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幸せとは

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幸せとはなんでしょうか?

食べる物もなく、生活もギリギリになると幸せとは何かを考えてしまいます
たとえ愛する人が側にいたとして、その人を幸せにすることができるのでしょうか?

お金があり、仕事もあり、家族がある人でも死を選ぶ人もいます

このまま同じ生活がいつまで続くのかと考えると恐怖しか感じません

幸せとは、人生においての希望とはなんでしょうか?

信頼、愛、信仰心があったとしてお金が無いと生活はできません
逆にお金があっても人との繋がりが無い人も多くいます。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

辛さの中にあっても「幸せ」を感じる心です

日々の生活はとても大変です。

何か「希望をもって」とか言われても、
生活に困る現実があれば簡単にそんな気持ちもになれないと思います。

特にお金の心配は尽きる事無く、とくに健康を概しているときは切実です。
どっちを向いても希望を見いだす事が出来ないときも多いかもしれません。

そして心が焦ると大切な愛する人とも言葉の行き違いから喧嘩してしまったり…
なんてこともあるかもしれません。

「この先どうなるのだろう」…当たり前の不安であると思います。

この世において、全ての人は未来なんて全くの不確実なんです。
お金持ちの会社の社長さんでも、明日は会社が倒産して路頭に迷うかもしれません。
家を新築して新車を買って幸せに暮らしていても、一瞬後には大地震で全てが無くなってしまうかもしれません。

そもそも、未来は「ある」という暗黙の了解に過ぎないのです。
不安に思えばキリがありません。

不安は不安を呼び、不安な状況をどんどんと作り出すものかもしれません。
ですので、不安と感じたら不安である自分をまず受け入れて、
今あるもの、小さな事でも今出来る事…を喜びましょう。
「喜び」や「感謝」は不思議な事に福をもたらします。

人は何のために生まれて来たのでしょうか?

私にはそれぞれの人が「自分」が何であるのかを実感するために生まれて来たように思えます。

過ぎ去った「過去」、全く未確定でまだ来ていない「未来」、に惑わされず
「今」の自分を全ての偏見を切り離して感じる事が出来れば
貴方は「自分」という小さな器ではなく、
もっと尊いものであると気づくかもしれません。

そうすると、どんな状況であろうと日々の生活の中に…
そして貴方のその手の中に…
一瞬一瞬の中に…
「幸せ」が目一杯詰まっている事に気がつくと思います。

貴方の心は貴方が思っている以上に
遥かに大きく…深く…。

追記:もしもあなたが少しでも自分の中に仏を感じれた時、今までのどんな時もあなたは常に仏と共にあり、さらにいえば仏であった事に気がつくと思います。気づくと気づかないとの差は実は小さいようで大きいのです。
(私は真言密教で修行をした僧ですので、申し上げる事は他の宗派とは違うと思います)

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有り難し
おきもち

仏道に入門して39年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...
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幸せ=仏になること

私たちはよく『○○が叶えば...』 とか『○○になれたら...』と幸せの定義をします。
しかし、実際その希望が叶うと幸せにはなれていない自分に気づきます。
また新たな欲求が生まれその欲求に縛られていきます。

『幸せ』な状態とは夢叶うことが確定している状態なのです。
例えば、大学受験を終えて志望大学の合格通知が届いてたとき。
恋い焦がれた女性との結婚が決まったとき。
など、まだ私の夢が叶った訳ではないけども、叶うことが確定しているとき、それが一番幸せなのです。
実際、大学に行けば悩み、結婚をすれば悩むものです。

ここからが仏教の話です。
仏という存在は何一つ苦しみがない存在です。
そんな仏になりたいと乞い願うのが仏教であります。
であるから、仏になれることが確定している状態を幸せといいます。
また、仏になれたならば一切の苦悩は無くなり、自在な存在として遊ぶが如くに利他行を修する身となります。
この仏になることこそが最上の幸せなのであります。

お金は仏になる事と全く関係がないので、あってもなくてもいいです。
生活を金銭的に豊かにすることは大切ですが、それはあくまで気分転換程度のものです。
そこだけを追及しても本当の意味での幸せにはなりません。
いつか空しく命終えるだけです。

追記:つまり習慣さんは、空腹を満たすこと(欲求を満たす)=幸せということですね。
それは至極当然のことであり、全く否定するつもりはありません。
しかし、「空腹→食べる→満たされる→・・・・」この先には何があるでしょう?
行き着く所何も変わらないのです。
むしろ、もっとおいしいものが食べたいとか、食事なんてどうでもいいからもっと別の・・・と欲求が大きくなっていきます。

確かに、「輪廻する」と言われても私の知ったことではありません。
だからこそ、お釈迦様はしっかりとお説き下さいました。
そのお話を聞くためには体調を整える必要があります。
空腹は満たさなくてはいけないし、よく寝ていないと話など聞けません。
だからお金は気分転換に使うぐらいのものですとお伝えしました。

人によっては幸せの定義が違いますが、仏教では統一されています。
「幸せ=仏になること」です。
私はここで個人的な想いや道徳を述べるつもりはありません。
ただただ仏教のお話をさせて頂くだけです。

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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
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究極的な幸せを目指して

習慣様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

世間における「幸せ」というものは、大抵の場合、何らかの欲望を満たすことによる「幸せ」と言えるのではないかと存じております。また、それらの幸せは、相対的な比較判断・価値判断にて成り立つものであり、人それぞれにおける個人的な価値観、認識の問題もあり、「これが幸せです」とはなかなか決めれないものでございます。

もちろん、仏教もある意味では「幸せ」を求めるための教えでございますが、その「幸せ」は、私たちの欲望を満たすような世俗的な意味合いでの「幸せ」ではなく、「涅槃・悟りの境地」という「究極的な幸せ」を目指すものであり、世俗的な幸せとは全く次元の異なるものとなります。

「信頼、愛、信仰心があったとしてお金が無いと生活はできません」・・もちろんです。先立つものは当然に大切ですが、要はその使い方を誤らないように日々の行いをより善くに調えていかないといけないということになります。

「幸せ」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますので、是非ご参照下さいませ。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/幸せ

『・・「幸せ」もそうですが、自分一人では生きていけないように、幸せになるためにも自分一人では到底幸せになることもできません。私たちは無数の関係性の中で有り難くにも存在できているのであり、様々な関係性をより善くに構築していくことが大切となります。そのためには、例えば謙虚さや感謝の心を養うのも必要なことになるのではないかと存じております。・・』

「・・この人生での良い報い、良い結果を求めたいのであれば、やはり、そのための因・縁(条件)が必要となります。何もその因・縁を積まずにして、どこかから良い報い、幸せが勝手にやってくるわけはありません。種も発芽するには、水や光や養分やと発芽のための因・縁が必要であり、種だけで水や光や養分などの因・縁無しで発芽という結果が生じるものではありません。幸せという芽を出すためには、それなりの因・縁が必要であり、仏教では、それこそが「善い行い」となる次第でございます。・・」

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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煩悩だと思えません

お礼に書かれてある、この部分です。「、、、これから先も食べたい、寒い思いをしたくない
これを求める事も煩悩になるのでしょうか?」

これは、空腹という苦痛、寒いという苦痛、です。怪我をしたら治療をするように、苦痛を取り除く努力をすることは、煩悩ではないと思います。なので私も、「その場で食べ物を渡される、食べ物を買えるお金を貰える方が幸せだと感じます。」

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ご返答ありがとうございます。

幸せの定義は人それぞれですね

ですが、例えば今食べる物が一切無く何も買えるお金も無いとして
飢餓に苦しんでいるときに人は信じる物があれば救われるのでしょうか?
少なくとも私はその場で食べ物を渡される、食べ物を買えるお金を貰える方が幸せだと感じます。

生きたい、これから先も食べたい、寒い思いをしたくない
これを求める事も煩悩になるのでしょうか?

例え私が死に、輪廻が回り、仏になろうともそれは私であり私ではありません。

苦痛がないとは?
仏に成りたいこれも欲求ですよね?
それでは全てが叶った状態それが仏ならば、仏になった状態、それは無と一緒ですよね?

「幸せとは・幸せになりたい」問答一覧

幸せな時期が来るのか不安です。

まず私のこれまでをお話しします。 特に大きな幸運、不幸なく大学まで卒業。 26歳で結婚、28歳で娘が誕生。 31歳で2人の子どもを妻が妊娠するも同時期に大腸癌(ステージ4)が発覚、治療に専念するために子どもは流産、35歳で妻が他界。 38歳となる今年1月にお子さんが2人いる方と婚約、その直後に婚約者が妊娠、4月に結婚、9月に離婚したいと言われる、1月に離婚予定となっています。赤ちゃんは再婚した方が育てます。 離婚理由は再婚した方と私の娘の不仲で、再婚した方が生理的に受け付けれなくなってしまい離婚を言われました。 再婚した方と赤ちゃんか、私の娘かの選択に迫られました。一度愛した方への責任と親としての責任で悩みました。赤ちゃんにはどちらになっても親と暮らせます。しかし私の娘は私しか親は残されていませんので、私が再婚した方を選ぶと親と暮らせなくなってしまいます。私の娘への責任を取り、離婚を受けました。 20代はとても幸せでしたが、30代になって不幸が続いています。再婚という幸運を感じた時期もありましたがすぐに離婚と不運がやってきました。 来年は39歳となり40代が目前となりました。 人の人生は良い事と悪い事の繰り返しだと思っていますが、今40代に幸せがやってくるのか不安です。 最近、不幸な状況から仏教に出会い、まずは欲まみれの自分に反省して、嫉妬や妬みを減らすように心がけて、心を落ち着かせれるように気をつけています。 結婚できただけ幸せ、子どもがいるだけ幸せ、赤ちゃんが無事に産まれただけ幸せ、仕事があるだけ幸せと思うようにもしています。 しかし、ふとした瞬間に辛くなります。 何か状況を好転もしくは心が安定できるような考え方はあるのでしょうか。

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幸せになってはいけない気がしてしまう

たびたび母との関係で相談させて貰っているものです。 私は母との共依存関係であります。一人暮らしをしていますが、精神的な分離がまだまだな気がしています。 それが関係あるのか、ないのかわかりませんが、自分の幸せが考えられないです。 本当は自分自身の家族を持ち、幸せな家庭を作ることを私は望んでいるんですが、親にはそうした結果は望まれていないような気がしています。 そう感じたのは、母とのやり取りで、母はことあるごとに帰ってきて欲しいというサインを出します。また私が結婚願望を口にするといい顔せず複雑そうな様子を見せます。 親なんて気にせず自分自身の幸せを考えたらいい、期待するからダメなんだ、親にわかって貰おうとか期待しないようにしようと思うのですが、どうもうまくいきません。 子供の幸せが親の幸せなんていいますが、母は私と二人いつまでも仲良く協力していければそれでいいみたいな感じです。 私は申し訳ないが、そんな人生しんどいんです。今まで母が私を育ててくれたのは感謝しますが、私には私の人生がある。 だから一人暮らしもして、共依存から離れようとし、親に期待しないようにと考えていましたが、心のどこかにわかってもらいたいとか、よくわからないモヤモヤしたものがあります。 こうした気持ちはどうしたらなくせるのでしょうか。幸せになりたいんですが、若干怖いような、なれるんだろうか?というような気持ちもあります。 いつまでも何かが心の中でストッパーのような苦しさがあります。 ちなみに父とは離婚しており、母一人子一人の状態です。 ご意見頂けたら嬉しいです。

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どんな境遇でも幸せでいるためには

前回の質問から自問自答するなかで、 生きると決めたからには幸せでいたい。 幸せは伝播する、寄ってくる。 自分が幸せなら周りも幸せ、逆も然り。 不幸でいると段々と人が離れていくから幸せでいなければ。 という1つの考えに辿り着きました。 話は変わります。 今まで生きてきたなかで、本当に幸せだと思える人が3人いました。 彼女達は共通して 両親とも学がありお金持ち、家族仲も良く、立派な進路に進み、文武両道で才色兼備、美人で性格は優しく謙虚で真面目で努力家、天真爛漫で素直、とても思いやり深く、どんな人にも分け隔てなく接することができ、老若男女問わず会う人会う人皆から好かれていました。 いつも輝いていて災難に遭うこともなく、1度も彼女達の口からネガティブな言葉を聞いたこともありません。 10代の頃はそんな彼女達をみて、一緒に居て癒され元気を貰いつつも、恵まれてて羨ましいとどこか冷めた瞳でみていました。 また、彼女達のことは好きでしたが自分が辛い時期に彼女達に会うと比べて惨めさに襲われるので疎ましく思う気持ちもありました。 ですが、色々な辛い経験をしたり辛い境遇にいる人達をみてきた今は、自分の周りに不幸と思えてしまう人達が目に入りやすいなか、彼女達のような存在がいてくれることで、「生きている皆が皆不幸になるわけじゃない、ちゃんとこうして幸せに暮らせてる人達もいるんだ」と安心することができます。そして、私も出来ることなら彼女達のようでいたい、とも感じます。 何が起きるか分からないのが人生。 心身とも余裕がある時、経済的・社会的に安定している時は幸せでいることが比較的容易であると思いますが、そうでなくなれば幸せを感じることは至難の業だと思います。 ですが、彼女達は日々の苦労や辛い経験もしているのにも関わらず、そんな時でも幸せそうです。 初対面でも苦労や不幸オーラを感じる人がいる一方、彼女達はそれらを感じさせない何かがあります。 不思議と彼女達が不幸になって将来困っている姿も全く想像できません。 彼女達には生まれ持った才能?強運?幸運遺伝子?のようなものが備わっているのでは、という気さえします。 そこで質問なのですが、どんな境遇にいても幸せを感じれる人はいるのでしょうか。またそのようになるにはどうしたら良いのでしょうか。 お坊様方の智慧をご教示いただけますと幸いです。

有り難し有り難し 12
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自分だけ幸せでいいんだろうか

 いつもお世話になっております。私は、「自分だけこんなに 幸せでいいのだろうか」と思っています。  それゆえに、わざと刺激の強いメディアに接したり、SNSを 見てしまったりして体調を崩し、また「自分だけry」という 悪循環になります。  私は、祖父母の遺産を相続して18の若さでアパート大家に なりました。それ以来、人間関係で難儀をすることも多々 ありますが、基本的には不自由なく過ごせています。  しかし世の中には、この国でも、大学へ行きたくても 行けない、家族からの暴力、研究費が足りなくて病気の 研究ができない、などといった問題があります。  私は発達障害ですが、健常者さんのほうが生きづらいの ではないかと思っています。私たちは、保健センター、 相談支援事業所、病院など、様々対応していただける場所を 知っています。専門外であると判断されれば、他所に繋いで いただくこともできます。  健常者さんは、暴力に遭ってもどこに相談すればいいかわから ない。病気の症状が出ても、病院探しが大変。学校へ行けなければ、 断念しなければならない。  私たち発達障害者だけが、「生きづらい!」と主張する のは、非常にお門違いです。  私のアパートの管理会社のお兄さんも、残業残業で体調を 崩してしましました。 「会社は守ってくれない、自分で見切りをつけるしかない。 僕らは営業の駒でしかない」 という言葉が印象に残っています。  私は毎日コンビニに行くたび、教育基金などに10円でも 100円でも寄付をしています。就労したら、医科大学にある程度 まとまったお金を寄付するつもりでもいます。  環境団体にはしません。胡散臭いところが多いので。  お金だけでなく、けがをした人がいたら、去年取得した 普通救命の資格の知識の元応急処置、小さなことでは、 お子様連れに道を譲るなどしています。  不幸になりたいわけではないのですが、もっとたくさんの人が 幸せになればいいのに、なんでこの世には不幸な人がいるんだろう、 と思うとしんどくなるのです。

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幸せな人生とは

高校生の時に人生が辛くなってしまった際、このサイトを利用して救われた経験を思い出し、大学三年生になった今また利用させていただきます。 私は現在、絶賛就職活動中です。 そこで自己PRや自分史について振り返る機会が多く、これまでの人生において私は明らかに才能やセンスがないものの、両親の考える基準が学問・スポーツ全てにおいて高かったため、体力と忍耐で才能と目標の間にあるかなりのギャップを埋めて来たことに気づきました。 求められるレベルが高く、でもそれが標準であると刷り込まれているからこそ、周りの人にダメな自分を見せることができず、常に余裕のある人物であるように装って来た人生でした。 そして今就職活動に取り組むにあたり、これまで世間一般的にはエリートとされる人生を歩んできて、その過程では両親にたくさんのお金をかけてもらったからには、高いお給料が発生する職業に就かなくてはと思う反面、本当に優秀な学生をたくさん目の当たりにして、この学生たちに追いつかなければならないだけでなく、追いついた先にも優秀な社会人がたくさんいる中でまた頑張らなくてはいけないと思うと、終わりのない努力に対して自分がついていける自信が全くありません。 ですが、特に将来やりたいことがないので、無難に大手企業に就職して経済的に安定した生活を送ることが最善な策であると思っています。 でもやはり、できない自分を受け入れずにできる自分を一生追い求められる自信も気力がありません。 長々と書いてしまいましたが、就職活動や仕事に取り組むために、劣等感に駆られて足掻く以外の方法で人生のモチベーションを上げる方法は存在するのでしょうか。 それとも、努力をしないで楽をする代わりに、できない自分と(言葉は悪いですが)金銭的に低レベルな満足度の生活を受け入れるべきでしょうか。 どちらを選べば私は幸せになれるのでしょうか。

有り難し有り難し 6
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自分で自分を幸せにする言葉下さい

夫が鬱かもしれないらしいです 心療内科に行き鬱のチェックリストで60点中39点で鬱っぽいと診断されたそうです 結婚歴は13年で子どもは3人います。 夫は、家族を捨てようとしたことがあります 後から聞いたら、そんなつもりはなかった、あれは冗談みたいに言ってました 普段の家族仲は良いです 最近、私が正社員で働き出し 今までは家の事メインでしたが、最近は仕事がメインで資格の勉強もしてます 夫の元気がなくなったのが、私が働き出してからです 夫も自分の仕事の資格の勉強してるけど、私が先に合格したら 本当すごいね、今も全部やってるし、俺いらないねと言ってきました 昔、家族を捨てようと出ていこうとしたときと同じセリフなので、凄く怖いです 当時は夫が事故で入院したり借金があったので 私が昼間は育児家事、深夜に働くという睡眠時間1日3時間くらいの日々を送ってました 今もそうだけど、当時もそんな生活を永遠に続けても大丈夫と思ってないです。 一時のことだからと思い、頑張ってて 私が頑張ってたときに出ていこうとしたときは、本当に心が壊れて、 正直何年か鬱っぽかったです。 でも、そういう私の辛さはみてくれません いつも自分のことばかり心配で大事で こっちだって死にたい気持ちに何万回となってます 私が一人で養っていくほどの経済力はありません 夫が死んでくれたら生命保険あるので、 死別でしたら、一人でも子ども達を養っていけます でも、この結婚生活の中で死にたいとか言い出すのしょっちゅうあったけど 死のうなんてしてないです 死ぬ死ぬ言いながら絶対に自殺しないタイプだと思います 結婚生活の安定がほしいです 安定してた時期も長くありますが、 前の出ていきたい宣言から7年経ってのこれです 私が、転職するまでは、夫のこと気にかけたりしてしょっちゅうデートもしてましたが 今は時間がなくてしてなくてもう大丈夫だと思ってました、 夫がまたこじらせることはないって 少しくらいこじらせたとしても、家族に対してはゆらがないだろうと思ってました 私だって、家族捨ててどこか一人で遠くに行きたいって思ったこと沢山ある なんで夫はそんなに自分が一番大事なの 鬱の人に頑張れって言っちゃいけないらしいので 夫に私の思い何にも言えないです。 あんただけじゃなく、こっちだってすごく辛いこといっぱいあったよ!って

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誰かを幸せにしたいのに何もできません

私は幸せを感じるのが苦手です。 いい音楽やきれいな夕焼け、四季の風、おいしいごはん、家族との対話。 そのすべてに対し申し訳ないと思い、罪悪感でいっぱいになってしまいます。 休日は時計を眺め、80で死ねるとしてあと○○時間だ…と考えることしかできません。 しかし私が今自殺すると、両親や会社の仲間、友人、その他の迷惑になってしまうので、本気で死のうとは思いません。でもこれも甘えかもしれませんが。 . 本題に入りますと、自分が幸せになるには誰かを幸せにする事、そうすれば自分も幸せになれると聞いたことがあります。 なので仕事を頑張り、他人の嫌なところが見つかったら3倍は良い所を見つけ伝え、愚痴をこぼさず、向上心を持ち、 不快にさせないよう言葉は選び、苦手な人を作らないように全力で生きています。普通の人の全力には程遠い、甘えたどうしようもない出来損ないの全力ではありますが… それで、今自分の気分はどうかというと、1秒でも早く死にたい、産まれてきたことを償わないといけない、その二つがほぼ全てです。 自分の中に幸せだとか、生きていたいとか、そういう感覚は一切ないです。 感謝の心を大切にと、「ありがとう」と事あるごとにいっていますが、自分の中の産まれてきたことを謝罪しろが、 生きていてはいけない、でも迷惑をかけて死んでもいけない、だから自分は今も罪を重ね続けているといった感覚が襲ってきます。 . 本題ですが、私はこれからどうすれば他人を幸せにできるのでしょうか? 肉体労働でも、寄付でも、その人をほめるでも、その人のことを考えたプレゼントでもなんでもやります。寧ろすでに相当やっています。 それでも一切幸せは感じず罪悪感が募るばかりです。 何かいい方法はないのでしょうか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ