僕の友達が「自分は欠点だらけで生きてる価値がないダメな人間だ 」と言ってよく悲観的になってしまいます。
欠点というのも凄くお喋りだとか、趣味が変わってるとか、少し落ち着きがないだとか日常生活を送るうえで全く問題ない点ばかりです。
色々な長所や無理に治す必要もないと励ましてみたですが、「欠点は悪い点なんだから治すべきだろこのままでいいはずがない向上心がないと思われる」と言われてしまい、全く言い返せませんでした。
ドーナツは穴があってはじめてドーナツと認識されますし、
個人にだって多少の穴があってそれが、個性に繋がると思うのです。
僕には自分を無理に矯正しているように見えます。
このままでは、彼がいつか壊れてしまうのではないかと不安になってしまいます。
どうすれば彼にいいアドバイスを与えることができるでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
穀物さん、ご質問ありがとうございます。
友達の心配をしておられる、優しい方ですね。
こんなたとえがあります。
人間は金平糖のようなものだ。
丸い部分ととがった部分がある。
とがった部分が欠点や短所。
欠点や短所をなくせば、金平糖は小さい玉になる。
その欠点を補うように長所を伸ばせば、
その金平糖は大きな玉になる。
どちらが良いか。
ここからは、浄土真宗から見て、書いてみます。
阿弥陀如来は摂取不捨の仏様です。
決して見捨てることはしない。
どのような欠点や短所があっても、必ず阿弥陀様はお救いくださる。
欠点や短所を持ったままでいいのです。
安心して長所を伸ばして、
大きな玉となってください。
穀物さんは、本当にお優しいですね。
お友達は、幸せだと思います。
以下、自己否定している方にお伝えしたいと思うことです。
1、悪い評価を下されている自分が、
毎日の生理的、生命活動の維持をしその人を根底から支え、
ダメだ~という辛い気持ちに耐え忍びながら、勉強、仕事
を責任もってこなしていき、向上しようと頑張っている
自分でもあるわけです。そっちの自分にも目を向け、
労わってあげてほしいと思います。
2、坂道は、上り坂とも下り坂とも呼ばれます。
ものごと、みんな両面あります。どのようにも
意味づけできます。風邪、発熱は悪い事のようですが
、免疫力がアップし身体を一新してくれます。
裸足で生活する国に着いた2人の靴の営業マン、一人はあ~ダメだ、
売れないと引き返し、一人は本社に連絡しどんどん靴を送ってくれと
商機とする人。
ダメと判断を下し、それで終わりにする選択もありますが、
そこにあらゆる意味を見つけ出していく選択もあるということ。
3、ちょっと理屈っぽいですけど。
私たちは、命ある物は、存在は、是非善悪・有無・浄不浄・・・
そうした観念の世界の中に生まれてきたのではありません。
私たちの働きの一つ、機能の一つが観念の世界を
創り出しています。私たちは思考以前です。ダメだと決められる
立場ではなく、決める立場です。
お友達は、「自分(A)は、ダメな自分(B)である。」と言っている
わけですが、本当のお友達は(A)なのですが、(B)と思っている
ということです。
要は私たちが観念、意味づけをする側、主体であるのに、
逆転してしまい、観念に支配されている状態になっているということです。
これは自己否定に限らず、ほとんどの部分、分野でそうなっていると
思います。たとえば、罪悪感、死という有限性・・・
この本末転倒を直し、正していくことが、本当の救いに通じていくと
わたしは思います。それが仏教だと思っています。
自己否定は苦しいと思います。でもそれは自分がダメだから、未熟
だからそうなるのではなく、必要だからそうなっている、自然なことだと
思います。苦しいのを何とかしたいという、切実なものがあって初めて
本当の肯定にたどり着けるのだと思います。
ですので、自己否定は、必要で、ありがたいものでもあると思います。
藤堂尚夫様、法演様
御解答有り難うございます。
彼は今、変化が必要な大事な時期だったのだなと、気づかされました。
彼の変化を喜ぶ素直な気持ちが沸いて参りました。
これからは、変に口出しするのではなく、そっと見守ってみようと思います。
最後に御返事が遅くなってしまって、申し訳ありませんでした。