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「執着」の解釈について

初めまして。
先日、人生初の写経(般若心経)を体験させていただきました。
そのとき、「執着」からの解放について法話をいただきました。

加減が大事、だとは思うのですが執着しないことで得られる自由な心・発想・幸福感に納得すると同時に、たとえば学生のときなど、100点満点や資格合格にひたすら執着し諦められずに必死に向き合って努力し、手にした達成感や自信などもあることを思い出し、そこで「執着」についてうまい解釈が自分のなかでできずにいます。

実際今恋愛に関しても、気になっている方に粘り強く振り向いてもらえるように頑張ってみようかな?という思いと、もう、5回ほど会って相手と何も進展がないならば、執着しないで次へ向かうぞ!と思うべきか?と葛藤中でもあり、「執着」についての解釈についてもう少し、お坊さん的アドバイスをいただけると有難く存じます。

よろしくお願いいたします!

有り難し 23
回答 4
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

毒にも薬にもせよ

人生どんなものでも毒にも薬にもさせられないようでは力になりません。
仮に恋愛でフラれようが糧と為す事ですわい。
禅宗風に?過激な事を申せば、執着は別に悪いものではありません。
使い方次第によっては、どんな心の作用も苦しみのタネになり、上手に使えば目的達成の為の便利なものにすらなる。
そもそも執着・執著とは何ざましょ。
今そこに現実に無いカタチ無きものを、心で認め・留めているということです。
目玉や耳や鼻、舌、体の五感は、何を体験しても残り物はありません。
心だけは、過去の事であれ未来の事であれ、その事に対する、固執、こだわり、つかみ事、握る事をアタマの中で起こすのです。アノトキコウダッタ イマニミテロヨ
今のことでないもの、実質でない虚妄のことを、心から離さずにいる事、それが為に苦しみを生むこと。それが執着、執著(しゅうじゃく)です。
◇執着・執著からの解放について◇
結論は心の本来の性質を見極めると、いつでも解放されています。誤ったものの見方をしているから執着になるのです。
仏教では蓮の花にそれをよくたとえています。
蓮の華が泥から生まれ泥に著(つ)かざるように、執着されるべきものから影響を受けない事が悟り、涅槃の様子です。
その証拠に、
・眼は前の映像をを残していない。(残していたら見えない)
・耳は、さっきの音を聞いていいない。(だから今の音が聞こえる)
・鼻も舌も体にも、前の感覚が残っていない(さっき体感したものが残っているというのは❝今❞感じていることだから)
こだわりを力に変える能力があれば、金メダルだって取れます。一休さんは負けん気が強かったから悟りを得られたといいます。お釈迦様だってトコトン、一心に精進という名の邁進する気持ちがあったから悟りを開かれた。
いずれにせよ心に備わっているハタラキの一つを一方から見れば執着という悪いものとして見られ、他方から見れば活用次第で薬になる、力になるものです。
執着も、持って生まれた天性ならば、上手に使えばよいのです。ただし刃物を以って手足を切ったり、火を以って家や身を焼くような真似をしてはいけない。包丁も火も用い方次第で調理や寒さをやわらげるものに変えられます。執着を上手に使って恋愛よりももっと大きな利益(りやく)となる心を打ち立てるべく、誓願を成就なさってください。

「空と縁起」

paula様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

般若心経は「空」を考える上での重要な内容となってございますが、「無無無・・」と続くことから、誤って「何も無い」という意味の「虚無」や「絶無」と勘違いしてしまうと、「むむむ・・」となってしまいます。

もちろん、私たちの目の前には様々な存在があって、事象が展開されています。しかし、それらのあらゆるモノ・コト、存在・事象は、実体的に、独立自存として成り立ってはいないということを理解した上にて、ではどのようなありようで成り立っているのかにつきましては、最近の下記拙論をご参照下さいませ。

「 死後について 」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008841241.html

『・・この世における全ての存在・事象は、必ずや因や縁に依存して(依りて、「縁」りて)、「起」こっているという「縁起」の法を理解することと共に、依存して成立しているということは、つまり、独立自存・実体として成立していないという「空」であることの理解も求められるものとなります。・・』

問い「『とらわれない心』について教えてください。」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1010408264.html

『・・例えば、人生における幸せや夢を追いかけて頑張ることや、仏教における悟りを目指すことや、修行に励むこと、智慧を育むこと、善徳・利他・慈悲行を実践することまでも、「とらわれるな」、「執着するな」というのは、誠に愚かなことであると存じております。それらを否定してしまって、じゃあ一体何をするのだということになります。下手に幸せや夢、悟り・涅槃へと向けた善き因縁を集めていくことまでをも否定してしまっては、人生も、仏教も、そのものを根底から否定してしまうことになりかねませんし、何もかも否定してしまい虚無に陥りかねません。このことは十分に気を付けて注意する必要があるかと存じております。・・』

要は「執着」についても、いかにして善き結果へと向けての善き因縁を集めていけることになるかどうかにて、その度合を判断するべきではないかと考えております。

川口英俊 合掌

執着そのものではなく手放し方がポイント

paulaさん。
こんにちは。
執着は自分もテーマにしている課題です。

手に入れたいと思う欲。
そのまま保ち続けたい欲。

そこにしがみつきたいがゆえに生じる苦しみ。
手に入れられないことをあきらめきれない切なさ、落胆。

そんな気持ちを挫折ではなく卒業という感じでどう手放すことができるか。

自分の場合はたまに強い思いを持ったものを手放さなければいけない時、それを紙に書いて棺桶に入れて静かに合掌し念じるする時間を持ちます
棺桶は極端ですが、なにかおいしいもの食べるとか、買物するとか、節目の儀式のようなものをささやかでいいのでpaulaさんのやり方で見つけてくださると、恋愛の時のエネルギーなどそこにかけた手間や時間が報われると思います。

回答僧
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悟東 あすか

真言密教では大欲といいます

執着は欲の1つですよね。

欲は捨てろと一般的な仏教ではよく言います。

しかし、真言密教では違います。

欲を持つのであれば、とことん良い方向まで高めて持ってみよと。

人の迷惑になったり、自分を損なうような自分勝手な欲を小欲といいます。
その反対に人を幸せにして自分の人間性も高めるような欲を大欲というのです。

自分だけが苦しみから救われたい。おなかいっぱいになりたい。というのは小欲です。
皆が苦しみから救われるようにしたい、お腹のヘッっている人がいないようにしたい。…こんな思いだって「欲」なわけでして、これを「大欲」と言うのです。

欲は単に否定すれば良いというものではなく、良い方向に育てる事が大事なのだと思います。

ちょっとしょうもない例かもですが…

あ〜掃除がめんどうくさい(小欲的)
   ↓
皆が掃除をしないでも部屋がきれいになって人々が時間を有効活用できないかな(大欲的)
(相寺ロボットの開発や掃除機の開発)

大欲は決して人を損なわず、人々を幸せにするということが条件だと思います。

一見大欲のように立派に見えても
「学校でテストの順位が一番に成りたい」というのは、人を蹴落とすという意味もあり小欲的であり人も自分も傷付ける可能性が高いものです。

しかし、「学ぶ事によってもっと自分の能力を高めて人に役に立ちたい」とか「学ぶ事が楽しくてしょうがないのでもっと学びたい.学ぶ事で自分を発揮したい」などは、大欲的だと思います。

真言密教のお経の本には
「大欲は清く清くして菩薩の位に至る」
と書かれています。

執着だ欲だと言う前に、それが人様や自分を傷付ける可能性があるものか、もしくは人様や自分を高めるののであるかを考えてみてはいかがでしょうか?


質問者からの有り難し - お礼

皆様、それぞれとても心に響くご回答をいただきありがとうございました!
大事に読ませていただきます。
どう自分のなかで昇華するか、迷いがあったのですが、すっきりした気持ちです。

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