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なぜ「差」があるのか?なぜ、この世があるのか?

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生まれた時から親に愛され大切にされる人、親に虐待されて死んだり辛い思いをして過ごす人。

お金に恵まれお金で苦労せず一生過ごす人。生まれた時から貧乏だったりお金に恵まれず色んな事を我慢し、やりくりに苦悩しながら生きる人。

なぜ、そんな差があるのですか?後者のため死んでしまったり辛くてストレスで病気になってしまう人もいます。

前世が関係していて、カルマ、業があるからと言うのでしょうか?でも前世の記憶はありません。この世ではただ差があり辛いだけです。

なぜ、皆一緒で幸せではなのでしょうか?

色んな宗教では「人と比べない」と言われますが比べてしまいますよ。

子供に「なぜ不公平なの?差があるの?」と聞かれたらなんと答えればいいんでしょう?

人それぞれ違った人生があり、この世での学びがあるのだから人と比べても仕方ない。と答えたとしてもほとんどの子達はその後も人と比べて苦しんだりするでしょう。

もっと、ちゃんと人を救えないでしょうか?

自分より悪い状態や環境の人をみて、まだ私は良い方だ。上を見たら辛くなるから、辛くらない方を見て知って自分はまだ大いに恵まれている方で、世に中にはもっと大変で過酷な環境の中頑張って生きている人がいるんだから、不満や不足ばかりをみたり嘆いてはだめだ、感謝して生きよう。

それで、本当にいいんでしょうか?

上下、誰とも比べない。と言われてもそんな立派な人はそういません。比べて自分のこの世での位置を確認し差について色々思います、人間ですもの。

お金、親や配偶者の愛に恵まれているあの人も、悩みはあるものですよ。と言われても、その通りだと思います。人は皆、大なり小なり、多かれ少なかれ、悩みがあるものです。でも、大か中か小、多いか少ないか、の差があるのはどうしてなのでしょうか?あまりにもその差が大きすぎる様に思うのです。

この世は混浴界。なぜ、あえてそんなものを創ったのでしょうか?この世なんかなく、ただ光のままで、善、愛しかないのでよかったのではないでしょうか?苦しんだり、苦しめるくらいなら、無で、空で
皆が幸せで愛に包み込まれて一つのままでよかったのでは?

悲しむ人、苦しむ人は見たくないです。

出来るだけ多くの色んなお防様のご意見が頂けると幸いです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まずあなたの悲しみ、苦しみを見つめ、あなたが救われてください

なぜ差があるのか?なぜこの世があるのか?

わかりません。
わかることは今、この世があり、そこにあじさいが様がいて、その世の中は差に満ちているということです。
そして人はその差を比べてしまうということも事実です。人間の自我は母(他者)との比較から始まり形成されていくので、人間はそもそも比べることでしか物事を考えられないのも事実だと思います。
良いか悪いか、多いか少ないか、好きか嫌いか・・・皆が自らの物差しで考え比べあい、優越感にひたったり、劣等感にさいなまれる世の中です。

比べるなといっても比べることしかできないのが人間です。しかし比べることでは解決しないことも事実です。

なぜ差があるのかを問うても、差があるという事実が目の目に立ちはだかるのみです。人間が人間の頭で考え努力し制度を整えて、なくしていけるような差もたしかにあるでしょう。しかしどこまでいっても差がなくなるということはないでしょう。
天上天下唯我独尊です。天の上にも下にもあじさい様という人間は唯一人で、あじさい様は他の人と違うのです。すなわち差があるということです。

しかしそれは凡夫の無明の目で見た表面的な差であり、仏様の智慧の目で見るとみな本質的には平等な「いのち」を生きているのでしょう。
その世界に目覚めていくのが仏教ではないでしょうか。

仏教の幸せとは「相対的な幸せ」でなく、「絶対的な幸せ」でしょう。比較や善悪感からの解放です。
「あの人と比べてどうだから私は幸せだ」、なんてものではなく、「私が私で良かった」という自体満足の救いです。それはあきらめや、妥協や自己満足ではありません。「事実を明らかに知る」ということです。
差はある。しかしその本質は平等である。あじさい様が言う所の「空」であるでもよいでしょう。空であるが故に平等である。本来、空であるものが今ここに縁に因って生起しているから尊いのである。

尊い平等ないのちの世界に目覚めていきましょう。

「悲しむ人、苦しむ人はみたくない」

その気持ちが悪いとは言いません。しかし、その人が悲しんでいる、苦しんでいると決めているのは誰ですか。
まず、あじさい様が救われてください。あじさい様が救われるということは皆平等に救われるということです。皆が幸せで愛に包まれるということです。

仏の智慧の目をいただいていきましょう。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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仰る通り。

あじさいさま

まさに仰る通り、世の中は一人一人、誰一人として同じではない、即ち、不公平、非平等であります。

もしも善と愛だけであったあじさいさまの仰る世界であれば、hasunohaや社会のセーフティーネット、婚姻、などというものは全く必要なくなるでしょう、まさに理想であります。

しかしながら現実はそうではありません。お釈迦さまは「世界の生きとしいける全てのものは幸せであれ」と願っていらっしゃいます。

どういうことでしょうか、少し考えてみれば、いいことばかりではない世界にあって、同じ生き物同士、支え合って命のある限り生きていきなさいということではないでしょうか。
本当のところはお釈迦さまにしかわからないけれども、その言葉に思いを馳せた時、なんとなく伝わってくるものではないでしょうか?と私は思います。

とはいえ、支え合っていくことすらもままならない、自分を支えていくのでさえ精一杯な世の中です。一つ一つの命が、お互いにお互いを支えていっている道理や因果、縁に気づき善き世界に近づいていくこれが仏教のいうところではないでしょうか。ただ、教えがあってもそれにトライ、実践していかなければならないのです。上手、下手、出来た、出来ない、ではなく。「やってみる」ことが大切でそこから色々学ぶことが個人的には多い気がします。何するにせよ、自分のカラダを通して経験したり、先人の残した足跡の上に、に答えはあるのではないでしょうか。そこから学んで生きてみてはいかがでしょう。嘆いてばかりでは何も変わりません。
死んでホトケさまになるのではなく、生きながらにしてホトケさまの様に、智慧を持って慈悲深く生きて行く術を身につけ、「学び」や「努力」をしていく、ここにご自身が救われていくのでなければ「仏教」としては本意ではないのですね。

私もまだまだ精進に至らず、生意気を申し上げましたが、一つのアンサーとして回答させていただきます。感謝。合掌

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おきもち

こんにちは。 埼玉県秩父市のお寺で住職をさせて頂いております、野村圭秀と...
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「色即是空」「空即是色」を知る!

仏教ではこの世は「一切皆苦」すべてのものは苦しみであるとされています。
ここでの苦は「思い通りに成らない事」を苦といいます。
「差」を感じる心はやはり「思うがまま成らない」心が存在するからです。
「差」即ち「苦」を否定する事はこの世を否定する事となるのです。

この世に生まれた瞬間から苦の世界で「四苦八苦」が始まり思う様にならない時を過ごしますがこの苦をどう受け止めるかで善にも悪にもなり幸にも不幸にも成るのですがこれも人其々で「差」があります。
簡単に言えば、この「差」がもたらす苦、迷い、悩み、を善の行い。真実の生き方として説いているのが仏教です。

苦の世界を認め「覚悟」する事で迷いから解かれまた迷い覚悟して解きの繰り返しのこのよです。
しかしこの苦があるからこそ泣いたり、笑ったり、怒ったり、感動したり、感謝、絆、思い遣り、の心が生まれてもくるのです。
今、熊本震災があり苦しみの中に人々が居ます。しかし色んな人々が助けようと集まり真実の心を配ります。そこには絆、感謝、思い遣り等が大きく広がっている熊本に今私も感謝しながら此処に懸命に生きてます。

人は皆一人では生きて行けない!と言う歌がありましたが正にこの世は苦しい時誰かが居てくれたなら苦しみもその分減るのです。楽しい時は誰かが居たら何倍にもなるのです。

今生きて居る事をしっかり受け止め何が真実なのかを見つけながら死んで行くのです。しかしこれが難しい!

貴女は今を逃げたい苦しみたく無い、嫌な事ばかり生まれた意味に疑問が何時も付きまとう。
どんなに考えても答えを探しても「差」「この世」の答えは出ないでしょう。
生まれたなら「只、懸命に生きる事」そして死んで仏国土へと赴きまた此の世へ苦しみの世界を只生きる為懸命に生きる為にうまれる。

「色即是空」とはこの世に姿、形を持って生まれこの世の存在を肉体で確認しやがて誰もが訪れる生者必滅を迎え消え去って行き生まれる前の世界「空」へと戻るのです。
「空即是色」は、正しくその逆の事となり「空」の世界より「色」の世界へ生まれて来ます。
佛の世界では何時如何なる時にも目に見える事、見えない事は別の世界でなく一つの世界として捉え真実の在り方を突き進んで説かれています。

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おきもち

「運・運命」問答一覧

家族の怪我が続く

以前主人について、離婚すべきかご相談させて頂いたものになります。 その際は心温まるお言葉を誠にありがとうございます。 その後数ヶ月我慢して日々を過ごしていたところ、土曜日出勤で私が仕事中子供を保育園に預けている間、主人が仲間たちと遊んでいたところ、階段を踏みはずし、脛と膝を粉砕骨折、救急車で運ばれ2ヶ月入院の大怪我を致しました。 ちなみに骨折入院中に主人は私と同じ会社を退職しました。2ヶ月ほど前に、私には相談も無く、独立するということで会社に退職届を出していました。 それもこれもやはり神様の思し召しか、独立は時期早々かと思いましたが、私は何も言わずに、毎週3歳の子供を連れて片道2時間かけて面会に行きました。 その退院後、主人も心を入れ替えたのか、家事や育児にも協力的になり、出かけても家に毎日帰ってくるようになりました。昨年の7月頭骨折、9月頭退院の出来事です。 そんな年が明けた矢先、おととい、 姉の旦那が小学生の子供2人と家族4人でスケートをしていたところ、くるぶしを骨折、本日から急遽入院、手術することになりました。姉の家族は私から見ても羨ましいくらい夫婦仲も家族仲もよく、何も悪いことは見当たらなく、夫婦2人3脚でやってきたので、1ヶ月程度の入院ということで姉が大変ショックを受けています。 また、正月に実家に帰った際、姉の家族を見送った翌日に私が帰ろうと駐車場から出た際に、私の父が階段から転倒したらしく、骨折まではいかなかったのですが足を怪我しています。 私の身の回りで、しかも父に当たる人が立て続けに足を怪我をしているのですが、何か良くない運気があるのでしょうか? ちなみに以前のご相談で記載させて頂きました私の母は、3年前の私の出産時末期の白血病だったのですが、私の祈りが通じたのか奇跡が起こり、今年はお正月料理を今までで一番盛大に準備し、私の子供と遊べるくらいまでに回復しました。 私と姉は元気ですが、立て続けに試練が来るのでかなり不安になっています。 偶然でしょうか? 何か断ち切る方法があれば教えてください。

有り難し有り難し 3
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「運」って何ですか?

初めまして。疑問に思っていることがあります。 「運」という言葉は現代人は皆当たり前のように使う言葉です。「ギャンブルで勝ったから運がいい。」「ソシャゲのガチャで狙いが全然当たらず運が悪い」といった感じに。 このように「過去に起こった出来事」に対して運がよかった、悪かったということに対しては特に疑問はありません。 しかし、「今の俺は運がいいから次も勝てる」「私は運が悪いから何をやってもうまくいかない」といったように、あたかも「運」を自分の才能や能力のように語ることに疑問を感じます。 どんなに過去の結果がよかったとしても、これから振るサイコロの目が出る確率は変わることはないはずです。しかし人は「運」で確率が変わるかのように信じ、験担ぎをしたり神社にお参りに行ったりします。 私の中で「運」という物は以下のどれかかなと思います。 1:「運」は人が持つ才能や能力の一つであり、良い行いをすることで鍛えることができるもの。 2:「運」は天上の存在が与えるチャンスであり、良い行いをすると巡り合いやすくなる。 3:「運」なんて存在しない。全ては過去の結果であり、行いで変化するものでもない。 私は「運」を信用していない人なので3だと思っています。 お坊さんの方々は「運」というものを何だと考えるか知りたいです。

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運命とは

私は周りから見たら、外見才能知能、そんなに恵まれてたら何もかもがイージーだろと言われるように産まれました。 しかしそんな人間は周りから見るといるだけで「ずるい」許せない存在であり、あらゆる人(家族友人教師)から酷い迫害に遭い幼少期からストレスで病気だらけ、頼る人もいず、彼氏も友達(養育環境による鬱で)も自殺し義務教育すら終えられず11年も引きこもりまともな就労経験もなく15年もうつで餓死寸前で入院、差別され続け何で生きているのか分りません。 大人になっても外見のせいで異性にとんでもない目に遭わされ同性には嫉妬、やっと結婚し昨年息子を産み激しいトラウマの末、家族と夫にまで虐待されていた事を40年経って気付き絶縁し自分は悪くなかったと知り一瞬で鬱が治りました。 姉二人は普通の人生です。親戚に誰も似ていない才能があり美しい私「だけ」家族中から虐待され、三歳で殴られ死ねと言われ去年生きている間にと改名しました。 唯一優しかったのは祖母であり、その長女が「この子は産まれてきて良かったという顔をしている」と言い、彼女には何か不思議な力があったらしく私に純白のドレスを小学校入学式に贈ってくれたりもしました。 その通り私は不思議なものを見たり聞いたり奇跡的に助けられたりを何度もしました。物理的にあり得ないことが起き周りの人の方がそれを見、知っていました。 妄想などと診断された事もなく、大抵のスピリチュアルには懐疑的で幽霊や恐ろしいものを見たことは一度も無いのです。一番強烈な体験を信頼できるお坊さんに話したら「私はそんな体験はないけれど真実だと思います」と逆に驚かれました。 親は身近で知りうる限り最も愚かで尊敬できる所のない人間でした。私はたった一人ボコボコにされながら家族を助けてきました。もう十分だろうと思います。彼らが罪を悔い改める時間が残されているといいですが。 神仏がおられるのなら(私は確信しましたが何の神かは分かりません)真に救われるべきは自らの弱さに対峙せず、それを抗えぬ幼い我が子にぶつけた彼らの方だと思います。 夫は酷いモラハラを大変反省してくれ何もかもこれからだと思いましたが、夫はおそらく軽い自閉症であり息子は遺伝したのかもっと重く知的障害も併せ持っているようです。 私の人生よりも、生きる力をくれた息子を不幸にした事が許せません。 運命とは一体何なのでしょう?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ