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仏教が目指すゴールはなんですか?

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まず、煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか?

だとすると、「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。
何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。
個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。
(本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが)

では仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教の目指すところ

有未様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか?」・・

煩悩、苦を滅していくことは、あくまでも修行の過程におけることであって、最終的には己も含めて全ての輪廻の迷苦にある衆生が済度致すところへと向かっていくべき教えであると理解させて頂いております。

「「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。」・・

「人」というものは、五蘊という集合体に名付けられてあるだけのラベルであって、本来は何か「人」と言えるような実体は無いのであります。ただ、煩悩も、その大元である無明も、また苦しみも、「縁起」によりて成り立っているだけのもので、無明・煩悩・苦しみという結果をもたらしめている因縁さえしっかりと変えてやる、無くしてやることができれば、当然に滅すことができるものであるかとは存じております。

「何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。」・・

自分も個人も、他人も世界も、それぞれも一応は「縁起」なるものとしては成立していると考えることにはなります。但し、実体(・自性・自相)としてはどれも成立していないものとなります。前者が「世俗諦」、後者を「勝義諦」と仏教的には述べることとなります。

とにかく、分かれるも、分かれていないも、双方ともに、それぞれ実体としてあり得てはいない事態であるとは考えております。

「個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。(本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが)」・・

「個人」としてだから云々もそうかもしれませんが、私たちは顛倒した認識により迷い苦しんでいるとは言えるため、確かに見かけ上の苦しみであると言えるのではないかと存じております。

「では仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。」・・

はい、ある意味では正解です。人と無・弗(否定詞・ム)で、「仏」「佛」ですので。

まあ、「人でなくなる」というよりも、私たち凡夫としてある顛倒した認識のありようを完全に直して衆生済度させて頂けるように調えさせて頂くということと存じております。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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向かわんとすれば 脚下の道を見失う

Q仏教が目指すゴールはなんですか?
Aいま、ここに、こうしていられることです。
ここにこうしていられないから、あなたは問題になっている。
坐禅会にお越しやす。

Qまず、煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか?
Aそういってもいいでしょうが。今、どこかに煩悩やら苦がありますか?今、無いものを認めて、頭の中で無かったものを引っ張り出してきただけじゃないですか?

Qだとすると「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。
A「人」=人我(自分を認めたものの見方)をしていると、自分を中心とした都合やら基準が生まれますから、当然、苦しみがでるのです。

Q何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。
個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。
(本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが)
A本当のところは、分離も一体もありません。眺めが無くなるのですから。

Qでは仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。
A今、あなたは「人」だったでしょうか?名もなきものだったでしょうか。認識にのぼっていない❝無❞だったでしょうか。取り扱いを起こす「人(自我)」が出てくると、物事を考えの上で取り扱おうとするようになるのです。
(^。^)「ひとでなし」ではありませんが、仏、無我(自我意識なき。この身心)になることです。
ゴールと立てた途端に、ココが見失われる。
ココをおいて他になぜあなたは遠くに理想を立てておられるのか。
即今、即処、いまここを見ずに頭で❝観て❞いないかどうか、ご点検を。

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通仏教ぶった論調になっていますが、あくまで禅の視点から

さてさて、煩悩って何でしょうね?細かいことは省きますが、煩悩の親玉は「自分と世界は分かれたものであるという分離感」です。人間、なかなかそれが分からないし、分かっちゃいるけど止められないからイロイロ難しくなる…
他人のことも自分のことのように大切にできれば殺しようがない。死なせる他人がいない。盗む他人の物がない。憎む者もなければ羨む物もない。だから苦が生じる原因がない。

じゃあ、自分のことを二の次にして全体を大切にすればいいのか?それは違います。それじゃただの両極端です。自分だって全なのですから。それと同じように、個人が有ると言っても極端ですし、無いと言っても極端なのです。そうではなく、仏教のゴールは『自由』です。

自由というのは本来、仏教語です。ただし、Freedomの訳語としての「自由」とは別物です。「自由」は「個の尊重」ですが、仏教の『自由』は『個も全も自由自在』のことです。それを言い換えたのが般若経なら『色即是空・空即是色』、華厳経なら『一即一切・一切即一』、法華経なら『一念三千』であり、より古い時代には『因縁生起』や『諸法無(非)我』。ついでにウチの曹洞宗に言わせれば『身心脱落・脱落身心』で、臨済宗では『生きているうちに死にきれ』、密教なら『梵我一如』。服装や修行の形は違うのに、み〜んな口を揃えてこう言っているんです。面白いでしょう?

具体的にどうすればいいかと言いますと、私の表現では『人であることをまっとうする』ことです。食事の時は目の前の食品をいただく、これを全うする。掃除するときには掃除機や雑巾かけることを全うする。目の前の一つ一つを全うすることが個と全を一つにして生きることです。その一つ一つに過去・現在・未来にわたる、原因と結果の大きな大きな流れの結晶が凝縮されています。そして日常の一つ一つを大切にすることで、この世界(仏)に我が身も心もお任せして生きるということが成されるのです。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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涅槃(ねはん)と利他の2つのゴール

生き物には必ず苦しみがあります。
一般的には、仏教のゴールは、煩悩をなくし、生き物であること(苦しみのくりかえし)から卒業することです。
いわゆる涅槃(ねはん)、ニルヴァーナ、平安なる滅び、です。
その涅槃を邪魔するのは煩悩なので、仏教では、煩悩をなくす修行をするわけです。
煩悩があると、死んでもまた生まれ変わってしまい、生き続けてしまうので。
煩悩が完全になくなれば、死んだら涅槃(ねはん)に入れるので、生き物の世界から見たら完全に滅んでしまうことになります。
私達は呼吸してるだけでも微生物くらい殺してるでしょう。しかし、涅槃に入ってしまえば、殺し殺されることもありません。
たとえば、お釈迦様はすでに涅槃に入られているので、ご自分が苦しまないのはもちろんのこと、他の生物に対しても、微生物一匹たりとも苦しめはしないのです。
ということで、一般的には仏教のゴールは、涅槃、平安なる滅びです。

ただし、大乗仏教と呼ばれる仏教(日本の宗派も大乗仏教です。)では、自分が涅槃に入れる悟りのレベルに達しても、あえて涅槃に入らずに、苦しんでいる他者を涅槃に導くための利他(他者を救う)の活動を続けるぞ、という思想もあります。
阿弥陀仏などは、ご自分はいつでも涅槃に入れるレベルなのに、あえて生き続けて、私達を涅槃に導く活動をされているのです。
お釈迦様も、35歳で煩悩をなくして、いつでも涅槃に入れるレベルに達したのに、実際に完全な涅槃に入ったの(入滅)は80歳であり、その間は、ずっと他人を導く利他の人生を歩まれたのです。晩年は腰痛や病気で苦しまれましたが、死が近づいた最悪の体調時でも、弟子にしてくださいと訪ねてきた人を快く受け入れました。

ということで、仏教には2つのゴールがあります。
1つは、自分の煩悩を克服して自分が涅槃(平安なる滅び)に入ること、
2つには、あえて涅槃に入らずに他者を救う活動をすること、です。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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ゴールは成仏です

浄土真宗のお話をします。

仏教のゴールは「仏に成る」ことです。
おっしゃるように成仏すれば、苦しみはなくなります。
人として生きながら成仏する道を歩む宗派もあれば、死後に浄土で成仏する道を歩む宗派もあります。
私が信仰している浄土真宗はこの命での成仏を捨てています。
「私は生きながら成仏はできない」と知らされるところが根底にあります。
だから【死後に極楽浄土へ往生するさせる】という御利益がある阿弥陀如来の他力に任せています。

いのちは輪廻しているので、死ぬとまた生まれ変わり来世が始まります。
修行して死んで修行して死んでを繰り返せばいつか成仏ができるかもしれません。
途中でやめてしまえば、積み上げた功徳は退転し0になっていまいます。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
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宗派によって違います

法華が唱えているのは罪障消滅です。
これを目的、通過点とします。

成仏とは仏になること。仏は南無妙法蓮華経と唱えて成仏した経験から、人々にも南無妙法蓮華経を唱えるよう活動しています。

つまり、成仏とは南無妙法蓮華経を自ら唱え、他にも勧める姿を言います。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れ...
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質問者からのお礼

ご回答いただき誠にありがとうございました。

最終的には己も含め全ての輪廻の迷苦にある衆生が済度致すところへ、、の教えであること、理解できました。

うーん、
無明・煩悩をもたらしめている因縁を変えることができるのでしょうか。。

そうですね、分かれていて、分かれていない、そう捉えられます。

人と無で仏!!
これは面白い表現ですね。

だんだんと仏教に理解が深まってきたように感じました。ありがとうございました。

願誉浄史さま
ご回答いただきありがとうございました。
2つの目的というのは、ある意味では納得です。
涅槃にあえて入らず人を救うことについでですが、そのコントロールができるという意味に感じました。私は誤解をしているかもしれません。
涅槃=死と捉えてもよろしかったでしょうか?
死は永遠の平安であります。
平安だと感じている存在もいないですが。
もう少し勉強させていただきます。

大慈さま
ご回答いただきありがとうございました。
煩悩の親玉は「自分と世界は分かれたものであるという分離感」ということを私も感じています。この分離感が強ければ強いほど、孤独だったり劣等感だったり、様々な苦の根源だと思います。(ですがこれも見かけ上のお話になりますが。。)はい、まさに般若経の『色即是空・空即是色』そのものですね。

なるほどー!宗派によって色々な表現に違いはあれど、同じことを言っているんですね。大変勉強になりました。感動しました。

そうですね、経験には優劣もなく、何も特別なことはなく、全てが特別です。
悟りとは最終的には平凡な日常の中へ入っていくことだと思っております。
ありがとうございました。

丹下さま
ご回答いただきありがとうございました!
坐禅会に是非参加してみたいです^_^
そうですね、自分というものが中心である限り、世界と自分は分かれたものであるという認識が生まれます。それは認識だけにとどまらず、感覚的なものもあるかと思います。
取り扱いを起こす「人(自我)」が出てくると、物事を考えの上で取り扱おうとするようになるのです、ということについては、まったくその通りです。
探究が始まるんですね。
もともと探究者はいないので、見かけ上の探究をしているのですが。。
はい、「此処」を見落とすことも、「此処」で起きていること。此処以外に生きられる人はいないので、見落とすこともできません。
奇跡のようですね。

釈心誓さま
ご回答いただきありがとうございました。
人として生きながら成仏する道を歩む宗派もあれば、死後に浄土で成仏する道を歩む宗派もある、というのは知りませんでした。とても勉強になりました。
死生観によって、転生輪廻の議論は分かれるところです。浄土真宗の教えを詳しく教えていただき、ありがとうございました(^O^)

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良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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