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瞑想について

回答数回答 4
有り難し有り難し 72

こんばんは。前回はたくさんのご回答有難うございました。また質問よろしくお願い致します。

瞑想の仕方についてお教え頂きたいです。
心は何に集中していたらよいのでしょうか?雑念がすぐに出てきて嫌なことが浮かんだり、しょうもない事が浮かんできそうです。
時間はどれくらいするものなのでしょうか?1回1時間くらいなのでしょうか?
宗派によってもやり方が異なるのでしょうか?

過去のご回答の中に答えがあったかもしれませんが、今一度よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

集中する必要はありません

「集中する」ということは「集中する」というワンアクションを握り続けることになるのです。坐禅・ZENメディテーションはそれはしません。マスコミはそういうものだと誤解して広めていますが嘘800です。
あまりお勧めしない坐禅スタイルをざっくり理由とともに記しておきますのでご参考まで。
少々辛口ですが、それが一番近道なのでご容赦ください。
①無心・無我になろうとする坐禅。…最初から自分の中で無心やら無我とやらを自分のイメージで描いている為、自分が主役になったままで自我意識が消えないのです。
狙っている所に当てはまらないと失敗感、不満足が生ずるので長続きしません。最初からいわゆる瞑想っぽいコトやねらいを持たないことです。
②只管打坐にこだわった坐禅。只管打坐とは「ただ坐ればいい」ということではなく「只管に打坐し心身脱落すべし」と続きます。悟りがちゃんとした目的です。
事実に意識を向け続けることで時間的には数分で思いが病まった状態を体感することができるでしょう。
③数を数える坐禅。ぶっちゃけ数を数えているだけです。だんだん羊と変わらなくなります。
数を数えるという自分の意識のアクションが常に働き続けるため事実ではなく、イメージの方が主流となりやすいです。気が付くと数を数えて終わっています。何のための息数えであるべきなのかを良く問いただしてからのぞむべきです。
④考える坐禅。考えるならロダンの彫刻スタイルが一番いいでしょう。考えるのは悪魔で考え事で坐禅ではありません。
⑤期待する坐禅。なにか功徳やおこぼれにあずかろうとしている果報は寝て待てスタイル。それが坐禅のメインであれば宗教はいりません。実際にものすごい功徳になりましょう。

結論は、時間の長さは関係ありません。
大切なのは、心の中でアクションになる事を何もしないことです。
何もしない、ということも念じたらそれはアクションです。
何かを念じたり、唱えたりすれば、それもマインド・アクションです。
水の水面に生まれた波紋を消そうと、手を入れれば再び波がたちます。
アクションを何もしないからこそ水面の波は静まるのです。

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有り難し
おきもち

いろいろな瞑想法があります。

私も本山の修行中、2年ほど毎朝1時間座禅を組んでいました。
しかしなかなか「無我の境地」みたいな世界は感じられませんでした。
瞑想というと座禅というのがまず思い浮かぶと思います。
しかし、心を落ち着かせて体と対話するという方法と
考えればいろんな形があります。
立って瞑想をする立禅、横になって瞑想をする臥禅。
マラソン選手とか走っているとだんだん気持ちよくなっていくというのを聞きます。
「マラソン・ハイ」とか呼ばれる物です。これも一種の瞑想法です。
走ることによって体の感覚がなくなり心と会話しているのです。
私は10年ほどヨガをやっています。
そのなかで「死体のポーズ」が好きです。
いろんなヨガのポーズで1時間、体をほぐし、
その後に行う「死体のポーズ」は体の感覚を忘れ
意識の中に入りやすくなります。
その人に合った瞑想法が有ると思います。
みちこさんに合った瞑想法を探して下さい。

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有り難し
おきもち

50代、妻と娘2人。 若い頃はタイやインドなどアジアを中心に10年程旅行...
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「空観」

みちこ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生、既に瞑想、坐禅修行を集中的に行う機会からは離れておりまして、あまり申せるほどのこともございませんが、この瞑想、仏教においては主に「禅定」とも申しますが、お釈迦様が菩提樹下にて、この「禅定」により最終的に悟りを開かれたことから、悟りを目指すために欠かせない大切な実践として、仏道修行の中でも重視されるべきこととなります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/禅定

その方法については、上座部(根本・初期)仏教から大乗仏教各派のものまで、下記のウィキペディア説明内にも少しございますように幅広くございます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/瞑想

拙生は、丹下様ほど長く禅専門僧堂での修行をしておりませんので、あまり生意気なことも申せませんが、拙生の場合、心を落ち着かせたり、集中したりするための「止」の禅定よりも、現在は特に「観」の禅定、それも「空」についての「観」を重視して、場所や状態、姿勢を問わずに、日中の僅かな間において、一日に数回、この「空」について観ずる実践を行っております。

なぜ「空」を観ずるのかと申しますと、悪い行い(悪業・カルマ)に繋がる「煩悩」、その根本となる「無明」を撃ち破るのに効果的となる智慧が「空の理解」であるからでございます。できるだけ「空の理解」を心に馴染ませるようにと心掛けております。もちろん、まだまだの未熟ではございますが・・

いずれにしましても、仏教においては、「戒・定・慧」の三学をバランス良く修める必要がございます。そのことにつきましては、下記の拙回答も参考にして頂けましたらと存じております。

問い「お坊さんになるには修行がいりますか」
http://hasunoha.jp/questions/70

また、既に御礼にもございますように、確かなる先生、師の指導の下で進められるのがやはり良いかとは存じます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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まちまちです

はい。宗派により様々です。

瞑想はヨガの一分野ですが、実践や理論は実に多岐に亘っていると思います。ちなみにヨガを最初に日本に伝えたのは弘法大師空海上人だと言われます。当時(平安時代)は瑜伽(ユガ)と呼びました。
真言宗の場合、阿字観(あじかん)というものがあり、数息観(すそくかん)、阿息観(あそくかん)、月輪観(がちりんかん)などの段階を経て、阿字観の修行に入ります。
心を無にするのではなく、心をどんどん広げるという感覚でしょうか。
詳細はここでは省きます。

しょうもないことが浮かんで結構です。浮かばない人は、きっと既に瞑想をする必要が無い人ですから。あせらず徐々にまいりましょう。

時間について言えば恐らく「みちこさんの好きなだけ」で間違いありません。ちなみに私の場合は10分とか15分です。そしてダライラマ法王は毎日数時間だそうです。

ともあれ、自己流ではなく、どこか座禅や観法をしているお寺に出向いて、指導を仰ぐことをおすすめいたします。

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有り難し
おきもち

住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、...
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質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。なんだか自己流は難しそうなので、近くの参禅できるお寺さんを探してみます。

さらにご回答ありがとうございます。感謝いたします。瞑想中とは、心と体がどういう状態のことをいうのでしょうか・・・。難しいな・・。

「仏教における瞑想」問答一覧

うつ病の中でも利他の心を持つためには

5年ほど心の病に苦しんでおります。最初は適応障害という診断でしたが症状が悪化し、3年前にうつ病と診断されました。 それでも昨年から始めた漢方の治療やカウンセリング等の効果で体調は良化しており、検査の数値も改善してきています。 しかしながら「ものを考える余裕」が生まれたこともあってか、生き方に対する苦悩は深まるばかりです。 うつ病に向き合う手がかりとして、宗教・哲学・心理学など多くの本に触れているのですが、その多くで「他者に関心を持つこと」「他者と関わること」「他者のためにはたらくこと」が幸せへの道として説かれていました。仏教においても、「利他」は大切な考えだと思います。 しかし、今の私には「他者のためにはたらくこと」はおろか、「他者と関わること」も考えられません。他者とつながりを持つことを恐ろしいと感じてしまいますし、他者のことを考える余力自体も不足しているように思われます。毎日念仏をお唱えするときも、自分の身体のことや心のことばかりを考えてしまいます。 自分でも「利他の心」を持てたらとは思うのですが、負のループに入ってしまっているような気がしております。 勿論、日々の中で「他者を傷つけないように」「他者を不快にさせないように」と心がけているつもりではおりますが、それだけで良いのか、と自問自答してしまいます。 どのような心がけで日々を過ごせば良いのか、ご助言を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

瞑想とは

ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 16
回答数回答 2

マインドフルネスについて

瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。 そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。 どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。 そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。 しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。 マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。 仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。

有り難し有り難し 18
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ