曹洞宗(そうとうしゅう)。
人生を無欲で逃げ切る。
仏教的には、いかがでしょうか?
無我の境地を体得しました。 曹洞宗(そうとうしゅう)に則って(のっとって)、無我の境地を目指して坐禅(ざぜん)していたら、本当に、無我の境地を体得してしまいました。 よって、私には、本当に煩悩(ぼんのう)が有りません。煩悩が無いので、悩みも有りません。 普段、自由な時間は、NHKを視聴したり、読書したり、囲碁や将棋の研究をしたり、散歩をしたりするだけで、幸せです。 曹洞宗(そうとうしゅう)。 坐禅(ざぜん)して、無我に成る。 無為(むい)を生きる。 解脱(げだつ)した人生。
無我の境地を体得したので、煩悩も悩みも有りません。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「人生を無欲で逃げ切る」ですか。
逃げ切るというより無欲で何事に処しても穏やかに過ごすということであれば、いいことだと思います。
別に逃げる・逃避するという必要もありません。
隠遁という言葉もありますが、僧侶たちも別に世の中から逃げているわけでもないでしょう。
あるいは遠離というお釈迦様、道元禅師の言葉もありますが、厭離とは異なり、どこに処していても心がそれに毒されない処し方が遠離であり、楽寂静という教えです。
(『八大人覚』より)
言葉が不適切であると何でもかんでもそれに結び付けることがあります。
後輩の修行僧さんは気が強くイケイケさんでしたが、斜に構えて何事もドライに物事を見る傾向にありました。言葉に騙されてしまうところがあるのです。
ある時、典座老師のやることに対して「自己満足じゃん」という言葉で悪く言っておりました。
何をなすにも自己満足だ、自己満足だ、と。わかったように言葉で囲いを付ける。
今でいえば、自分を愛するとか自己肯定感とか承認欲求ぐらい人を心理トラップに追い込むフリーズフレーズでしょう。
こういう言葉に縛られると人は成長がない。向上がない。
「( ゚Д゚)小次郎破れたり!」
「(´-`;)…?ナニ?」
そのぐらい暗示にかかってしまうのでしょう。
(; ゚Д゚)…天下無双…!
('Д')天下無双?そんなもんはことばぢゃ。
別に老師がやっておられることは自己満足ではなく、それを通して喜んでいただこうとする喜心・老心・大心という三つの徳の心にも基づいたものであり、あるいは「なんでもなしに」なのですよ。なにもそういう言い方をしなくてもよいのではないかと思ったものでございます。当時は私もボキャブラリーが乏しく、その後輩さんをご教導できなかったものでございますが。
よって、言葉というものは事実を説明するものであっても、事実そのものではありません。
あなたも今後は無欲にィとおっしゃっても現実問題そうなるかどうかは事実のみが答えです。
事実は、あなたが今、どう思っていたとしても、現実はLIVE中継、リアルタイムでトリッキーな動きをしているのでございます。
仏教的に、とおっしゃいますが、仏教的になんてことがどこかにあるのではなく、現実が先にあるわけです。そこが仏法というものであり、言葉を超えた絶対的な事実の法則を仏教的にというだけのことです。
ご回答、ありがうございました。