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写経について(文字を間違えてしまいました)、そして煩悩

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こんにちは。初めまして。よろしくお願いします。

私は人から「いつも笑顔が絶えない、穏やかでおおらかな人」と思われることが多いのですが、本当は凄く寂しがり屋で、孤独感でいっぱいになるときがあります。けれど、本当の自分を人に見せることができないので、寂しいとき、孤独感でいっぱいになったときはよく写経に行きます。一文字、一文字書きながら、仏様とお話しさせていだいている気持ちになります。

今年もバレンタインデーを一人で過ごすことになってしまい、寂しくて仕方なかく、チョコレート代わりに仏様に恋文を渡す気持ちでお写経に行きました。結果、とても有意義な時間を過ごすことができたのですが、最後の最後で日付(年)を書き間違えてしまいました。係りの人に「日付を間違えたのですがどうすればよいですか」と聞いたら、「斜めの線を引いて正しい文字を横に書いてください」と言われたので、そのとおりにして納経させていただきました。

帰宅後、気になったので調べてみたら、写経の間違いの訂正は斜線ではないようで、誤った方法で提出したことが気になってしまって仕方ありません。

多分、今日はいつも以上に「良縁祈願」の気持ちが強かったからだと思います。確認せずに書いてしまったことに対する後悔、願い事が叶わないかもしれないという不安、こんなことばかりを気にしてしまう自分への怒りが大きく、お写経で得た幸福感がなくなってしまうのが悲しいです。

写経の間違えを斜線で訂正しても大丈夫なのでしょうか。小さなことを気にする自分も嫌でたまりません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

日付の訂正方法で写経の功徳が無効になってしまうような事はない

 私も筆を使って物を書く機会が多いですが、最後の最後で間違えちゃうこと、あります。
 「これで完成だ!」って安心しちゃうんですよね(笑)
 法事などで使うものは、たくさんの人が見るものですし、斜線というわけにはいかないので、最初からやり直しですけど。

 さて、ご質問の件ですが、日付の訂正方法で写経の功徳が無効になってしまうような事はありません。仏さまはそんなに心のせまいお方ではありません。それに、写経をしている時間は有意義で幸福なものだったでしょう?もうそれがそのまま功徳なのだと思います。
 写経の訂正方法には様々なものがあるようですが、係の方が「斜線でよい」と言って下さったのなら、そのお寺ではそれが正解です。心配しなくて大丈夫です。

 あと人は誰でもなりたい自分を演じているものです。本当は寂しがりやだけど、「いつも笑顔が絶えない、穏やかでおおらかな人」を演じていることは決して悪いことではありません。続けていればきっと本当に「いつも笑顔が絶えない、穏やかでおおらかな人」になれますよ。ただしあまり無理しないようにね。たまには本当の寂しがり屋のあなたをお友達に見せるのも良いかもしれません。
 小さいことを気にしてしまうのは私もよくあります。そういう時は少し前流行った「ゆってぃ」さんの「小さいことは気にしない それ ワカチコ ワカチコ」というネタを思いだし、口に出して言うようにしています。

笑門来福さんに良いご縁がありますように。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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写経の本来の功徳とは・・

笑門来福様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

写経は、本来、大切な仏法を広めるという役割を担うということにおける功徳という意味合いがあったのではないだろうかと存じます。

現代では、印刷技術も発達し、紙資源も豊富であり、教典を誰もが手にすることができる時代、ましてやインターネットでも、ほとんどのお経が閲覧できるようになってきており、本来の意味における写経の功徳は、少し意義も薄まってきてしまっているのではないだろうかと存じます。

それに、写経もただ写経するだけならば、写メを撮っているようなことと変わらず、それだけではやはり功徳は望めないのではないかと存じます。

写経し、その教典の書いてある内容をしっかりと実践することによる功徳、これが最も大切なことになるのではないだろうかと存じます。

もし写経が般若心経であるならば、尚更となります。

ましてや、写経して、執着や煩悩を生じさせてしまっていては本末転倒でございます。

写経し、般若心経の説く「空」の教えを理解し、そして、執着や煩悩を対治することによっての行いの功徳こそが、まさに大切となります。

その功徳によって、善き因縁(原因と条件)が調ってこそ、願い事や幸せ事についても、善き結果をもたらしめさせることができていくということになるというものであります。

もちろん、写経を機縁として、善き心の変容、優しさや安心感、幸福感を得られることまでは否定致しませんし、そのような効能も当然にあるかとは存じます。

でも、本当にして頂きたいのは、仏教の実践ということになります。

少し上記のことにつきましてもお考えを賜れましたら、有り難くに存じます。

来年は本命チョコを渡せるお相手がおりますと良いですね。

良縁、お幸せを祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
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質問者からのお礼

このたびは私の質問にご回答いただき、ありがとうございました。写経の間違いの件、安心しました。そうですね、仏様は心の広いお方でいらっしゃる。目先の心配ばかりしてしまい、恥ずかしいです。
それから、見ず知らずの私の良縁を祈願していただきましたこと、心から御礼申し上げます。とても嬉しかったです。私も、誰かの幸せを願える人間になりたいと思います。日々、謙虚な心と感謝の気持ちを忘れずにいたします。大切なことを教えていただき、ありがとうございました。

「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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