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輪廻転生する“私”は存在しないと思うのですが…

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有り難し有り難し 19

今日は! 食前と食後にお菓子を食うせいやです。

存在しないというより幻や夢といった表現が合っているのかもしれません。私はいないので、苦や世界もあるように思えて存在しないと思うのです。だから善悪すら本来は無いというか、あるんだけど絶対悪の如く極端に偏っている事はないと思うのです。世界は中立だと思うのです。心の持ちようで世界は地獄にも天国にもなると思うんです。

明晰夢をみている感覚です。湧き起こってくる心をみているというか、それに一々惑わされずに済むのです。この夢で行為しているのは自分ではなくて、観察しているのが本来の私だと思ったんです。仕事に行く前、ソファに座っている時、この事に気付いて腹を抱えて笑ったんです。

夢だとわかっても楽しめるものは楽しむんです。だから、食前と食後にお菓子を食べるわけです。

上手く言葉に出来ません。質問になっていないので回答はいらないです。お邪魔しました。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

うまく言葉にできない、に逃げない。

ぶっちゃけこう言っちゃなんですが、自称・悟りを開いちゃった人に陥りやすい症状です。
ウチのお寺には時々自称悟りを開いちゃった人がやってきますDA。
ワレコソハ( ˘ω˘ )悟リアーニナルゾ  ハハー('Д' )-ω-)ぷぷp…
そういう人たちに共通していることは、すぐそこでできあがっちまってること。天上が低いのです。
なんか、この私の体験は特殊過ぎて誰にもワカラナイダーしゅわっち、になってしまって、それ以上進化しようとシナイダーなのです。
チョットだけ厳しいことを言います。
これは、あなたに対してではないです。そういう自称悟って出来上がっちゃった系の方に対して申し上げるのですが、それは「ケチ野郎」の考えなのです。
自分だけが幸せゴールに到達して悦に浸っているケチ野郎です。
この世に誕生して、いろんな方々の縁によって、そういう心境になったのに「私は悟った」に酔って浸って誰にも分かるまいと上から目線で、自分一人の独自の世界で自分に酔ってるナルシストの一種です。
お釈迦様は違います。祖師方も違います。
その心を誰にでも分かるように説いています。祭り上げてもいない。
大乗に対して小乗と言われますように、自分だけ救われたところにとどまっているのは結局悟りではないのです。自分がないと言いながら、どうせわかるまい、という自分がある。
そういう風にはならない様には注意された方がいいでしょう。
彼らのように、そういう所にとどまっているのも輪廻転生にどハマりしている状態の一種だからです。

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「如幻・如夢」について

せいや様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「存在しないというより幻や夢といった表現が合っているのかもしれません。」・「夢だとわかっても楽しめるものは楽しむんです」・・

まさにある意味ではその通りです。ただ仏教における「幻」や「夢」の表現の例えというものは、「空」(実体・自性・自相の無いこと)を示すための意味で用いられますが、正確には、「如幻」や「如夢」として、あくまでも「如し」であって、「幻」・「夢」そのものではなく、「幻・夢に似ているもの」ということになります。

なぜ、「如」と付くのかと申しますと、幻や夢は、何も効力を持ちませんが、現実世界では、色々な効力(効果的作用力)が生じることになるからであり、「イコール」ではないということで「如」が付くのであります。

例えば、幻の例えとして蜃気楼というものがありますが、海の彼方で浮かび上がっている蜃気楼の船は、何かを載せて運ぶことはできませんが、現実の船であれば運ぶことができます。夢の中での交通事故では怪我をしませんが、現実ではそうは参りません。

そのようにして両者の違いを理解していくことが大切となります。

「輪廻転生する「私」は存在しない」・・

「私」というものも、もちろん「実体・自性・自相」として存在はしていません。但し、今もこれからも連続していく、相続していく「私」というものは扱うことになります。空にして縁起により成り立っている「私」となりますが、このあたりのことを理解していくには、少し難しいところもございます。

是非、仏教を修習されながら、これからも探究していって頂ければ有り難いことでございます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。私が体験した事は言葉では表現出来ないんです。静かに在るというのが大事なんでしょう。マハルシやマハラジがそうであったように。

覚元様回答ありがとうございます。私はここで終わりとは思っていませんよ(笑)だから20日になったら出家しますし、そもそも思っていたらこのサイトに書きません。

空の理解に留まっている日本人グルをみたことがあります。その時、自己中心的だと思ったんです。その様な明晰夢をみたい訳じゃないんです。真我について人々に広めていきたいんです。

貴方の辛口な物言いと合間に入れる冗談が好きです。冒頭の滑り芸も貴方の影響(笑)

追記です。「私は悟った」とは思っていませんよ(笑)私は行為者ではなくて観察者だから。観察者である真我に夢見も目覚めもないのです。生まれてもいないし死にもしません。永遠不変の存在です。

いや、永遠不変という表現すら違うでしょう。「何々ではない」という表現で表せる何かです。全ての想念を捨てる必要があります。言葉では表現出来ないとは、こういうことです。

また、念のために記しておきますが、大乗仏教の信者より上座部仏教の信者が下だと思っていませんか?

もしそうなら証明してみせてください。彼らに根本的、本質的違いはないはずです。上辺っつらだけで判断するのは、ラジオが流れているのを「機械が喋った」と思う様なものです。

ああだこうだと決めつけたりした物事を他人に押し付けても通用しないのです。その様なレッテルは、その人の世界にだけあります。まるで夢を現実だと思っている様です。思い込みや決めつけをやめれば、夢の中で夢だと気付くと思います。多分ね。

根本的、本質的違いがないとはこういう事です。

それはさておき、自分で書いといてなんですが、上記の「私は観察者」みたいな事も断言するべきではないんですね。森羅万象に内在し、包括もする意識の様なものです。沈黙こそ一番の雄弁であると改めて気付かされます。

川口様。ありがとうございます。しかし、私は世界による影響を受けません。交通事故の怪我で例えられていますが、傷付くのは体や心であって私ではありません。また、私は連続も相続もしていません。私は、その様な幻覚すら捉えていません。世界の中に私があると思っている人にとっては、その様に思えるのかもしれませんが。心の中に世界があり、その中に体があります。そして、心を包括し、体に内在しているのが私です。

だから、私が「真我を広めたい」と言う時、それは心に対してです。

書き間違えた。「私の心」ね。世界のあるがままをみるんです。言い換えると「静かに在る」です。

「輪廻転生」問答一覧

解脱する方法は確立されていますか?

私には、「もう二度と人に生まれたくない」という、漠然とした、でも強烈な願望があります。 生まれ変わった自分は今の自分とは関係のない赤の他人であり、そんなことを気にする必要はない、なぜそのような悲しいことを考えるのか、もっと楽しく生きなさい なんてことを言われたりするのですが、むしろなぜ他のみんなはそう考えないのだろうと思うくらい 私にとっては本当に強く願っていることが「もう絶対に、絶対に生まれてこないこと」です。 仏教には輪廻転生の考え方があり、その輪から外れる方法が解脱だと聞き齧りました。 まだ仏教について何も知らない人間の質問で大変恐縮なのですが、 つまり解脱することができれば、もう命として何かに宿ることは二度とないのでしょうか。 私にはそれがとても魅力的なことに感じます。そこで、解脱の方法とは、こうである、と言うものが確立されているのであれば教えていただきたいです。 でもきっと、そんな簡単な、うまい話はないのだろうとも思いますし、この質問自体どこかズレているのかもしれません。 もし回答できるものではないのだとしたら、自己研鑽として、仏教について学びたいとも考えておりますので、何も知らない人間がまず手始めになにをすべきかを教えていただけますと幸いです。 このような場を設けていただいていること、質問のご縁をいただけたことに感謝致します。

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神通力

 前回「釈尊の悟りは神通力を得た結果?」を投稿しましたが、当たりのようです。  駒沢大学学長を歴任された水野弘元先生の著書「釈尊の生涯」の「成道と三明六通」には「(前略) そして濾尽智通以外の五神通は、必ずしも仏教者だけでなく他の宗教家や鬼神狐狸の類に至るまでも、浅深の差はあっても、これも得ることが出来るとせられる」と書かれています。  三明六通の「六通」とは先ほどにに記述の「五神通」とあるように、「六神通」と考えることが出来ますので、「神通力」を得たと考えて差し支えないと思います。  古代インド社会では「輪廻転生」は常識であったそうですが、当時のインド宗教者は、互いに神通力を競い合ったと考えられます。  三明の最初の一明は「過去に関するすぐれた智慧の宿命通(宿命明)」となっていますから、釈尊だけでなく、それ以前の宗教者にもそこに到達して、「輪廻転生」が世間に広まったと考えられます。  余談ですが、阿含宗を創設した桐山靖雄師は、著書「輪廻する葦」のなかで、成仏法と称して、神通力を修練することを勧めたようです。私は読んでいませんので想像ですが、論理の「阿含経」ではなく実践法の「雑阿含経」を研究していたようです。

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輪廻転生の考え方について

質問が2つあります ①仏教では輪廻転生と言う考え方で生まれ変わると言われていますが 人口の増減についてはどう考えているのでしょうか? 今の日本の人口は1億人を超えていますが 奈良時代 大宝律令ができたころは310万人~320万人ほどだったようです。 日本史の教科書では 昭和初期の満州事変が始まった頃のことを 日本は中国人4億5千万人を敵に回すことになった と書かれていますが 今は中国の人口は軽く10億人を超えています 同じ国籍だけに輪廻転生するとは限らない 世界規模で考えるべきとしても 現在世界の人口は70億人程度いるようですが 1世紀に前に比べても数倍になっています もっと言うなら 数万年前の ~~原人 とかいたころはどうなのか? とか いろいろ説明がつかないことばかりです。 昔の 江原啓之さんが出てくるような心霊番組はテレビでやらなくなりましたが (便乗した霊感商法 悪徳商法がはびこるようになるとか、輪廻転生を信じた人が人生をやり直すために自殺するケースが出たなどの理由で弁護士などがテレビ局に抗議したそうですが) 当時の番組では江原さんは輪廻転生を言っていて 「あなたの前世は~」と言う話になると 全て人間であり、他の動物だったケースは見たことがありません。 しかし 全ての人間が また人間に輪廻転生をするとすると 個体数の関係で辻褄が合わないことになります。 これは仏教ではどう考えているのでしょうか? ②私は亡くなったら全て「無」に帰す 霊魂も輪廻転生もないインチキだ と言う考え方は好きではありません。 それは 大切な肉親を亡くし時点で「永遠の絶縁」を意味するからです。 死ぬことは怖いとは思いませんが、肉親と未来永劫絶縁になると想像するほうが怖いです。 霊魂や輪廻転生を完全否定する宗教家の方もいるようですが、肉親を亡くしたら情なんて捨てろ と考えているのでしょうか?

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誕生の仕組み

 輪廻転生が真実であるとすれば誕生の考え方が大きく変わります。  まず結論から言いますと、「心は自分自身であり、親から貰ったものではない」と言うことです。 即ち自分の生老病死は自己責任であるということです。  ことわざからはじめますと、  「身体髪膚これみな父母より賜う。あえて損傷せざるは孝の始めなり」  これは身体だけであり、心は別ということになります。  「子は授かりもの」   もし心も親譲りであれば我が子であって、授かるとは言わないでしょう。  「とんびが鷹を産む」  親子の気質は別物であるという事でしょう。  「愚兄賢弟」  もし親譲りであれば、兄弟でも性格が違うとは、遺伝子的には考えられません。 原則的には類を以って集まるはずですから、性格が似ていることは多々あります。  臨死体験者(新堂のぶ子氏)の言葉(講演会にて)  「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」  ある宗教学者はネットで「龍樹と輪廻転生」と題し   「ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と述べています。  「意識」は心と同一と考えてよいと思います。   以上が結論の根拠です。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ