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創価学会

私の母は、創価学会に入信しています。
母の家系は殆どがそうです。

本音を言えば辞めて欲しいのですが、本人が救われているのなら良いと言うのが私の思いです。
しかし、自分の考えを押し付けられるのがたまらないのです。

私は歴史が好きで、その流れで仏教にも大変興味があります。
が、それは母には内緒です。
母にとっては、創価学会意外は全部悪だからです。

私は、どう母に話したら分かって貰えるのか?
私は私であると分かって欲しい。
母の信じるものを否定したくないのに、母は全てを否定してくるのです。
これは分かりあえるものではないのでしょうか?

もう、何十年も抱えてる悩みです。
創価学会というと相談にはのって頂けない気もしたのですが、思いきって投稿させていただきました。

有り難し 86
回答 4

質問投稿日: 2014年12月7日 0:39

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

ただの人となるべし

こういう禅問答がありましてね。
Q「なぜ同じ人間なのに宗教や宗派の隔ての壁が生まれてしまうのでしょうか」
A「パン(手を叩いて) これは真言宗だから聞こえるのか、天台宗には聞こえないのか、創価学会には聞こえ方が我々と異なるか?」
Q「いいえ、誰にでも同じように響きます」
A「では、(指を立てて)これは、臨済宗の人には見えないだろうか、浄土宗の人にしか見えないということがあろうか、日蓮宗では曲って見えるようなことがあるだろう?」
Q「そんなことはありません。誰にでも等しく映ります」
A「では、何処にへだてアリや?」
Q「心の中にあり」
A「誰の心にその隔てがあろうか」
Q「私がその隔てを持ってしまっていたようでした」
A「然り、汝が隔てを無くせばそこに宗派の壁は無い。宗とは人間のおおもとである。本質的な作用は宗派の隔てを超えて同一である。それを宗(おおもと)と為して接すべし。宗(おおもと)に隔て無き事を悟るべし」
Q尊等に感謝いたします
A何者か珍重をなす 汝は曹洞宗の立場でそれを聞くのか
Qいいえ この心身には曹洞宗も宗派もへったくれもありません。たとえ曹洞宗、黄檗宗、浄土真宗に属す僧なりと言えど、わが宗こそは、ということを掴めば隔てが生じます
Aでは汝は何宗で何者か
Qそんなものは後付けです あとから人間が分別を起こすだけです
A然り それを宗意という 汝宜しく 人間のおおもとをゆくべし

近所に喫茶店がありましてね、店主が創価学会の教授クラスだそうで。
たまに行ってお話をします。
頂くのコーヒーだけです。説法やら折伏じみた洗礼を1時間近く受けた事もありましたが、おおもとを知っていますから適度な距離感を保って、ただの人として接しています。
私がそこで頂くのは、何の宗教にも宗派にも染まらぬ純粋なコーヒーだけです。
友人は保険屋さんでしてね。売り込みがうるさい時は友人ではありません。保険は頂きません。私が接しているのは保険屋でないただの友人、ただのひとです。
ただの人同士になればよいでしょう。
お釈迦様は隔ての壁なんぞ設けていません。ただの人となる。それが仏です。

3年6ヶ月前

互いを認め合うことからはじめる

創価学会も日蓮正宗からの派生なので、仏教の文脈はあります。

また、彼らは非常に勉強熱心で僧侶よりも仏教に詳しい学会員もいるほどです。理論武装が相当強いです。そして、感化力も強いです。僧侶の私にまで勧誘してくる位ですから。

そこを更に理論武装をして対峙することも可能ですが、軋轢を生むことになるのでオススメはしません。

彼らは、仏教を否定することはないはずです。仏教がなければ、彼らは成立していませんから。

仏教は無理な改宗や盲信を断じております。理解してからの信仰を
勧めています。その意味で

私たちも彼らが彼らであることを厳然と認め、彼らも彼ら以外を認めなければなりません。
そうしないと、創価学会の存在理由が崩れます。一神教な教義となります。

その上でわかりあいを求めてみてはいかがでしょうか。
まず、そこが突破口です。

大変だとはおもいますが、応援します。

3年6ヶ月前
回答僧

崇興寺

釈心誓

分かりあえる部分を大切にしましょう。

分かり合うとはお互いがお互いを認め合うこと。
親子ですので、「親として・・・」「子として・・・」と認め合うことはできるのだと思います。
分かり合える、認め合える部分はあるのだろうと思います。

しかし、はちさんの問題となっていることは、「人として・・・」ということではありません。
宗教における「いのちの在り様」「いのちの向かう先」、今風に言えば「スピリチュアル」な部分が問題となっているのです。
「いのち」における各宗教の概念は大きく違い、共有することは出来ません。

例えば、仏教は六道輪廻を説き、霊魂の存在を否定しています。
しかし、一方では、死んだら霊魂の存在になるという宗教があります。
全くの真反対であるこの概念を共有し認め合うということは出来ません。
「そちらの宗教はそう考えるのですね・・・」と離れることしかできません。

宗教はこの「スピリチュアル」な部分を様々な論拠をもって定義づけしてきます。
仏教の場合だと論拠はお経です。
「お釈迦様が○○経でこう説いておられる」と定義づけしていくのです。
だから、別の論拠をもって、定義づけされたものをぶつけられても困るのです。

創価学会の是非を問うことは無意味です。
信仰の部分は触らずに、離れておくことをオススメします。
分かりあえない所を問題とするよりも、分かり合える部分を大切にしましょう。
いつか分かり合える日がくるかもしれません。
どうぞ親子の関係を大切になさってください。

3年5ヶ月前

「正しい」とは何か

はち様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

ここではあまり内容を詳しくは述べれませんが、数年前に仏教系の新宗教に入信されている方と何度かお話する機会がありました。

その中で互いに法論を交わしたこともあった次第ですが、結果は互いに理解し合えずに平行線のまま別れることとなりました。

しかし、互いに話し合ってみて、色々と分かったこともありました。そして、その人はその人なりの思想と信条を持って一生懸命に頑張って生きておられるのだと存じました。でも、そのことは、自分自身にも言えることでもありました。まだまだの浅学菲才の未熟者でございますが、拙生は拙生なりに全般的に仏教を学び修しつつに思想と信条を持って生きているのだということであります。それは、互いに自分の考え、思想、信仰が正しいと信じながらにということでもあります。

しかし、問題はその「正しさ」であります。厄介なことに「正しさ」というのは相対的なものであり、また、個々人、社会、国、時代等によっても価値判断が左右されやすいものです。また、「絶対的な正しさ」とは何かというのは独善や自己満足などでは到底決めることもできないものであり、また、万人が認めているから「正しい」と言ってはいても、確固たる反証が出たりすれば当然に覆ることさえもあります。

ここで拙生が思いましたのは、「伝統宗教であれ新宗教であれ、その考え方が正しいかどうかは常に合理的に十分に色々と検証していくことが大切である」ということでございました。

話を少し戻しまして、お母様もはち様も互いにできるだけ話し合ってみられつつに、どこまで相互理解が可能かを推し量られて、歩み寄れる部分と歩み寄れない部分をうまく振り分けながら、バランスを取って接していかれるのが良いのではないかとは存じております。その中でどうしてももう無理となれば、親元を離れられて物理的にも精神的にも独立されるのも一つになるのではないだろうかとは存じております。

ただ、誰にでも「信教の自由」がある以上、国家権力や権威者、親が信仰を強要するようなことはあってはならないかとは思いますし、また、その信仰による行為が反社会的なもの、犯罪性のあるようなものであってもいけないかとは考えております。

どうか善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

3年5ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

回答して頂きましてありがとうございます。

今までは、話し合いにすらなりませんでした。
しかし、まず母の思いや考えを丁寧に聞いてみたい。
そう思いました。
そして、私の思いや考えを冷静に伝えてみます。

時間を割いて頂いて感謝致します。
どうもありがとうございました‼

丹下様

ご返答ありがとうございました。
壁などはない…
今回の相談に限らず言えることですね!

私も日頃、小さな壁や大きな壁を作っています。
私も母もそれに気付き、壁を崩していかなければいけないように思います。
無駄な壁をつくり、些細ないがみ合いをいてしまってます。

まずは、その壁を少しずつ崩していきたいです。ありがとうございました。

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