多くの宗派では、般若心経の「色即是空(しきそくぜくう)」を唱えますが、そうは言っても、この現実世界を生きていくにはお金は絶対に必要ですよね。それに煩悩が全く無い状態の人っていうのは廃人ですよね。
それを考えたら、浄土真宗が最も現実的な宗派ではないかと思うのですが、お坊さん方(がた)の見解を教えて下さい。
おまけ。以下ポエム。
ナムアミダブツ
念仏して、無我を維持する。
少欲知足。
ノーリスク・ノーリターンで満足する。
安全、安定、安心。
中庸(ちゅうよう)
ほどほど人生
ほどほどに喜び
ほどほどに怒り
ほどほどに哀しみ
ほどほどに楽しむ
自利利他円満
利己も利他もほどほどに。
バランスのとれた人間性
お坊さんからの回答 6件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まず、空の話ですが、私とは他宗ではありますが浄土真宗さんふくめ、日本にある仏教は大乗仏教の流れを汲んでいる以上、空の思想は前提として採用されています。
空というのはめちゃくちゃ短く言うと、“関係性によって性質が決まる”と言うようなものなので、お金がいるいらないということには残念ながら関係がありません。
それに、生きていくのに必要なものは“衣食住”であって、お金とはそれを手に入れる手段の一つに過ぎません。
次に煩悩の話ですが、ここに私は“捨”と言う文字の勘違いが含まれる、と考えています。
結論から申し上げますと、“捨”は“無くす”と言う意味ではありません。
“中心から外す”と言う意味に近いのです。
なぜこのような意味の齟齬が生まれるかを説明します。
現代日本において、“捨てる”とは大まかにゴミ捨て場に置くことであり、そのゴミは収集され、二度と見ることはないでしょう。
しかし、この文字の作りは『建物(舎)から出す』というモノです。
家とは建物と土地からできており、古来、排泄物や生ごみは捨てた後も自分の敷地の中にあったわけですね。
つまり、『煩悩を捨てる』とは『煩悩を心の中心から外す』という意味であり、『煩悩を無くす』という意味ではないのです。
ちなみに、日蓮宗にも『煩悩即菩提 生死即涅槃』という言葉があり、『煩悩と悟りが裏表であり、煩悩があるからこそ悟れる』ということに言及されていますし、調べつくしたわけではありませんが、他の宗派も『煩悩を完全に消せ』と主張している宗派は寡聞にして存じ上げませんので、法華経やその他の経典もお読みになると面白いと思いますよ。
こんにちは
私は曹洞宗ですが、私は曹洞宗「も」現実的で実践的な宗派だと思っています。
あなたがご自分の信仰を大切にする事はとても大事なことですが、ご自分の信仰「だけ」が「最も」正しい/現実的だと考えたり、それ以外の信仰は全くダメなものと悪く言ったり認めなかったり攻撃するような考えは、私は正しい信仰の道とは言えないと思っています。どうぞご精進下さい。
実は浄土真宗にもさまざまな学派があります。
真宗十派のうち、しっかり浄土をたてて、浄土真宗の名乗りをされている本願寺派さん。
他の九派は真実を宗として真宗〇〇派と名乗っていますね。
私はどっちの立場も理解できます。
私の考えでいうならば、ひろきさまとの区切り方とは異なりますが、真宗は窮屈な一面もありますよ。
御守り売っちゃいけません。
現世利益アピールしすぎちゃダメです等。
マネタイズへの価値転換を思うなら、他宗の方が現実の経済活動とうまく折り合ってる印象があります。
ひろき様が仰せのようにリアルな強みもあると思いますが、アドバンテージがあったのは親鸞聖人の時代です。
他宗が山で籠っているときにストリートに降りてリアルな煩悩と向き合う強みがありましたが、今はどの宗派も街にあります。
むしろ、専業僧侶より他の仕事をもつ僧侶の方が現実的かもしれません。
あるいは、伝統的宗派より仏教インスパイア系の集まりの方が現実やマネタイズとうまく折り合いつけてる印象はあります。
空と唯識は、火葬後の血と汗と涙の往き先の説明に使えないか検討中です。
ポエムいいですね。
僕的には
念仏はローリスク
弥陀のはたらきハイリターン
と感じるようになるといいなと思って毎日生きています。
貴重なご指摘ありがとうございました。
+++
お返事ありがとうございました。
一点だけ誤解のないようにお伝えします。
真宗は凡夫が救われる教え。
どなたが師匠かはわかりませんが、念仏のレベルに高低はありません。
それでも高低どちらかというなら、山やピラミッドの頂ではなく、如衆水入海一味。
上から下にさがる教えです。
希望が叶うなら、高みを試す質問より、下に潜る深さ、深淵の闇を照らすディープな質問の方が真宗らしさが滲むかと思います。
お釈迦様は煩悩を無くされましたが、廃人にはなっていませんね。
梵天の求めに応じて40年以上布教の旅を続けたあのエネルギーは、廃人どころか超人だと思います。
ご自身の死期が間近の病床でも、やって来た弟子入り志願者と面談しています。
お釈迦様は悟った後、欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩ために活動するのではなく、慈悲の心で活動されたのだと思います。
私達はこの世で煩悩を消すのは難しいのですが、極楽浄土で煩悩を消せば良いのだから安心ですね。
世間で広まっている般若心経の「色即是空(しきそくぜくう)」の解釈の中身のないものを掴まされてしまったようですね。
実際にそういう解釈・捉え方しかできない人も多いので仕方ないと思いますが、色即是空とはそういう虚無的なものではありません。はい。ホントに。
虚無的で廃人的な世界観だと思っておられるようですが、色即是空は超現実的な観点なのですよ。
お金だって絶対に必要です。
お金を持つことの超現実的な視点が色即是空なのです。
( ˘ω˘ )ハイ、今月の給料。
(´-`*)ありがとうございます。
貰った瞬間、貰ったことを忘れてる。色即是空。
(´-`*)やった!給料だ!
オレのもんだと思っていても忘れている時は持っていながら所有意識もオレのもの意識も持っていない。
今も財布の中身忘れてるでしょ?それが色即是空です。
使った瞬間、誰のものでもなくなる。
色即是空。
カネがあっても無くてもこれをみているときは忘れてる。色即是空です。
何を見ても聴いても残り物なきこと鏡の如し。色即是空。
お昼に何を食べたかそれぞれもう忘れてるでしょう。色即是空。
当たり前だの右ストレートも貰った瞬間にパンチは顔から離れているでしょう。
色即是空。
煩悩とは欲ではない。煩わしい、悩ましい思いのこと。
生老病死もあってもアリながらそれを忘れている時は忘れているでしょう。
色即是空。
念仏も坐禅も「人」の我がやるのではない。
廃人も活動家も同じ目にものが移り、音が聞こえて、呼吸して、食べて、生活して何を思えど障りなき事、心穏やかなるときは水に文字を描くがごとし。色即是空。
浄土真宗のお念仏も念仏ながらに色即是空。色即是空にして空即是色ながらのお念仏。我を忘れて、自分が何宗かなんて忘れてコンビニやスーパーに入って買いを物している。念仏ナイズされながらの生活。色即是空ながらの生活。
同じことです。
色即是空とはものの実相。物事の本来の様相。人間の見解を離れた人間の私見を超えた無我になるとならざるとに関わらず元々の法相を色即是空という。そして、それを弁えるためには念仏であっても良い。坐禅であっても良い。真言であっても良い。阿字観・止観であってもよい。修験道であっても良い。作務であっても良い。これを読んでたった今の自己の事実を見つめる中で弁えればそれも宗教宗派を超えた生きた念仏であり、色即是空の生きた体現です。
現実的でなければ
今の時代まで残っていなかったでしょう。
私は
たまたまの御縁で浄土真宗僧になりましたが
他の宗派では合わなかったかも…と思うので
浄土真宗で良かったと思っています。
様々な回答を下さり、有り難う御座いました。
最近、心境の変化が有り、もっと高レベルな質問をさせていただきます。
誠に有り難う御座いました。