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禅や瞑想について

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よく不安関係の質問でお世話になっております。

以前、いろいろ不安克服法について調べたのですが、よく禅や瞑想のことが取り上げられています。
心を落ち着かせる点で、効果的だと聞きました。

ただ、禅や瞑想について調べると、いろいろなやり方があり、どれが良いのかわかりません。

一番良いやり方があれば、教えてほしいと思い、投稿しました。できれば、家でも外でもできる禅や瞑想を知りたいです。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分をしない事

外の出来事にあれこれ心を関わらせない心を坐といいます。
座るんじゃありません。
ただ坐るのでもありません。
ただはただでも「ただ」という看板・ラベルを念頭に置いたらそれもただではなくなる。
人間は黙っていてもいろんな思いがポンポン沸き起こる。
それをよく見てみてください。その思いはあなたが自然に生み出しているのではない。
全自動、まったくの自然発生です。
それを無くそうったってなくなりゃしません。
思いには、第一次発生的なおのと二次発生的なものがある。
二次発生的な思いをさせないことが坐禅の眺めです。
何故なら二次発生的な思いはすべて自分が関わらせた私的な思いだから。
それをしないスタンスが坐禅のありようです。
たとえばラインやフェイスブックで色んな情報がポンポン出てくる。
それをいちいち拾い上げが多い人は、やれベッキー、ゲスの極みだと大騒ぎする。
興味の無い人はホットケさまです。
二次的に自分にかかわらせないからです。そういう生活を坐禅瞑想でなくてもすることが大事です。
振りかえってみてください。上記の事と、反対のことをあなたはやっているのかもしれません。
出てくること、気にしていることをことごとく自らにかかわらせている。
自分にかかわらせているという事は、心の動きとして「わたくし化」する動きがあるはずです。
何でもかんでも割り込んで首を突っ込む人の心理と同じです。
それをしない生き方をして見ましょう。生きた坐禅・瞑想になりましょう。
さらにくわしく聞きたければ当山の坐禅会か、フェイスブック内のグループ「TOKYO禅」ページでご質問ください。

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お釈迦さまの禅定がオススメ

降魔成道(ごうまじょうどう)
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お釈迦さまがまだ、あなたと同じ悩み多き人間だったころ、最後にしたことが禅定(ぜんじょう)でした。
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お釈迦さまは静かに座り自分の心の隅々まで不安を追い掛けて徹底的に潰していきました。それは肉は裂け骨は砕かれ血は飛び散るほどの壮絶な『魔』との闘いだったのです。
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静かに座っているだけに見える禅定も実は内面は激しく動きあらゆることに心を傾け不安をことごとく消し去る作業をしています。その先に気付けば「無漏(むろ)」になっているという事が起こるわけです。
不安が漏れることが無くなる。
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みなさんが言う「無」とは考えないようにするとか、不安に鈍感になるという意味のようですが、実は違います。
考え抜きもう不安なんて何も無い、安心に満たされた状態を「無」と申します。
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どうぞ、どんなに小さな不安も心の隅々まで追い掛けてやっつけてください。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れ...
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こればかりは向き不向きがありますから何とも言えませんよ。肥満すぎる人は体重を落とす努力をし、痩せすぎの人は体重を増やす努力をしますでしょう?そこでじゃあ増やすのと減らすのどっちが優れてるの?という話にはなりませんね。それは1人1人の体調や体質に応じて決まることであり、やってみないと分からないことです。宗派の修行の違いというのはそういう所から生まれています。

不親切な回答になっていますけれども、あえてこう書くのは本当に色々やってみていただきたいからです。と言いますのも、結局は良い指導者に出会えるかなのですから。

さて、禅や瞑想…確かにたくさんありますね。宗派の数よりたくさんあります(笑)家や外でも出来るのはどこの宗派でもありますよ(浄土真宗さんはそもそも修行を否定したという所が特色だから無いかも)。分かってくればベビーカー押してエスカレーターのまわりをグルグル回りながらでもできますし、靴屋さんの椅子に座ってでもできます(←良い子は真似しないように)。

ただ、やはり最初は習いに行くべきです。独学をこじらせて変に狂信し、天狗になって人柄が難くなってしまっている人、たくさんいます。独善の方向に進んでしまうと逆効果ですし、それこそ方法論の問題ではなく、ご縁を大切にできるかどうかの問題ですから。

まずは坐禅会やプチ修行をキーワードにして近場から行ってみるようにしてみてはいかがでしょうか。お寺にお参りして手を合わせる…それ自体にも簡単な瞑想要素があるのですよ。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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面壁坐禅

 私は曹洞宗の僧侶ですが、曹洞宗の坐禅の特徴は
①面壁坐禅(めんぺきざぜん)・・・壁に向かって坐禅をすることにより、自分を見つめる。
②只管打坐(しかんたざ)・・・坐禅をして、悟りを開くのではなく、坐禅そのものが悟り。
③威儀即仏法・作法是宗旨(いいぎそくぶっぽう・さほうこれしゅうし)・・・坐禅の形や作法、手順を忠実に行うことが、坐禅を行うことに於いて重視される。
④一炷(いっちゅう)の坐禅が40分を。5分の経行(きんひん)を経て、10分の東司(とうす)休憩、40分の坐禅が基本。
⑤坐禅の時は丸い座布団の坐蒲(ざふ)を用いる。
 お寺の中でなくとも自宅でも青空の下でも行えるのが坐禅の特徴です。仏は坐禅している自分そのものなのです。
 ただ、坐禅をしたからと言って、心が落ち着くわけではありません。比較的心を落ち着かせる効果はあるかもしれませんが、現実問題が回避されるわけではありません。自分の都合のために坐禅があるわけではありませんのでそこは勘違いしないように。自分の不安克服が出来なかったからと言って坐禅のせいにしないように心から坐禅を楽しんでください。

一炷(いっちゅう)・・・9寸の線香約1本分
経行(きんひん)・・・坐禅の後、一呼吸毎に歩く事。しびれや固くなった足をほぐす効果があります。歩く坐禅と言われております。
東司(とうす)・・・トイレの事。東司を使うときにも作法がありますので、坐禅会に行ったときは僧侶に聞いてみてください。
坐蒲(ざふ)・・・元は枕と思われます。修行僧は坐蒲を枕にして睡眠を行います。因みに臨済宗は蒲団を折って坐りやすい高さにして坐禅をするらしい。

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ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
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質問者からのお礼

けんしょう様、大鐵様、ありがとうございました。

坐禅にも様々にものがあるのですね。参考になりました。

坐禅だけに頼るのではなく、自分で解決した上で、坐禅を楽しもうと思います。

大慈様、丹下様、ご回答ありがとうございます。
宗派によって様々なものがある禅は、奥が深いですね。
大慈様のおっしゃってた「浄土真宗はないかも」というお言葉にビックリしました!
一応、私の家は浄土真宗だと以前、母から聞き、高校も浄土真宗の高校に通ってたので(笑)
仏教は奥が深いですね。勉強になりました。
何が良いのか、自分でも考えてみようと思います。

「仏教における瞑想」問答一覧

うつ病の中でも利他の心を持つためには

5年ほど心の病に苦しんでおります。最初は適応障害という診断でしたが症状が悪化し、3年前にうつ病と診断されました。 それでも昨年から始めた漢方の治療やカウンセリング等の効果で体調は良化しており、検査の数値も改善してきています。 しかしながら「ものを考える余裕」が生まれたこともあってか、生き方に対する苦悩は深まるばかりです。 うつ病に向き合う手がかりとして、宗教・哲学・心理学など多くの本に触れているのですが、その多くで「他者に関心を持つこと」「他者と関わること」「他者のためにはたらくこと」が幸せへの道として説かれていました。仏教においても、「利他」は大切な考えだと思います。 しかし、今の私には「他者のためにはたらくこと」はおろか、「他者と関わること」も考えられません。他者とつながりを持つことを恐ろしいと感じてしまいますし、他者のことを考える余力自体も不足しているように思われます。毎日念仏をお唱えするときも、自分の身体のことや心のことばかりを考えてしまいます。 自分でも「利他の心」を持てたらとは思うのですが、負のループに入ってしまっているような気がしております。 勿論、日々の中で「他者を傷つけないように」「他者を不快にさせないように」と心がけているつもりではおりますが、それだけで良いのか、と自問自答してしまいます。 どのような心がけで日々を過ごせば良いのか、ご助言を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

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瞑想とは

ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。

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マインドフルネスについて

瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。 そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。 どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。 そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。 しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。 マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。 仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ