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本気で信じているんですか?

お坊さんは本気で、死んだら仏になると信じているんですか?

仏教
有り難し 195
回答 5
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

本気で信じているんですか?

諸葛亮透明さま

はじめまして。
眞宗大谷派の釈理薫と申します。

さて、ご質問ですが。
諸葛亮透明さんのおっしゃる「仏」とは、なんでしょうか。

お釈迦さまは、「亡くなるとどうなるんですか?」という質問に「・・・・」と無言を貫いたというお話がございます。(「無記(むき)」
仏教では、死んだらどうなるかなんて答えていないんです。

では、浄土教で寿命がつきたあと極楽浄土に生まれるといわれるのはどういうことでしょうか。
世親(天親)菩薩の『浄土論』では、極楽浄土とは「法」の一字で表わせる。(「入一法句(にゅういっぽうく)」)と申しております。(ざっくりいえば法=空)
原典の『仏説無量寿経』では「かの仏国土にもろもろの往生する者は、~~みな、自然虚無の身、無極の体を受けたり。」とあります。(ざっくりいえば虚無=空)
またかの有名な『般若心経』では、「色即是空 空即是色(あらゆるものは空であり 空であるものはあらゆるものである)」とおっしゃる通りです。

あらゆるものが、生きていようが死んでいようが「空」としての関係性を持っているとも解釈できます。

その「空」を正しく「さとったもの」が「仏」なのであれば、死んだら(死ななくても)「仏」になれるのではないでしょうか。
その「空」をただしく理解すれば、心安らかに生きられる(涅槃に近づく)ということであれば、私は本当に信じています。

ざっくりとした返答で申し訳ありません。

「仏教」は「仏になる教え」と言われます。
では、なぜ「仏」になりたいのか。
「仏」とはなんなのか。
仏教の神髄であるといわれる「空」とはなんなのか。

そこをはっきりさせないと、「仏教」は面白くなっていかないと思います。
「仏教」は面白いですよ。
少なくとも紀元前4世紀から今までずっと、人を惹きつけている思想なのですから。

ぜひ、学んでみてください。

生きながら仏になるべきである

お釈迦様が当時のインドでお話になられた事は、ご自身が仏になられた体験談であり、方法論であったはずです。
訳のわからぬお経を読むとか、決して仏教ブッキョー&宗教シューキョーした教えではなく、
生(ナマ)の当時の言葉で、生きながら仏陀=覚者になる方法を説かれたのです。
では、生きながら慈悲と智慧にあふれた心豊かな最高の人間性である「仏になる」にはどうすれば良いか?
宗派によって修行法が異なるだけで、行き着く先は同じです。
禅宗風に申し上げれば、
自分の思いと関わることを休止することを一度トコトンやってみる必要があります。
足を組まずとも30分でもイイですから、自分観察と称して以下の方法を実践してみてください。

・出てくる思いをモグラ叩きのモグラを叩かないように放っておく
・出てくる思いを“これは雑念”とか、“消そう”とか思わずに放っておく
・見えるまま、聞こえるまま、感ずるまま、そこに思いやコメントを加えずに過ごす

やってみるとアレコレと考え事に夢中になってしまうお方がほとんどである。
それでも、きちんとやっていれば、
やがて、さっきまで自分自分、オレオレしていた意識のノボセ、濁りが澄みわたり、静寂かつクリアーで、自我意識の濃度がすっかり薄まった=無私・無我の人間本来の静まりに立ち返るはずです。
その時、はじめて「ああ、これか」と、一切の煩悩苦悩から離れた心のあり方、状態を知るようになる。
それを仏というのです。人間の飾りごとやつくろいごと、はからいの無い元々の心境のことです。=本来成仏・脱落心身
ここまでは説明であって、これを理解されても、“その状態にならなければ”私の申し上げたことを真に理解されたことにはなりません。
トコトン考えや思いを絶した時、あなたはただの人となる。
そこには自分と相手の境界線も無く、仏も人も、仏教臭さも何も無い。
その時、宗教とか仏教とかいう言葉なんぞは、一切いらなかったことがお分かりになられるはずでしょう。一度その心を得れば、後はそれを維持してゆくことが修行です。
仏教徒でなくてもできるでしょう?
宗教なんて言葉もいらんでしょう?
このように全世界70億人に共通する、誰もが自分の心を救える教えが、釈迦という一人の人間が説いた素晴らしい人間教です。
これを後世の人がただ仏教、と呼んでいるに過ぎないのであって、誰もが救われる教えです。

「仏」も「宗教」も、言葉の定義から。

お、質問者さんの捕捉がつきましたね。

まず「死んだら仏」ですが、「仏」という言葉の定義をしないといけません。
仏とは「buddha(ブッダ)」という古代インド語を漢字に当てはめた「仏陀」から来ています(アメリカを「亜米利加」と表記して「米国」と略するのと似ていますね)。

で、仏陀とは「真理に目覚めた人」という意味で、私なりに砕くと「物事の道理を完全に見極め、常に実践出来る人」となります。
なので、死んで仏にはなりません。死んだら故人、または遺体・お骨になるのです。

死んで仏になる、という発想は、私や釈理勲さんの属する浄土真宗の影響が強いでしょう。

お釈迦さまの時代から下って仏教思想が様々に発展すると、極楽や地獄という考えが生まれて来ました。その中で「仏になることが出来なければ地獄に堕ちる」「生きる為に漁(猟)をして命を奪えば地獄に堕ちる」という考え方も生まれました。
しかし考えてみると、ほとんどの人が地獄行きに当てはまります。しかし誰だって地獄には行きたくない。
こうして生まれたのが、阿弥陀という仏さまによる広い救済です。「たとえ地獄行きの人でも念仏を称えれば、死んだ後に仏になって極楽に行けますよ」という平易な教えで、学問も修行も出来ない民衆に広く受け入れられました。

さて、やっと捕捉についてです。「仏」の定義と同じく「宗教」という言葉の定義をしなくてはなりません。

質問者さんのおっしゃる「宗教」は、実在しない(実在が証明できない)神というものを、盲目的に「なんだかご利益があるんだろう」と拝むこと。
あるいは、事あるごとに寄付を要求したり、壺を売りつけたり、洗脳したりする、いわゆるカルトと呼ばれる「疑似宗教」のことだと思います。

私としては、上記のようなものを宗教と呼ぶのであれば、仏教は宗教ではないと思います。

自分のうえに実現しようとするものごと

諸葛亮透明さん、こんにちは。

お坊さんは本気で、死んだら仏になると信じているんですか?というご質問ですが・・・。
正直、分かりません。死んでから考えます。

たとえば、尊敬する師匠に「死んだら仏になるよ」と言われたからといって、「では、死んでみるか」とはなりません。たしかに残していくものが惜しい、という気持ちもありますが。
しかし、一番の理由は「そんな簡単に信じられるか」というところです。
諸葛亮透明さんは、尊敬する人の言ったことを反省もなく受け入れられますか?言葉のままに実践できますか?
ぼくは無理です。
学んで、実践することが大切ですが、確証が無いので死については実践しません。禁止されてもいますし。

他の回答者の方が定義についておっしゃっていますが、ぼくの考える「仏」とは、教えを学び実践することで”自分のうえに実現しようとするものごと”です。
アッラーのためにコーラン音読や礼拝したり、教会で祈ったり・・するのは、”自分のうえに実現する”こととは違うと思います。教えを学び実践することで”自分のうえに実現しようとする”以外に、仏教を信仰するとはいえないでしょう。
学ばなければ正しくおこなうことは出来ないし、行いがなければ耳学問です。

御坊様の意識として、自分は宗教という分類の中にいるというポジション感はおありですか。それともやっぱり宗教なんでしょうか。というご質問ですが・・・。
いわゆる大乗仏教は、聖と俗をわけません。かぎられた坊主だけのものではない、ということです。
『日本のお寺は風景でしかなかった』とは言い得て妙です。宗教以外に風景はないし、風景以外に宗教はない。すべての人間の営みが風景であり、宗教なのです。
そんな意識でいる。それだけです。

「死んだら(自動的に)仏になる」わけでは全くありません

諸葛亮透明 様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

最初に結論的には、「死んだら(自動的に)仏になる」わけでは全くありません。

仏教では、因果応報・輪廻思想を説きます。下記問いの拙回答をご参照賜れましたらと存じます。
http://hasunoha.jp/questions/32

仏教では、仏と言える存在になるためには、無明(根本的無知)・煩悩を排撃し、これ以上悪業を行わないようにすることと同時に、過去世より引き継いでしまってきている悪業の習気をも取り除く必要があります。

簡単には、煩悩によって悪業を成してしまう障りを「煩悩障」と言い、この煩悩障をまず退治することにより、これ以上悪業を成さなくすることが望まれます。これだけでは、当然に不十分で、次に仏と言える存在である一切智者・正覚者・仏陀・如来となるためには、悟りの妨げとなっている一切を知るところの障りである「所知障」を退治しなければならず、そのためには悪業の習気をも退治する必要があるわけであります。そのため、これ以上は悪業を成さないことは当然として、次に善業(慈悲行・利他行などの善行)を積むことによって、悪業の習気をもしっかりと取り除いていくことが求められるのであります。

仏教の目的は、迷い苦しみの輪廻から解脱し、悟りを得て一切智者・正覚者・仏陀・如来となることであります。そのために仏道修行があり、その入り口として、正式に受戒・得度・引導を受ける必要があります。生前でも受戒・得度は可能ですが、ほとんどの方は死後のお通夜・お葬儀にて導師より受けることとなります。

ただ、生前にせよ今世の死後にせよ受戒・得度したからといって、即座に一切智者・正覚者・仏陀・如来となれるわけではありません。あくまでも受戒・得度は修行のほんの入り口に過ぎず、ここからしっかりと仏道の歩みを進めていかなければ、到底、一切智者・正覚者・仏陀・如来に成れるわけではないのであります。

もちろん、生前にせよ、死後にせよ、その受戒・得度が正式な仏法に基づいた正式な導師による適切・妥当なものであるのかどうかは大いに問われてくるところにはなりますが・・

とにかく真摯に仏法に向き合い、仏法を学び、修していくことによって、悪業を成さず、善業に努め、少しでも仏道を歩めるようにと調えて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌


質問者からの有り難し - お礼

わかったような、わからぬような。・・・回答を読んで思うのは、仏教はいわゆる宗教とは少し違うということですが、御坊様の意識として、自分は宗教という分類の中にいるというポジション感はおありですか。それともやっぱり宗教なんでしょうか。

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