではない!と思って生きてるつもりですが、何か意味があって、私にオマケの人生をくれたのでしょうか?

傷つく事で、相手の痛みも分かるから!と、ポジティブに考えよう!と思ってきたのですが、理不尽な事や傷つく言葉を浴びると心が折れてしまい、今は、へこんでます。

心が苦しいときは、どう考えたら良いでしょうか?

どうしたら、しあわせになれるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

苦しくても不幸ではない

色んな苦しいことがありますね。
苦しいということは、何か対処しなくてはならない(やらなきゃならないことがある)状態でしょう。
DV受けたら身を守らなきゃならない、逃げなきゃならない。
でも、それがイコール不幸せ、ではないのです。
忙しい飲食店のシェフ、毎日やるべき仕事に追われる。でも、不幸ではない。
プロボクサー、試合で殴られる。でも、不幸ではない。
マラソンランナー、ぶっ倒れるくらい苦しい練習と試合。でも、不幸ではない。
苦しいから不幸とは限らないのです。
苦しみから、むやみやたらに目をそむけようとしたり、
苦しみがあることを覚悟していないときに突然苦みに襲われたら、
不幸だと思ってしまうだけです。
生きることは苦しいことだと認識し、
苦しみを受けるプロになりきって、ただ、今できることをすればよい、それが人生のプロだと思いましょう。
どうせできることしかできないんだから、できることをやればよいだけです。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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おまけでしょうか

 こんばんは。実は、我が父も手術後、心配停止になりまして、その後復活しました。その時やはり、見たことない(そして、聞いたことのある)イメージが見えたそうです。そして、「まだ死なないで、やる事があるんだろう」と思ったそうです。
 息子から見れば、「お医者さん達ありがとう」なのですが、本人としては確かに、「ああ、命長らえた」という感じだったのでしょう。
 私たちは人生の中で、いくつかのできごとを原点と捉えるようです。もちろん人によってさまざまで、「結婚した」「子どもが生まれた」「就職した」「死別した」、それこそ周りの誰からでもなく自分で「ああ、あれが私の原点・私のターニングポイント」と信じている、プラスの出発点です。
 つまり言いたいのは、あなたの臨死体験は原点の一つであるけれど、だからといって、それ以降が「オマケ」ではないのだろうという事です。「何故そんな事を言うの?細かい言葉の言い換えじゃないの」と思われるかも知れません。しかし、今生きている自分を「おまけ」と見ることは、「あの時死んでいれば…あの時本当は死んでいたのに…」という妄想を産んでしまいそうだからです。
 前回のご質問の時、「呼吸を観察する」ということをご紹介しました。「心が折れているいま」であっても、身体は呼吸し、生き続けています。身体は生き続けたがっているはずです。あるいは、お子さんの胸に耳を当ててみて下さい。心臓の鼓動を聞いてあげて下さい。そこで感じることを、しっかりと感じてみて下さい。
 その命を守っているのは誰ですか。あなたでしょう。生きることは苦しい。苦しみとは、「思い通りにならないこと」を指します。でもその中で、あなたはなお、生きています。お子さんもそうです。誰もがみな、同じなのです。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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質問者からのお礼

願誉浄史 様。
苦しくても不幸ではない!立場や事情が変われば色んな捉え方があるのですね。
苦しみを受けるプロになる!ってまでは、まだまだ強くなれませんが、できることから考えてみますm(__)mありがとうございました。

佐藤良文 様。
再び、温かなお言葉いただきまして、ありがとうございます。『オマケの人生だから』もっと、何か世のため人の為にしなくてはならない、苦しい事があっても生きてるだけ有りがたい事だから、毎日、後悔のない様に!と、焦りもありましが、オマケではない!と、言っていただき救われました。
ありがとうございましたm(__)m

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ