今、絶対に許せない人がいます。
もう人生どうでもいいので直接、そいつか家族に復讐してやろうかとさえ考えています。
仏教では怒り、絶対に許せないことや人に対して、どう考えますでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
コンさん
どうもお怒りのご様子ですね。こんばんは。
さていきなり話は大きくなりますが、
いままで平穏に仏教徒が生きてこれたのは、仏教が諦めの宗教だからです。
お釈迦様はその昔、ある国の王子様でした。
しかし、のちに自分の国が滅ぼされても復讐をすることはありませんでした。
仏教にはこういう言葉があります。
『恨みは恨みによって果たされず、ただ忍を行ずることによってのみ恨みは果たされる』
仮にコンさんが恨み続けたとしましょう。
1年、3年、5年、10年……
おそらく数年もすると相手はコンさんに恨まれていることさえ忘れてしまいます。
でも、まだもしコンさんが恨みを抱いてるとしたら…
バカらしくないですか?
まるで相手から与えられた呪縛にコンさんだけが勝手にひとり取り残されているようです。
では、仮に復讐したとしましょう。
すると今度は相手がコンさんを恨みます。そしてまた復讐されるかもしれません。
また今度はコンさんが恨みます。
ずっとその無限ループは続いてしまうかもしれません。
そこで、さっきの言葉です。
『恨みは恨みによって果たされず、ただ忍を行ずることによってのみ恨みは果たされる』
忍とは忍ぶこと、耐えることです。
ここで、忍ぶことが出来ればさっきの無限ループは始まりません。
また、恨み続けることもありません。
さらにいえば、そのあと無関心になってしまえばコンさんの勝ちです。
したがって、恨みには、まず忍ぶこと。
そして、無関心になってしまえば、コンさん、あなたの世界にはもうすでにその相手はいません。
コンさん、取り敢えず、仏教では十重禁戒で恨むことは禁じております。後で、調べてみて下さい。
正論はここまでにして、その気持ちは人間生きていれば誰しもが持ち合わせることです。『怨み屋本舗』や『地獄少女』、ドラマ『アリスの棘』などでは酷いことをされた人が読み手に爽快感を持たせる復讐劇が展開されます。『半沢直樹』も結局父親の復讐劇でしたね。それらを観て自分もやってやろうと思うのでしょうか?どうも日本は仇討を美化してしまう傾向にあります。
ワシも色々と復讐のしたい人がいます。いじめをした人を本当に殺してやりたいです。何度思ったか解りません。でもある日、いじめた人の大人になってからの自殺率が多いと聞かされた時にその心は大分収まりました。本当の弱さとはいじめられる人より、いじめる人の方が多いのかな。自分を振り返ると、僧侶らしからぬ発言ですが、子供のころいじめられたお蔭か、チョットやそっとの挫折には耐えられた気がします。皆が辛い辛いと思うことも自分には何とか乗り越えられたと思います。いじめた人には感謝はしませんが、同情ぐらいはしてやります。
ワシから一言「いじめにあって苦しんでいる人、何があっても自殺はするんじゃない。あなたたちほど栄光をつかめる人はいません。」
《 結論 》復讐は止めなさい。自分がされたことは後戻りできませんが、それは滝に打たれたこととして、あなたが今後、どんな苦難にも耐えていける自信が身についたと考えましょう。それなりに自分が前向きに生きていればそれがその人に対する復讐です。まあ、気楽に気長にやってみてくださいよ。
コンさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
「絶対に許せん」というタイトルを見て、その強い思いに驚いてしまいました。いったいどれだけ辛い思いをされたのでしょうか。私も、怒りや恨みの一つや二つ…三つや四つ…いやいや、心をほじくり返せばいくらでも出てくるような気がします。
でも「(ご自身の)人生どうでもいいので直接、そいつか家族に復讐してやろうかと」思うほどの恨みです。よほど辛い思いをされたのでしょうね。
私は以前、僧侶たるもの、仏教者たるもの、怒りの感情などいだくべきではない、と思っていました。しかしある時、チベット仏教のダライ・ラマ法王のご法話を聴く機会を頂きました。
驚くことに法王は「仏教者でも持ってよい怒りがある」と仰いました。その怒りとは、「相手が害を受けるような行動をしている時、その行動に対する怒りは持って良い」というものでした。
わかりにくいのでたとえ話をしますと、小さい子どもが熱いストーブに近づき、今まさに手を触れんとしている。その時「危ないっ!」と声を荒げ、その子どもを叩いたり突き飛ばしたりする。
その怒りは、その子が火傷をしないための慈悲から湧き出た怒りなので、それは持って良い、というのです。誤った「行い」に対しての怒りは持つべきだというのです。
簡単に言えば「罪を憎んで人を憎まず」という諺と同じ意味を持つ言葉だと思います。
煩悩が深く、怒り、ねたみ、恨む心を持っている私です。でも、法王の言葉のような心を持ちたいとも思っています。
コンさん。もしよろしければ共にその道を歩んで参りませんか?
コンさん、こんにちは。
あなたにとって、許せない人がいるのですね。“その人か家族に復讐してやろう”と考えてみたり、モヤモヤと、モンモンと、時を過ごしているのですね。
コンさんは、“その人”にそうとう執着しているのでしょうか。
正直、楽しいでしょう。どうやって復讐してやろうかと色々と考える。考えあぐねる。
モヤモヤと、モンモンと、悩むことはとっても楽しいです。
でも、その楽しさは時間の無駄です。
ぜったい「うらんだ時間をかえしてほしい」と、過去の自分を許せなくなります。
絶対に許せないと思えば思うほど、『これだけ許せないと思ったのだから、なにかしないとモッタイナイ』と考え始めます。
そして、だいたい失敗します。
成功しても、失敗しても、ぜったい「うらんだ時間をかえしてほしい」と悔やみます。
もっと楽しいことが、世の中にはたくさんあります。
仏教では怒り、絶対に許せないことや人に対して、どう考えるか・・・。
大丈夫。コンさんがいま考えていることは、悩まなくていい問題だと置いておきましょう。
藤子不二雄Aさんの発禁ギリギリ漫画「魔太郎が来る!!」という復讐マンガを御存じでしょうか。
「このうらみ はらさでおくべきか!」がキメ台詞です。
この主人公の魔太郎君は、いつもイジメにあうのですが、最後に必ず復讐します。
「このうらみはらさでおくべきか!」が「この紋どころが目に入らぬか!」的に悪人がボッコボコにやられる復讐始まりのゴングです。被害者側の立場で読むと「ザマ‐ミロ効果」で2次元的にスッキリすると思いますので実際に復讐してあなたが逮捕されるよりは、レッツお金で解決♪ぜひごAmazonでご購入を。 「この漫画、ポチらずにおくべきか!」(;゚Д゚)
しかし、この漫画、毎回いじめられる魔太郎君も不運ですが、いじめっ子側は毎回それ以上の不運に遭います。ひどい時にはアワワ相手を「仏にしてやる!」ホトケ違いで殺したりもします。
内容は忠臣蔵もビックリな痛快な仕返しストーリーとはいえ、現代的にはアウトなのでストーリーやセリフが削除されていない初版ものはネットで一冊2万円はします。幼少期に読むと、私のようにだらだらと回答が長くなり回答を読み飛ばされる危険性もありますので閲覧注意です。「この長文、飛ばさでおくべきか!」(;´・ω・)
ですが、ぶっちゃけ現実の世界で、何かをされた恨みの復讐を果たした後はどうなのでしょうか。仮にあなたが復讐の名の下で相手を殺せば、今度はあなたが相手の親兄弟から怨まれますよネ。仮にあなたが殺されればあなたの家族も苦しむ。
結局、怨みという精神の動かし方では、今後もあなたも含め「被害者」生み出し続ける負の連鎖になるだけなのです。
あなたと同じ悲しい被害者を生んでしまう負の連鎖づくりに加担するとあなたは結局、相手と同類になります。 よって結論、
一つは、怨んだ相手を害して相手を被害者にしないこと。
もう一つは、自分が相手からの❝被害者にならない❞こと。※被害者意識を持つな。
「被害者意識こそを 分の心から らさでおくべきか!」🙍これが仏教です。
恨みは相手を成敗して晴らすのではありません。
その恨みの正体は自分の都合、自我意識です。
自分が生み出している被害者意識が自分の内なる幻影であることを見抜いて、そこから自由になる事が仏教的な復讐、修復、です。
○○さん、おはようございます。
質問読ませて頂きました。
正しく『瞋(いかり)』ですね。
この瞋は生きていくのに必要な欲望です。
しかし「過ぎたるは及ばざるが如し」の通り、あなたのように大きすぎてはいけません。他人をも巻き添えにしますから。
よく煩悩は「滅」せよといいますが、正しくは「制」するです。
(中村元『般若心経 金剛般若経』(岩波文庫ワイド版)p31参照)
弘法大師は「生を離れた滅はなく、滅を離れた生はない」といいます。
(中村元『般若心経 金剛般若経』(岩波文庫ワイド版)p27参照)
今あなたに必要なのは、手放すことです。
握り拳をゆっくりと何度も何度も開いて下さい。
このようにして、あなたの瞋(いかり)を手放して下さい。
そうすれば、あなたは人としてこの世に生まれて来たことにきっと感謝できます!!
ぜひ人として生きて頂きたいと思います。
コン様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
怒りでも、特に激しい怒りというものは、仏教用語で「瞋恚」(しんに)と申しまして、特に煩悩の三毒の一つで、貪欲(むさぼること)と愚痴(愚かさ、無知・無明)と同様にしっかりと対治していくことが望まれることとなります。
問い「どうしても身内や騙して金を取った奴らが許せない」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002972089.html
「感興の言葉・ウダーナヴァルガ」(中村元氏訳)・岩波文庫・第14章・「憎しみ」から・・
「実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みの息むことがない。堪え忍ぶことによって、怨みは息(や)む。これは永遠の真理である。」
「怨みは怨みによっては決して静まらないであろう。怨みの状態は、怨みの無いことによって静まるであろう。怨みにつれて次々と現れることは、ためにならぬということが認められる。それ故にことわりを知る人は怨みをつくらない。」
「・・仏教では、憎しみや恨みは煩悩であり、そのような悪い感情に支配されての行為は、結局、悪い結果しかもたらさないため、当然に諌めなければならないこととなります。憎しみ、恨みを無くすには、耐え忍ぶこと(忍辱波羅蜜)と共に、慈悲の思いを向けることによって対治することが大切となります。
実は、仏教では自らを苦しめるモノ・コトがあってこそ、修行を進めることができると考えるところもあり、逆にそのようなモノ・コトに有り難さを思い、例えば、自らを害する敵にでさえも慈悲を向けることで、憎しみや恨みの感情を超えていくことが求められることになります。・・」
どうか怒りによる「復讐」よりも、慈悲によっての善い行いに勤め励めることでの福徳の修習としての「福修」をお薦め申し上げる次第でございます。
川口英俊 合掌
回答をいただいた皆様ありがとうございました。
何度も読み返したいと思います。
コン
回答ありがとうございます。
コン
回答ありがとうございます。
前回、書き忘れたのですが、もちろん復讐行為はしておりませんのでご安心下さい。
コン
回答ありがとうございます。
この質問を書いたとき、いろいろと怒りがあった時期でした。
私の性格は瞬間的に怒り、そのあと怒ったことを公開するんですよね。
そのような性格を治したいという思いも質問にはありました。
川口英俊様
回答ありがとうございます。
コン