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お布施のお礼と仏・法・僧

お坊さんはお布施をもらっても
お礼を言う必要はないということになっていると知って驚きました。
信者に布施行という徳を積ませてあげているからというのが
理由だそうですが…。
これはお釈迦様が定めた戒律なのでしょうか?
あと仏教の三宝として「仏・法・僧」が挙げられていますが、
これにも疑問を感じます。
お釈迦様は「自燈明、法燈明」とおっしゃって、
僧を掲げたりはしていないように見受けられます。
どちらも後の世のお坊さんが自分たちに都合よく
そう設定してしまったのでは?と勘繰ってしまう罪深い私がいます。
納得のいく答えをお聞かせください。

有り難し 36
回答 3

質問投稿日: 2014年9月12日 14:02

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

宝とは僧侶のことじゃなく 僧伽。❝和合❞

古来の人間には❝自分のもの❞がなかったのでしょうね。
本当は現代でもそうなのですが。時代とともに人間の感性は変わっってしまった。
本当は「私のもの」「自分のもの」は何もない。でしょう?
この命でさえ授かりものです。食事も他の命を頂戴する、頂くのです。
自分「の」ものはありません。
昔の方々は優れた感性を持っておられたから、
①自分のもの
ではなく
②天の恵み という視点であったのでしょう。
だから、それを活用して下さる方の所へ預けた。
そういう形で社会貢献として、役に立てて頂こうと「活用して頂いた」のではないでしょうか。
「オレのものをくれてやる」「おまえにオレのものをやるんだからお礼ぐらい言え」という感性ではなかった。そして僧侶も、布施をお預かりするに値する、ワタクシ化しない人たちだった。
布施する人も、される人も、されるものも、❝ワタクシ意識❞が付着していない清浄な❝三輪空寂❞
であった。
ところが現代人は、個人主義思想、自我思想が暴走してみんな手に入れたものは「おれものもの」でしょう?布施にも、マイマイ自分意識が付着するのです。
本当は「授かったもの」「お預かりしているもの」です。
そういう感性を見失わなければ、すべてが恵み、恩恵。
それがあればどんなものや教えに出会っても、
必然的に「ああ、(恵まれて)有り難い」という気持ちが沸き起こるものなのです。
最近は、お互いに誤解なきよう、当山では浄財を寄進された方には御礼を申し上げています。

仏法僧の僧とは「僧伽」のことです。
サンガ→つどい・一つの方向に向かって流れる川が合流するところをサンガムともいうそうで。
悟りや心のやすらぎ、仏のチエ、平安を求めて和合する人たちの和合の集いを「サンガ・僧伽・僧団」というのです。
だから、いくら法衣身につけていても、そういう心の無いものたちは僧ではありませんな。soごもっとも。
僧侶業界のあり方に疑問をもたれて本当の教えを求めているあなたも僧伽の一部を形成する宝なのです。ただし、宝同士で傷つけあっては玉に瑕。
それをご理解いただければ仏法僧が宝(たから)であるということ、人の心を救い得る力や価値がある和合の«たから»であるという事をご理解いただけるのではないかと思います。
あなたを不信に思わせ僧たちがいた事を、代わってお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。

4年2ヶ月前

決して罪のない貴方様へ

◎お布施は僧侶が受けとるものではありません。僧侶はみ仏にお仕えし仏法を学び実践して仏法とご縁の方々をお守りする行者であり営利目的の行動は行いません。だからお布施は皆さんが「おかげさま」とみ仏へ自主的に納めるものであって僧侶はそのうちから寺院を維持し自分が生きる分だけをいただきます。当山はあらゆる法務のお布施を皆さんのまごころへお任せし金額の請求をしません。請求書の分を領収する意味でのお礼はないのです。しかし清浄なお布施のおかげで寺院は成り立ち僧侶も生きて行けるので当然、感謝を込めて頭を下げます。言葉は当山においては「確かにご本尊様へお納めさせていただきます」となります。◎仏法は、聖者や行者によって時代と共により深くより精緻に研究され戒律の内容や祈るお次第もより洗練され続けています。今生きている人は誰一人、お釈迦様と同じ時代の空気を吸い同じ文化環境の中で生きてはいません。だから大切なのは「お釈迦様が言った」かどうかではなくお釈迦様が説かれた空や慈悲や因果応報の真理をより深く学び実践することのみです。その方法がお釈迦様の時代にあったかどうかを詮索しても仕方がありません。◎み仏のお導きがなければ私たちは自分の霊性に気づきにくく、苦を脱することができません。み仏の教えとお力によってこそ私たちは苦を脱する道を歩めます。み仏と教えを守り法を実践する人がいなければ仏法という満月は群雲に隠れたままで救いの光はありません。だから仏と法と僧は人類の宝ものであり、現代における仏教徒の定義は第一に三宝を尊ぶ者とされています。ただし当山では、僧とは一行者だけを指すのではなく「み仏と教えを守り学び実践する人々」であり、出家者と在家者を問わないと考えています。それは、信じてお布施をしてくださる人が宝ものとして存在していなければ寺院は成り立たず行者は生きて行けずみ仏も仏法も守られないからです。◎お釈迦様は自己主張などで言う「自分」を灯明とせよと説かれたのではありません。無知と我欲が主人公の自分を放逸の状態にしておくことが諸悪の根源であり、正しく管理せよと説かれました。だからこの場合の「自」とは、仏法の実践によって発見される真の自分、仏性に導かれたみ仏の子としての自分です。◎仏道修行では学び、自分で考え、修行します。貴方様に罪はありません。合掌(9月13日付ブログ「想いの記」へ詳述)

4年3ヶ月前

仏教は実践思想哲学

無明様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

「無明の闇路を智慧の光明にて照らさんがために、やがて一切衆生を悟り・涅槃へと至らしめんがために、我、まさに仏道に精進せんと欲す。」

まず前後致しましたが、下記の問いの残りにご回答させて頂きます。

問い「理想のお坊さん像」
http://hasunoha.jp/questions/766

2>頂いておりません。
3>もちろんです。ただ、何が正しいのかについては常に慎重なる吟味を要するのではないかと存じております。
4>放射能の漏れていない原発周辺であるならばもちろんどこでも行けますが、現在の福島第一原発所周辺はやはり放射能汚染濃度が高いため防護服を装備できるのであれば行きますが、防護服なしでは到底行く気は致しません。
5>仏教は信仰というよりかは、仏法の真理を各々各自が考究・検証していくべき実践思想哲学と位置付けており、信仰を扱う他の宗教と一線を画するものかと存じております。しっかりと納得して受け入れられるまでは、徹底した合理的批判検証が必要かと存じます。是非、無明様も納得されるまで懐疑的であって下さいませ。このことにつきましては、下記の問いの拙回答も少しくご参照下さい。

問い「貴方が「この教えは現代に合わない」と思った事を教えて下さい」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002902054.html

さて、戒律や慣習、作法というのは、ある一定の守るべきルールのようなものとなりますが、その時々の時代や僧伽集団の性質、状況、環境等にも合わせて、お釈迦様や後世の弟子たちが仏道を歩むために適宜に設定されていかれたようなものであり、それが逆に囚われや拘り、執着となるようなものとなってはいけないこととなります。ですから時代、時代の状況の変化の中で、何が仏道を歩むために最善の方法となるのかをしっかりと見極めながらにも、必要なものと不必要なものを取捨選択しつつ、適宜に進めていくことが肝要なことになるのではないかと存じております。

是非共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

4年2ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

遠藤様
「確かにご本尊様へお納めさせていただきます」と引き受けるのですね。
それなら確かに安心して任せられる気がします。
ブログも拝見しました。
法句経の本は持っていますが、そのような解釈は思いもよらず、目からウロコでした。
疑いを抱くことは罪ではないと言ってもらえて安心しました。

丹下様
「三輪空寂」美しい言葉ですね。初めて知りました。
「自分のものは何ひとつない」と説明を受けても、
なかなかそれを意識して行動を選ぶことができないので、
そういう時はこの言葉を思い出して戒めにしたいと思います。
自分がサンガの一部を形成する宝とは到底思えませんが、
そう言って下の方に逃げようとするのも本当はよくないんでしょうね。
もっと自らと真剣に向き合えるようになりたいです。

川口様
ご丁寧にこちらでも私の質問「理想のお坊さん像」へのご解答、ありがとうございます。
真の目的である悟りのために、時代に合わせた方法としての
現代のお布施の形なのだろうと解釈すればいいのですね。
ブログも拝見しました。
お坊さんでありながら、今でも仏教の教えを
批判的、合理的に検証されている方がいらっしゃって、頼もしく思えます。

皆様、貴重なお時間を割いてのご解答、本当にありがとうございました。

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