hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

死という概念について

回答数回答 4
有り難し有り難し 66

こんにちわ。
以前個人的な質問をさせていただき、2度目の質問になります。
以前は大変貴重な回答を頂き非常に感謝しています。

さて、表題の質問になりますが、
小学生の頃「死」について考えたことがあり、その時は・・・
死んだら考えることすらできなくなってしまう。
死んだらこうやって「死」について考えることもできない。
自分という存在はどこへ行くのか。
と、怖くなって夜寝られなくなってしまった思い出があります。

葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を調べたり、
100歳を越えてもなお現役の医師を続けていらっしゃる日野原重明さんのコラムなどを読んでから、私は「死」という概念は、
抗うものではなく受け入れるもの。
そしていずれ来る死をどのように受け入れるか。
が大事なのではと思うようになりました。

私は仏教には詳しくありませんが、仏教にも輪廻転生や極楽浄土など死後の魂の行方や考えがあると思います。

よろしければ、仏教的観点でも宗派的観点でもご回答くださる方の個人的な観点でもよいので、「死」についての考えをお聞かせ願えないでしょうか。
宜しくお願いいたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

極楽浄土

死については、私も小学生の頃かなり怯えました。
死については世界中にいろいろな向き合い方があります。
人類の永遠の課題かもしれません。
あなたに合う向き合い方を見つけるのがいいでしょう。

私の場合、極楽浄土を信じています。
お釈迦様の話によりますと、阿弥陀仏が作った国であります。
キリスト教でいう天国みたいな所です。
違うのは、極楽浄土は覚りに至る為の修行をする所という事、それと、阿弥陀仏にお願いすれば誰でも行けるという事でしょう。
極楽浄土ではたくさんの仏様やご先祖様と会えます。
私もいつかは妻や親、兄弟、子供と離れ離れになる時が来ます。
しかし、いつかは極楽浄土でまた会えると思っています。
また、阿弥陀仏にお願いするというのは、南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)と声に出してとなえる事です。
簡単ですね。
なぜ簡単なのか。
それは阿弥陀仏は極楽浄土を願う全ての人を連れて行きたいと考えたからなのです。
難しい条件が必要だったら極楽浄土に行きたくても行けない人が出てくるでしょう。
南無阿弥陀仏ととなえる声を聞いた阿弥陀仏は、命が尽きた瞬間に迎えに来てくれると言われています。
たとえ心の底から阿弥陀仏を信じていなくても、たとえ無宗教あるいは他の宗教に所属していても、ただ、南無阿弥陀仏ととなえるだけで良いのです。
阿弥陀仏は大きな慈悲の心で、誰であっても分け隔てなく助けてくれるのです。

以上、ご参考までに。

{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
このお坊さんを応援する

まずは基礎知識から積み重ねましょう

実は輪廻転生は仏教以前からインド圏に存在しており、ヴァルナ(カースト制)の論拠となっていました。「身分の高い人は前世の行いが良く、身分の低い人は前世の行いが悪かったせいだから、偉い人には逆らっても無駄だよ」というヒドイ論法です。

これについてお釈迦さまは「前世の行いではなく、今の人生をいかに生きるかが大切だ」と主張します。ただ、仏教はhasunohaの回答のようなケーススタディから始まっている点がポイントです。お釈迦さまは根本聖典を残さず、自分で修行して自分で悟りなさいというスタンスでした。

お釈迦さまは出家した弟子には「来世なんて無駄なことを考えてないで修行しろ」と喝を入れています(毒矢のたとえ)。しかし一般向けには「来世で楽をするには『今を誠実に生きると良いですよ』」という論法を使っていますので、来世に言及していないわけではありません。この辺が仏教の難しいところです。

そのケーススタディから法則性を導き出そうと研究を重ね、学会発表のようなものを繰り返し、分裂と淘汰を繰り返して今に至ります。

インド圏では歴史的にヴァルナ支持派の輪廻転生説に大敗し、仏教も輪廻説を導入して生き残らざるを得ませんでした。これは大乗仏教の発生以前の出来事ですので、結果的に日本仏教もその余波を受けています。民間信仰レベルでは今も上座部仏教の方が現世利益・来世利益を色濃く残しています。

ただし上座部・大乗を問わず、本来は『個人という単位にとらわれない』うえでの輪廻転生として説かれていることに注意しなければなりません。川口師のおっしゃる「不生不滅」が正にこれです。

極楽浄土は浄土宗さん、浄土真宗さん、時宗さん特有の世界観です。他の宗派にも存在しないわけではありませんが、ほとんど言及されません。末法思想の時代に「末法だから自力で悟れないなら、末法じゃないところに生まれ変われば良いじゃない!」という発想から理想郷である極楽浄土がクローズアップされました。

日本では浄土真宗さんが最大宗派ですのであまりにも有名ですが、他宗派でも通用する思想という訳ではないことにご注意ください。アメリカが超大国だからといって、世界のスタンダードという訳ではないのと同じです。

間近になってから死を思うのではなく、若いうちから体質改善的に向き合っておくのが本来は望ましいです。またご質問下さい。

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
このお坊さんを応援する

「不生不滅」

Sakurasou様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「死」への恐怖・不安もそうですが、私たちの恐怖・不安も含めて、様々な煩悩というものは、「真理を知っていない」という「無明」(根本的な無知)から生じてしまうものとなります。そのため、「死」ということとは、いったい何であるかについてしっかりと知り、理解することによって、その恐怖・不安も少しずつなりにも無くなっていくことになるのではないかと存じております。

仏教では、般若心経に出て参りますように、「不生不滅」、つまり、「生じもしないし、滅しもしない」ということも扱いますが、このことを理解するには、「空」や「中道」ということについて、まず理解しなければなりません。

もし興味がございましたら、是非、これからも仏教に関心を持って修習していって頂けましたらと存じます。

さて、少し前のご質問にもお答えさせて頂きました内容と重なりますが、我々の言う普通の「死」とは何かと申しますと、「肉体の死」、つまり、今の持っている肉体が、今あるように機能しなくなるということであります。

全てのモノ・コトは因縁(原因と条件)で成り立っているため、今の肉体も色々な原因や条件によって成り立っている次第ですが、やがて、因縁次第において、機能しなくなる、崩壊してしまうものになります。

ただ、問題はそれで何もかもが無くなって、「虚無」・「絶無」となってしまうのか、と申しますと、仏教ではそのようには考えません。

肉体に左右されない微細なる意識としての心の連続体、心相続を扱うこととなります。

その微細なる意識としての心の連続体、心相続において、過去世、現世ももちろん含めて、全てのこれまでの数々の行いの業・カルマというものが、引き継がれていくことになります。

そのため、その業・カルマによる結果として、輪廻に迷い苦しむことになってしまっているため、できるだけ、仏道を歩み、悟り・涅槃へと向かう善き業・カルマをしっかりと調えることで、輪廻を解脱して、悟り・涅槃へと至ることを目指すことが、仏教においては大切となります。

死、死後の赴きへと向けて、できる限り善き業・カルマを積んで参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

私に曰く「死」とは

葉隠にもあるように死を強く意識することは逆に大切に生き抜くということです。
武士道の世界ではいつ死ぬか分からない危険と共に明日死ぬと思えば今日という日が充実した日になると思います。
つまり、生きているというより生かされているということになります。
死後の世界は誰も分からない世界であります。
おそらく常日頃の行いが良ければあの世も明るい世界であると思います。ただあくまでも想像にすぎないのです。

身近な人が亡くなると素直に悲しいですし、自分も死があるという恐怖が再認識します。
その遺族の悲しみや苦しをお経で仏様に祈るお坊さんは代弁者です。

怖い表現になりますが、死は常に私たちのそばにあるというマイナスですが、やはり生かされている間は充実した人生を歩ん頂きたいです。

過去に囚われず、未来に怯えず、今を生きろ! 堀江貴文氏の言葉です。

{{count}}
有り難し
おきもち

高野山真言宗 副住職です 私はこの言葉で救われました 過去にとら...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

ご回答いただきまして、誠にありがとうございます。
川口 様
不生不滅という言葉は初めて耳にしました。
そして、心相続という言葉も初めて触れ合う言葉ですが、丁寧な解説を頂きましたことで仏教に対しより理解を深めるすばらしい言葉だと思いました。ありがとうございます。

聖章 様
極楽浄土という言葉は知っていても、極楽浄土が形成されるまでの経緯や理由は初めて知りました。
私自身がどのように死に対して向き合うのか、ゆっくりと時間をかけて模索していきたいと思います。
ありがとうございます。

大慈 様
仏教がどのような経緯を経て今の形が形成されたのか知ることができました。
大慈様の回答を拝見し、仏教は不特定多数の人が作り上げた一つの哲学という印象を持ちました。
各宗派がどのような思想で形成されたのか、調べてみたいと思います。
ありがとうございます。

片村 様
私が小学生の時は死を見据えるだけで恐怖しておりました。
しかし今は、死を見据えているからこそ今を精一杯生きられる、そう考えられるようになりました。
生かされているということを常に意識してまいりたいと思います。
ありがとうございます。

「死ぬのが怖い・死恐怖症にお坊さん知恵袋」問答一覧

親離れと親の死に対する恐怖心

通勤時間短縮や自立した生活をするために、数年前から一人暮らしをしている30代女性です。 両親とは仲が良いこと、実家も県内にあることから、月一回は帰省しているのですが、ここ最近、一人暮らしの家に帰る度に、寂しさと悲しさが込み上げてきます。 たまに、両親が一人暮らしの家まで送ってくれることがあるのですが、良い歳した大人が別れた後に泣いてしまうのです。 ひどい時は、車中で泣いてしまうことがあります(泣くと親を心配させるので、こっそり泣いています)。 また、両親に持病があることや、ここ数年で他の親族の死を何度か経験したことから、いつか来る両親の死のことを考えてしまうことが増えてしまいました。 命あるもの、必ず死が来ることは分かっているつもりですが、両親が亡くなったら、私はメンタルが保てないのではないかと、すでに恐怖を感じています。 実家から帰省後、悲しくなって泣いてしまうのは、親離れができていないせいだと思っているのですが、親離れをするためにはどうしたら良いでしょうか?やはり、帰省回数を減らす事が得策になるのでしょうか? また、いつかくる両親の死に対する恐怖にはどうしたら打ち勝つことができるのでしょうか? どうか、ご助言をいただけないでしょうか。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

大切な人を失うことへの恐れ

昨年10月に父を膵臓癌で亡くしました。 亡くなってすぐの頃は、早すぎる別れに落ち込み、辛い日々が続きました。 しかし、母や兄、夫の支えもあり、悲しみに暮れる日々は時間の経過と共に少しずつ減ってきました。 もちろん、今も生きていてくれたらなあと思うことは多々ありますし ふと思い出しては泣くこともありますが…。 8月の初盆を終えて、父の死の悲しみと共に生きていく覚悟が出来ました。 しかし、初盆を終えたあたりから いずれは、支えてくれた母、健在の祖父母も父と同じように亡くなってしまうのだなと考えるようになりました。 母は現在、実家で1人で暮らしています。 母も10年前に癌を患い、その後2回再発していますが、幸いなことに寛解しています。 私は昔から母親が大好きでした。 父が亡くなった時も母がいたから前向きに人生生きていこうと思えたのです。 しかし、人はいずれ亡くなります。 母親もいつ癌が再発してしまうか分かりません。 一度考え出すと、亡くなってしまう恐怖が心を支配し落ち着かなくなります。 起こってもいないことが不安でしょうがないのです。 夫には起こってないことを考えてもしょうがないと言われその通りだと思います。 しかし、なかなか心の切り替えができないのです。 父を失い、そして母を失ってしまったらと考えると、怖くてたまりません。 もちろん夫も大切ですが 両親は夫とは少し立場が違う気がします。 ここ最近は暇があれば もし母親の癌が再発したらどうしよう、と考えています。 この無駄な妄想をやめるためには どうしたらいいのでしょうか?

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

死にたいと思いながら死ぬのが怖い

はじめまして。 どうしても苦しく、初めて投稿いたします。 中学生頃からずっと希死念慮があり、早く死にたいと思っていました。 大人なり愛する人に出会って、生きていたいと思うことが増えたのですが、それでも些細なことでやはり私は生きていてはいけない人間なのでは、と考えてしまいます。 死にたいと考えることで、夫に辛い思いをさせてしまう。夫に辛い思いをさせる私なんて要らないのでは、と矛盾した思いの堂々巡りになってしまいます。 そして、今年がん検診に引っかかり前がん段階で手術を受けました。現在は病理検査待ちですが、死にたいと思っていながら、いざ実際に死の可能性が目の前に来た時、最初に思ったことは「怖い」でした。 なんて弱くずるい人間なのでしょうか。 夫は癌になっていても、一緒に頑張ろうと言ってくれましたが、不安な気持ちはなくならず、意味もなく泣いたり八つ当たりをしてしまったり、毎日生きることが苦しいのです。 このようにままならない気持ちをどうしたらいいのでしょうか。 そしてこのままたとえ死んだとして、こんな私ではお釈迦様でもお許しくださらないまま、本当に無価値になってしまうのではないかと恐ろしいです。 まとまりのない文章になってしまい申し訳ございません。 このような場をいただけたこと、感謝いたします。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

過去と幸せな今について

はじめまして 私は、事情があり20年以上毎日が死にたい気持ちとの戦いでした。 あと一歩で自殺していたであろうタイミングが何度もありました。 しかし、自身の病気や手術、環境の変化や出会いなど様々な大きな変化がここ数年で起こり、ようやく死にたいと考えることがなくなりました。 それどころか、毎日が楽しくて幸せだと感じます。 食事は美味しく、友人と話せることも仕事も趣味もこんなに楽しい事だったのかと、大げさではなく生まれ変わったような気持ちです。 2か月後には夢だった業界への転職も決定しています。 ところが同時に、自分が死ぬんじゃないかという恐怖があります。 幸せだからこそ、なんとなくもっと悪い事が待っている気がして怖いです。 やっと自殺願望から抜け出せたのだから、もっと楽しみたいです。 明日死ぬかもしれないと思って生きろと言いますが、もしそうなったらと毎日焦りのようなものもあります。 時々襲ってくる、この不安や恐怖について自分はどう向き合えばよいでしょうか? どう幸せを受け入れれば良いでしょうか? 何かアドバイスやこれからの人生において心の支えになるようなお言葉を頂けたらと思います。 よろしくお願いいたします

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

死ぬのが怖い

こんにちは、拙い文章だとは思いますが読んでいただけたら幸いです。 私はよく死んだらどうなってしまうのかを考えてしまいます。自分がなくなるのが怖い、死ぬのが怖いと思い涙が止まらなくなります。体も重いです。 最初に一番悩んだのは高校2年生の時、死ぬことや自分が存在するということを考えすぎてご飯も食べられなくなりあまり眠れませんでした。母親の前で大号泣しなんとか克服したのを覚えています。そこからは、たまに死んだらどうなるのかが頭をよぎることはありましたが、なんとか考えないようにしてきました。 そして今、24歳になる私ですが、ここにきてまたこの思考を止められなくなりました。というよりも止めてしまうことが怖いのかもしれません。前ほどではありませんが寝つきが悪くなり睡眠時間も短くなり仕事に集中できない日が続いています。涙も止まりません。 ネットで色々見て自分以外にも考えている人がいると安堵する気持ちとそこからまた他人がいる、思考している、とどんどん自分が存在していること、なくなったらどうなるのかと結びつけて怖くなってしまいます。 生まれ変わりや幽霊はいるなど信じていないわけではないですが、もし生まれ変わりがあったとしてもその思考が自分ではない(現に私は前世の記憶はありません)と考えてしまい、励ましてもらってもうまく消化できないでいます。 それでも自分の中だけでは苦しくなるだけなので相談してみました。皆様のお考え等を教えていただいきたいです。

有り難し有り難し 12
回答数回答 2

自分の死を受け入れて生きる事は可能か

お世話になっております。 以前より、強い死の恐怖について質問しており、その度に暖かいご回答を頂き大変感謝しております。 今回は、自分の死を受け入れて生きることが現実的に可能なのか、という質問です。 今まで頂いたご回答や仏道の自習において、「死はみんな怖い、けれどそのまま生きている」「死の恐怖を無理に消そうとしない」「禅は【今を生きる】修行で、未来のことを考えない(未来のことを考えるのは、今を生きていない)」といったお考えを学びました。 このお考えの論理そのものはとてもよく分かります。そもそも怖がってたって人間は死ぬし、時間の無駄だとも思います。それでも湧く本能的な恐怖なのですから、放っておくしか無いのが実状でしょう。 また、心理学の森田療法でも同じように書かれており、宗教の壁を超えた現実的なお考えだと思っています。 ですが、その考え方は、本当に現実的に可能なのでしょうか?このお考えを知って尚、そんなふうに生きれない私がおかしいのでしょうか。 私は恐怖感に襲われ続け、正直もう疲れてしまいました。皆さんに暖かいご回答を頂いているのにも関わらず、恐怖を受け入れられない自分が情けないです。そしてできる限りの実践や自習もしてきたつもりです。自分のできる限り死に向き合って、でも実生活が疎か疎かになるから恐怖を無理やり忘れて、また思い出してはパニックになりの繰り返し。 日常的な禅などで身体で理解するまでにも至らず、3年ほど強く悩まされて「本当は恐怖を受け入れる日なんて来ないんじゃないのか、来ないまま慄き泣き喚き絶望に塗れて死ぬしかないんじゃないのか」と絶望でパニックの日もたくさんあります。 修行が足りないだけなら今後も修行するしかないのでしょうが、会得までの長い間がもう、頑張れないです。弱音吐いてすみません。 死ぬのが怖い、でもその気持ちを抱えたまま生きているのがどうしても苦しい。皆同じだからと言われても、私が納得できないんじゃ、私は救われないままです。 わがままだと思います。自己中だと思います。ただ、辛い現実から救われたいのは、それこそ皆同じなのではないかとも、思っています。 具体的な解決策はありませんでしょうか。 どうか知恵をお貸しください。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

死ぬのが怖いです。

初めてこのサイトで質問をする中学生です。 私は幼い頃、意味もなく虫を殺してしまったことがあります。また、人からお借りしたものを無くしてしまったこともあります。そのことを深く後悔し、捕まえた虫は逃し、精一杯人に親切にするように心がけていますが、今も毎日歩くたびに、手を洗うたびに、息をするたびに、たくさんの微生物を殺し、食事のたびにたくさんの動物の命をいただいて生きています。人に悲しい思いをさせてしまうこともあります。 最近、こんな自分が世界一の悪人であるように思え、命を脅かされることもなく幸せに暮らしていることが心苦しくて仕方なくなりました。すると、死後に罰を受けないはずが無いと思い、何をしていても死の恐怖が頭から離れなくなってしまいました。今この瞬間も生き物を殺してしまっているのだと思うと、心臓がバクバクして、辛くてたまらなくなります。それでも、罰を受けたく無い、死にたくないと思ってしまいます。幸せを実感するたびに、申し訳なさと、死の恐怖で頭がいっぱいになります。自分勝手なことだとわかっていますが、死後もずっと今のように家族や友達と笑い合って、今のように平穏で幸せな暮らしをしたいと思ってしまいます。死によって今の幸せに終わりが来るのが怖いです。 私はやはり地獄へ行くのでしょうか。死んだら、もう二度と大切な人たちと暮らせないのでしょうか。めちゃくちゃな文章でごめんなさい。回答をいただけると幸いです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

死ぬために死恐怖症を治したい

お世話になっております。 久しぶりに相談します。 突然ですが死にたいです。 でも怖くて踏み出せません。 人間の生理的なものなので「死にたくない」と思うのは仕方のないこととわかっていますが 『今この曲がり角で刃物を持っている人に遭遇したら刺されるな』とか 『地震でマンションの上の階が落ちてきたらつぶされて死ぬな』とか 『通勤ですれ違ってる人に何かをしてしまって恨まれて殺されてしまうな』とか 常にありもしない妄想で不安になって死ぬのが怖いです。 これを死恐怖症と呼ぶらしいのですが、この症状なのかなと最近思っております。 なぜ死にたいかというと人生に疲れたというか。 私の様子を聞くと、きっと多くの人が「え、そんなことで!」と驚かれるのでしょうが もう、しんどいんで若いうちに人生終わらせたいです。 プライドが高いせいか、思うように人生が進まず『なぜ?』と 劣等感にさいなまれることが多くしんどいです。 知り合いに『今の状態がメリットがあるから無意識にそのように生きている。 そのメリットを享受しているのにデメリットを嘆くのはおかしい』と指摘され、 なんだかもう難しいことは考えたくないし、 死んで困ることはないのでもう生きてる意味もないかなと漠然に考えてます。 そんな時に『死にたくない』を乗り越えれればいつでも死ねるなとふと思いまして。 死ぬための方法はネットを漁ればいくらでも出てきますが、 死を克服するための方法はほとんど出てきません。 死を受け入れる、もしくはその恐怖を克服する方法は何かありませんか? 教えていただけますと幸いです。

有り難し有り難し 13
回答数回答 3

死にまつわる物事に異常な恐怖を感じます。

初めてご相談させていただきます。 私は死にまつわる物事に異常な恐怖を感じます。 例えばお葬式、葬儀場、霊柩車、火葬場、お墓などです。 始まりは小学生の頃、親戚が亡くなり初めて遺体を見ました。今でも忘れられないのですが、母親から幽霊の話をその時に聞かされて恐怖で逃げ出したい気持ちになりました。その後、成人してから父型の祖父が亡くなった時に初めて火葬場に行きましたが、とてつもなく怖くて出棺後を見届ける事ができませんでした。その後祖母も亡くなった時も怖くて立ち会わず恐怖に苦しみました。 私はどちらかと言うと母方の祖父母の方で育てられました。その2人もこの10年で亡くなりました。その際は最期まで見届けて、骨上げにも立ち会う事ができました。 しかし、その後異常な行動が始まりました。死にまつわる物事に異常なまでの反応をします。 例えば葬儀場の近くはなるべく通らない。 喪服を着てる人を見かけたら、その人が歩いていた所はジャンプしてまたぐ。 電車で見かけたら車両を変える。 霊柩車が通った道は遠回りしてでも避ける。 葬儀に参列した際はその時着用していた下着やシャツなど全て処分する。 カーナビなどで、〇〇苑【葬儀場や火葬場】と言う言葉を見つけると異常なまでに恐怖を感じる。その日、何時間も気にな楽しめない。 霊柩車を1日に何台も見つけてしまう。 小さい頃、霊や悪霊が悪さすると母親から刷り込まれ今だに目に見えない不思議な物を信じて恐怖にかられています。 霊が私に何かするんじゃ無いか?不幸を連れてくるのでは無いか、呪われるのでは無いかと、毎日恐怖にビクビクしてとても生きづらいです。お墓の近くを通ったりした際はすぐに洗車に行きます。 コロナが始まってから余計にこの強迫概念にかられとても苦しいです。 僧侶の皆様にこの様な質問は失礼に当たるのでは無いかと何年も悩みましたが、勇気を出してお伺いします。 どうかこの強迫概念が少しでも楽になる助言をいただけましたら幸いです。 よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 6
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ