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善悪について

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寝ているときは、不安や心配がありません。
すなわち、起きているときに存在する私という感覚(自我)は、不安や心配そのものであると言えるでしょう。

また、自我は問題の生じるところにしか存在せず、問題は善悪を裁く部分にのみ存在すると感じます。
言い換えれば、善悪を裁くことがなくなれば、自我による不安、心配から開放されそうです。

そこで、善悪とは何なのか、何によって生じるのか、仏教においての善悪の解釈を教えて頂けませんでしょうか?

今まで善悪についてあまり考えず、周りに流されてきた気がしています。

よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

理屈を気にせず、経験から体感して積んでください。

たにしさん、こんにちは。

善悪のことを考えるようになってきたのですね。
素晴らしいです。
でも善悪の価値は人によって違います。人生経験の中で積み上げていくもののように感じます。
あなたはまだ若い。理屈も大切ですが、どんどんいろんなものにチャレンジして、人生経験の厚みを作ってくださいね。

さて、
よく仏教の話で、「善因善果、悪因悪果」という言葉が出てきます。でもこれ仏教だけでなく、社会での道徳律に近いものです。すると良いことをしたのにぜんぜん良い結果が生まれないと悩まれる方がいるのです。本当は仏教は「善因楽果 悪因苦果」が正解です。自分が良いことをしたという自身があればその結果はどんな結果でも、自身の喜びになるのです。たとえば、スポーツで勝つために一所懸命練習しても負けることはいくらでもあります。善果になっていのです。でも一所懸命した努力は残ります。自分に悔いがなければ、苦しみではなく、人生の充実になります。すると負けたことよりもそこに喜びを感じるのです。それが楽果です。一方、どんなに良い結果があっても自分の心が卑しいと苦しみの結果になるものです。たとえば、宝くじで1億あたった結果をもらっても、それで心が緩んで人生を誤ってすべてをなくしたという話はよく聞きます。自分の心ができていないと、どんな幸せなことでも苦しみになるのです。

つまり仏教では、自分の心が充実できるものが善であり、苦しみと受け止めてしまうものが悪となるので、善悪というものの一方的な価値で判断することができなくなります。
だから人生経験が必要なのです。

合掌。

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無分別の智慧

たにしさん

はじめまして、釋慧心と申します。

素晴らしい着眼点ですね。
善悪を判断しているのは何でしょうか。

我々が人間の世界で正しい判断をする際に必要な基準。
法律や道徳を守る為の基準と言っても良いかも知れません。
つまり、善いか悪いかを決める作業の為のもの。

それは、分別ですね。
人間の私が、この人間の世界を生きていく際に生じる善悪は、この分別から生じています。

ではこの分別は何から生じているのか。
知恵です。
私達人間のもつ能力の一つ。
人間の知恵は分別の下に、素晴らしいもの、医療や科学技術、また工業製品、
国や法律を生み出しているのも、この知恵であり分別です。
我々人間の生活には欠かせないものです。

しかし、分別は同時に差別や優劣を生じさせます。
元々違いのない人間という存在に、差や優劣をつけて、違いを生じさせているのもまた分別です。
分別を言い換えますと、色眼鏡と言うても良いでしょう。
また、私の物差しとも言えます。
この分別があることによって、我々はものの姿をそのままに見られません。
まさに、善いか悪いかを区別しております。

仏さまの基準に照らし合わせますと、灯りが無く、どっちに行ったら良いか分からないような状態、無明の状態。
無明、つまり迷いの状態にするのは、分別が悪さをしております。

それは、広い意味で悪と言えます。
悪とは、煩悩に満ち満ちた私の姿そのものです。
中でも、地獄、餓鬼道、畜生道という3つの悪の境界があります。
三悪道(さんまくどう)と呼んでおります。

私というのは、無明煩悩がこの身に満ち満ちており、欲も多く、怒り、腹立ち、妬み、嫉む心も多く、
それらは死ぬまで消えることも途切れることも絶えることもありません。

これらが悪の正体と言えるでしょう。
その反対が善と言えますが、そもそもその善を決めているのが、私の物差しであり、色眼鏡なのですから、
本当の意味での、善行は我々煩悩に満ちた人間には成すことが難しいものです。
よくよく、仏さまのお声に耳を傾けなければなりません。

仏さまにはこの分別が無いのです。
無分別と言います。
無分別の智慧を無分別智(むふんべっち)と言うております。

無分別の智慧に出遇いますと、私の分別の知恵がどういうものなのかを知らせて頂けます。

仏さまの智慧を素直に聴くことが、非常に大切です。

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浄土真宗 本願寺派の寺で住職をさせて頂いております。 南無阿弥...
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なぜhasunohaで回答するか?自分のためだから

仏教の善悪はキリスト教的な正義・邪悪とは根本的に異なります。悟り(心の平穏)に近付くものが善、迷い(苦)を増幅させるものが悪です。

苦とはどこから生まれるか?それは3つの煩悩から生じます。第一に無明(むみょう)、苦楽の原因と結果の道理を知らないこと、すなわち仏教に暗いことです。第二に渇愛、もっと欲しいもっと欲しいと望んで止まないこと。あるいはその裏返しでもう嫌だ少しも欲しく無いと拒絶する心。それらのもっともっとや、もう、少しもにあたる際限のない心が渇愛です。第三に取(しゅ)、物事に評価をつけたり、好き嫌いを判断する心です。

これら無明、渇愛、取の3つが煩悩であり、苦の原因です。

電車で向かいのおねーちゃんの短いスカートが眼に入りました。それはお目々が光情報をキャッチしてお仕事しただけ。お目々のお仕事に文句はいえません。おねーちゃんのとこだけフォトショで切り取ってから脳みそに伝達してネなんて無茶振りです。お目々は私という自我から独立しています。脳みそに届いてから「ウホッ!イイ女!もっと見てぇ!」あるいは「下品だなぁ…いなくなって欲しい」という渇愛や、「肌の露出度は公序良俗としていかにあるべきであろうか。どこまでが善でどこからが悪か」という取を持ち込んだ時点で自我が発生します。

それがなければ社会は動けませんが、過度に濫用して「思い通りにならない」と思い煩うのは自分ですよーという話です。

じゃあ何も感じない、何も考えない植物人間になれば良いか?確かにそれで悪は止められるかもしれません。しかし、それでは善を行うことは決してできません。それでは解決しないのです。

じゃあとは善とは何か?長くなるので過去の回答を貼らせていただきます。
http://hasunoha.jp/questions/3597
我が家に敷地があるように、自分の身体の行い、言葉の行い、心の行いのにも範囲があります。その範囲に善を敷き詰めれば敷き詰めた分だけ、不安が生じる余地は減るでしょう。リアルタイムで変化するそのバランスを、賢く調えながら生きましょうというのが仏道です。

さぁ、自分の心の家の中でグダグダくっちゃべってないで、お外の世界で他者と触れ合うのです。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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「二諦」について

たにし様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

誠にモノ・コトの本質的なことにつきましてのご質問であるのではないかと存じます。

まず、自我も善悪も、実体としては無い「空」なるものがその本質となります。

もちろん、それらは、何も無いという虚無・絶無ではなく、他に依存すること、つまり、「縁って起こっているもの」として「縁起」にて成り立っているものであると説明することにはなります。

ですので、自我も善悪も一応、「縁起」的には成立しているものと考えることができます。

しかし、問題は、では、「縁起」的には成立しているものであるとしても、正しくそのモノ・コトのありようを措定するにあたっては、「無明」(根本的な無知)の対治において、「ある」ものを「ない」としてしまっている錯誤、「ない」ものを「ある」としてしまっている錯誤について、いったい、何を否定して、何を肯定するべきであるのか、あるいは、何を否定するにしてもどこまでとなるのか、何を肯定するにしてもどこまでになるのか、そのことを論理的、合理的に明確にしていかなければならないのでございます。

では、その正しいモノ・コトのありようを措定するために必要となる仏教の基準が何であるかと申しますと、「二諦」という考え方となります。

それは、最高の究極的な真理を示す教えとしての「勝義諦」(しょうぎたい)と、世間世俗の真理に留めて説かれている教え、方便としてお説きになられている教えとしての「世俗諦」(せぞくたい)という、二つの真理のありようを正しく理解することによって、一切のモノ・コトについても、正しく設定することが可能になるというものでございます。

その「二諦」の基準についての詳細をここで述べるには制限字数の関係や煩雑な説明に陥る恐れがあるため、避けさせて頂きますが、是非、これから仏教を学び修されていかれるに際しては、この「二諦」についても意識して修習なされて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

染川様

回答ありがとうございます
善悪の判断があって、心の充実や悩み苦しみ
が生じるものと思っていましたが、
仏教では、善悪の定義が心のあり方によるのですね。

一般的な善悪は人によって違い、経験によって培っていくものだと受け取りました。
歳をとって、色々な経験をしないとわからない
善悪は、あんま考えてもしょうがないですね。
困りました。若いと不利ですね。
一時的なものであれ、幻想であれ苦しみは味わいたくなく、その苦しみは、善悪の判断からくると思っていましたから、苦しみを味わわないと、善悪は判断できない、苦しみは悪そのものなのですね。

苦しみはどこからやってくるのでしょう。。。

釋慧心様

ご回答ありがとうございます。

分別からくる。なんとなくわかる気がします。
良いがあるから、悪いがある。
陰陽は片方のみでは存在しえません。
無分別智について調べ、考えてみます。
不二一元論とは違うものでしょうか?

この世の中で生きていく限り分別からは逃れられず、分別することで世界(幻想)が成り立っているの気がします。言葉とは分別そのものですね。

煩悩に満ちた私の姿=悪=欲や怒り不安は、理想と現実のギャップからくるものな気がします。
理想を持たないことこが苦しみをなくすということな気はしますが、しかし理想はやはり善悪から生まれる気もします。。。
苦しみは善悪の分別から生まれ、善悪の分別は理想から生まれる。理想は善悪から生まれる?
混乱してきました。。。

大慈様

回答ありがとうございます。
3つの煩悩が苦の原因になりそうな気がします。
自我がなければ社会は動かない。
自我を過度に思い煩えば潰れてしまう。
何も感じない、考えないは悪ではないが、善でもないと。悪ではなければ善だろうと思っていましたが、そうでもないともいえますねたしかに。
自我とうまくつきあうバランスを賢くととのえて行くとのこと、なくそうとするのではないのですね。お釈迦様は自我(苦)をなくそうとしていたものと思っていました。
また、他者はいるんですかね?

川口 英俊様

ご回答ありがとうございます。

錯誤について、明確にしていかなければならないこと、理解できます。

二諦が求めていることに近い気がします。
ありがとうございます。

真理のありようを理解することで、モノ・コトを『正しく設定』できるのですね。

真理のありようを学んでみます。

「心構え・生きる智慧」問答一覧

ヘルパーに酸素マスクを外され、、、

母は老人施設で老衰で亡くなりました。最後は点滴も出来ない体になり、息も上がっていたので酸素もチューブで鼻から入れてもらっていました。亡くなった当日面会に行っていたのですが目も開ける事なく、問いかけにも微動だにせず、腕も指も動かない状態でした。途中看護師が「口も開いているのでマスクに替えますね」と鼻のチューブをマスクに替えて退室。暫くしてヘルパーがオムツ交換に来たので退室し、終わったのでと声をかけに来てくれてから再度部屋に戻ったところ、鬼の形相(に見えました)で亡くなっていました。その時は亡くなったという現実で頭がいっぱいで気が回らなかったのですが、酸素マスクが外されベッドに置いてあったということが2日後に気付きました。 葬儀を終えてから施設の方へ挨拶へ行き、その際にマスクが外されていた事も話しました。ヘルパーからは何の報告も上がっていなかったので私たちの話で初めて知ったとの事でした。 マスクがあれば看取れたかもしれない。マスクが外されていたので苦しいまま息を引き取ったのかもしれない。それが悔しくて残念でなりません。ただ、マスクがついていたとしても、命の限りは決まっていたでしょうから、施設やヘルパー個人を責める気は無かったのですが、施設からビデオで確認した所オムツ交換をすると言って来たヘルパーと実際にオムツ交換をしたヘルパーは違うヘルパーである。オムツ交換をしたヘルパーに聞いた所顔には触っていない。オムツ交換をした時にマスクがずれたかもしれない。退室時にマスクの確認はしなかった。と曖昧、ウソばかりであろう報告を受けました。 こちらとしては特に報告をして欲しいと言っていなかったので、逆に気持ちを逆撫でされる報告を受け苛立ちや悔しさ、腹立たしさばかりが込み上げてきています。 施設の言い訳、ウソを聞く度にモヤモヤが増して行きます。事を大きくしたく無いと思っていましたがウソをつかれると言い返したくなってしまいます。この気持ちは時が解決してくれるのでしょうか。気の持ち方を教えて頂きたくお話しさせて頂きました。どうぞよろしくお願いいたします。

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夫にかける言葉や心持ちについて

お坊さんはじめまして。私は三十代半ばの女性です。昨年結婚した三十代後半の夫についてご相談させていただきます。 私たち夫婦に子どもはいません。共働きで円満に暮らしております。しかし最近夫が自身の実家との関わり方に疲弊しているようで、妻として一人の人間としてどういったフォローをすれば良いかわからない状況です。 夫は小学生の頃に父親を病気で亡くしており、母と年の離れた妹と三人の家庭で育ちました。社会人になってからは単身で暮らしていたそうです。 そして今現在は家から車で一時間ほどの距離で義母と義妹(三十代前半)が同じ家で暮らしています。 数年前から義妹の体調が優れず(原因不明)身体に不調が滲み出ており、私から見ても心配になる顔つき体つきをしています。 またその義妹を支えるためか義母も老体にむち打つようにアルバイトをしています。 義妹には義妹の、義母には義母のストレスがあるのだと思います。二人は言い争いが多々あるようです。 そんな二人の板挟みとなっている夫は、息子・兄の立場以上に「亡くなった父親の代わりに自分がなんとかしなければいけない」と使命感があるようで、私から見ると不要な心配や気遣いをして神経をすり減らしているように見えます。 亡くなった父親の代わりに〜というのは夫本人から出た言葉です。 そんな生真面目で優しい夫に惹かれて結婚したのですが、いつかどこかで夫がぽっきり折れてしまいそうで怖いのです。 私自身も病気がちで夫に助けてもらっている部分がたくさんあります。 なので夫からしたら、病気がちで手のかかる妻、日に日にやせ細り見放せば死んでしまいそうな妹、年老いて体が悪くとも働かなければならない母の三者に気を配る生活をしています。でも夫自身は誰にも助けを求めていないように思うのです。 父親と死別した長男というのは、これからもずっと残された家族を守る使命感に縛られていくのでしょうか。夫自身がそのような使命感から放たれる日は来ないのでしょうか。 義母義妹について悩む夫を見ているのがとても辛いです。 なにか私がかけてあげられる言葉や、知った方が良い心持ちがあれば教えていただきたくご相談とさせていただきます。 まとまらない文章で申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

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