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「仏教・お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

2023/12/26

阿弥陀如来の存在を確信できません

浄土真宗の方におうかがいいたします。 私は浄土真宗某派の門徒で、すでに法名もいただいております。 代々の門徒の家に生まれ、お経と言えば正信偈でした。 しかしながら、阿弥陀如来の存在を確信することができません。 人間を超えた大いなる存在があり、それによって生かされているということはしばしば実感し、そうしたときは感謝の念が自ずとわいてきます。 しかし、それが阿弥陀如来だ、と言い切れるかというとそうは言えないのです。 必ずしも阿弥陀如来でなくてもいいのではないか、という気がします。 大いなる存在は感じることができても、「法蔵菩薩であられたとき・・・」「四十八願を立てられ・・・」「西方浄土におはします・・・」と物語が始まった途端に、あまりの非現実さに白けてしまうのです。 現在の文献学の認識では、浄土三部経はゴータマ・シッダッタ様が直接に語ったものではないというのが、定説だと思います。 キリスト教がキリスト教たり得るのは、預言者イエス・キリストに近侍し、その言動と奇瑞に直接に心を揺るがされた弟子たちの福音書があるからだ、と考えます。 阿弥陀如来は、誰が、どのようにして見出されたのでしょうか。 別の言い方をすれば、浄土三部経は、誰が、どのように阿弥陀如来の存在を感得して、編まれたのでしょうか。 誠に不躾な質問で恐縮ですが、私にとっては根源的な問題なのです。

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2023/12/17

浄土で人はなにをしているのか

我が家は浄土宗ですが、私は必ずしも浄土宗の教えがしっくりきません。 後世安穏、往生安楽国という表現があります。死んだら極楽浄土に行く、というのですが、じゃあ浄土では安楽にのんびりと暮らすんでしょうか?何も苦がない世界では何をしているんでしょうか?それはとても退屈で飽きる生活が延々と続く事ではないかと悩みます。 解釈が間違っているかも知れませんが、私は最澄さんは「生きていることそのものが菩薩行だ」と言われたように思っています。だから日々、観音経を唱えるのは「自らもかくあれ」ということだと思って唱えています。 でも生きている間には私たちは菩薩の域には到達できません。となれば、死んでからも菩薩になるための修行をするんだと思っているのですが、すると浄土では何をするんでしょうか。地獄についてはたくさんの絵も説明もあります。しかし、極楽世界といわれるところで、私たちはどのような生活を、どのような思想的な深みを目指す営みをするのでしょうか。今が苦しい、その救いとして安楽な浄土があるという理解ではどうしても納得がいかないのです。 浄土で、私たちは何をする覚悟をもって旅立てば良いものでしょう。

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2023/12/06

御真言と印 素人が間違えてしまったら

御真言と印について、お尋ねさせていただきます。 先程、無知なのに、誤った印で御真言を唱えてしまいました。 以下にいきさつを書かせていただきます。 この場合の対処を教えて頂ければ幸いです。 —————— 先日、お隣の人から心無い事を言われてしまいました。詳細は割愛させていただきますが、それは、明らかに相手からの悪意(私へのコントロールできない嫉妬心のようなものだと思います)が滲み出てしまった言動でした。 私の方は、お陰様で冷静に対応させていただきましたが、相手の悪意(厄)を被ってしまったので、どうしても抑えきれない悲しみ、怒りが残ってしまいました。こういう時は忘れることに努めるのみですが、相手が隣人であったため、物音などで気配がわかってしまうのです。 そこで、藁にもすがる思いで“厄除け“を検索してしまい、不動明王の御真言と印についての記事に辿り着きました。無知な私は、左右逆に印を組んで無心に御真言を唱えてしまいました。 そのあと、素人が印を組むものではない事を知り、なので、“ごめんなさい“という気持ちと共に、再度合掌で同じ不動明王の慈救咒を唱えさせて頂くことにしました。 気持ちが落ち着いてから、色々と不動明王のことを調べていて、先程の自分の行為を反省しました。 実家は仏教と神道です。わたしは1人海外に住んでいるため、近くのお寺へお参りに行くことができません。御真言などを唱える習慣は皆無でしたので、今回の私の行為は浅はかなことだったかもしれません。 間違った印と御真言を唱えてしまった場合、どうすれば良いでしょうか。 何卒よろしくお願い致します。

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2023/12/02

科学と宗教の棲み分け。仏教は科学否定?

 いつもお世話になっております。  ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、 「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」 「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」 と言われました。  私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、 神主さんからこう言われた、と伝え 「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」 と尋ねてみました。  「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」 と言われました。 「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう 気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」 と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する 学問だと言われました。同時に、 「みんな、科学に期待しすぎ」 と。  精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが 「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。  以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、 「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」 とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、 というようなことだとご説明いただきました。  しかし、世の中の人は、 「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」 とあらゆる事に惑います。  科学は、 「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば 怖くないよ」 と人々に教えてくれます。  そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、 (例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。  こちらのお坊様も、 「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」 「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」 とおっしゃいます。  時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を 見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。  ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、 神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう としない人よ」と言います。  実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教 だと思いたくないです。  

有り難し有り難し 14
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2023/11/18

真言を唱えたいのですが

1.私は、不安に弱い人間なのですが 自分を勇気づける為に不動明王様の真言を 心の中か口で唱えてみたいと思いました 不安は自分自身の心の問題なので 別にご利益が無くてもいいのですが (正直、あったら嬉しいです) 僧籍ではない、お経すら覚えていない 私が唱えても失礼にはなりませんでしょうか? 罰が当たったら怖いなと思ってしまいます。 2.仮に問題がないといたしまして 暗記せずに、調べた真言を見ながら唱えるような形でも失礼にはあたりませんでしょうか? そして印は組んだほうが良いのでしょうか? 組まないほうが良いのでしょうか? 3.不動明王様の真言を唱えるとして (仮の話に仮を重ねてすいません) 自宅の仏壇には十一面観音様を祀っているのですが やはり身近の観音様の真言も唱えた方がよろしいのですよね? そもそも観音様の真言は唱えてもよろしいのでしょうか? 4.いずれ愛染明王様の真言も唱えたい 近所のお寺さんが愛染明王様を祀ってて 自分自身も幼い頃や今でもお参りをしたり 除夜の鐘を叩いていたりしたので 可能であれば唱えたいと思うのですが よろしいのでしょうか? ちなみに何故、不動明王様の真言を唱えたいかと申しますと 昔から、家族がお世話になってる、お参りしてるお寺さんが 不動明王様を祀られているのと酉年の守護なのとカッコイイからと思ったからです。 拙い文章に加え、仮の話に仮を重ねてで 申し訳ありませんが お答えいただけると幸いです。

有り難し有り難し 9
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2023/11/12

住職さんが怖かった

生前沢山可愛がっていただいた親戚のおじいちゃんが亡くなり、葬儀に参列して来ました。その時の住職さんが怖かったので、相談させてください。 先日、親戚のおじいちゃんが亡くなったと連絡が入り、ショックでした。 お葬式の時にきちんとお別れしよう。と思い、お寺に向かいました。 お寺に付き、葬儀が始まりました。住職さんは真っ赤な服を着てだるそうに部屋に入ってきました。服が真っ赤だった事も驚きですが、あまりにもだるそうでしたので、「お疲れなのかな…?」と思いました。 住職さんは部屋に入り、遺族や参列者にお辞儀もお話もなく、一直線でお焼香台へ行き、お焼香をし、そのまま葬儀が始まってしまいました。普段お世話になっているお寺では、葬儀が始まる前に住職さんから一言挨拶が必ずあったので驚きました。 その後、滞りなく葬儀は進み、住職さんから「お焼香。」と一言あり、遺族の方がお焼香台へ向かいました。コロナ禍でお焼香は遺族だけに絞るお寺もあると聞いていたので、私達は行っていいんだろうかと他の参列者の方とソワソワしていました。そしたら住職さんがお経を読むのをやめ、「何してるんですか?続いてください。」と怒ったように発言し、怖かったです。 その後、何とかみんなお焼香を済ませ、住職さんから「これで葬儀は終わりです」などの言葉はなく。黙って座った状態で恐らく葬儀が終わりました。喪主が え? という風にキョロキョロしてると、住職さんが「ご挨拶。あるならしたら。やるなら今やって。今しか時間ないよ。」ときつくいいました。喪主が「孫から祖父に向けた挨拶もあるのですが…」と伝えると「は?なに?」とすごく大きな声で聞き返し、喪主の人がもう一度伝えると「それ必要?」とバッサリ… 結局お孫さんからの挨拶はなく、喪主が手短にご挨拶をして終わりました。喪主がお話している時、住職さんはいそいそと片付けをしていました。 その後、四十九日法要も続けてやったのですが、その時の住職さんの服装もミントグリーンのすごく派手なものを身に付けていました。 お疲れだったのかもしれません。でも、最後のおじいちゃんとのお別れが台無しにされたようですごく悲しかったです。 このような方が住職でいいのでしょうか? また、法要の際に住職さんが派手なお色の服を着ていいのか。法要ごとに服を変える決まりがあるのか。気になったので教えて頂きたいです。

有り難し有り難し 24
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