生きがいを求めて
初めまして。
生きがいというものを求めています。
大学に入ってから考えつづけていたのは、自分の人生に意味などなく、どうせ死ぬのになぜ勉強し、働くのかという問いです。
ほとんどの宗教では、生きること自体を肯定しているように見えますが、
それは人間が脳内で作った勝手な理屈で、何だかよくわからないけど怖いからそれらしい理屈をつけて、人生に納得しようとしているようにしか見えません。(宗教をバカにして言っているわけではありません、一連の『物語』を信じ、神や仏に帰依することができないんです)
「生きがい」で検索しても出てくるのは、怪しい宗教のサイトや高齢者福祉施設ばかりです。
どうしたらいいんでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自然界に意味なんて無い。自分なんてものは煩悩の親玉。
生きることを肯定するのが脳内で勝手に作った理屈なら、生きることに意味が無いと否定するのも脳内で勝手に作った理屈ですよ?
そして仏教に聖書みたいな『物語』があると思っているなら、それも脳内で勝手に作った理屈ですよ?
ごめんなさい、ちょっと意地悪な言い方しました。
全ての事物には原因と結果があります。過去・現在・未来にわたる原因と結果の網の目のような繋がりによってこの世界はできています。ゆえに全ての個は繋がりによって生じているのだから、個であると同時に全、全であると同時に個である。
これが縁起思想。この原因と結果を網の目で例えたのが華厳経のインドラ網であり、川の流れと泡で例えたのが徒然草。
さらに個と全を変動的に捉えて言い換えたのが般若経の色即是空・空即是色で、個と全のクローズアップ・ズームアウトで捉えて言い直したのが華厳経の一即一切・一切即一。一即一切をさらに一挙手一投足に落とし込んだのが道元禅の威儀即仏法で、あるいは言葉や心の作用に落とし込んだのが法華経の一念三千。
何が言いたいか、仏教は生きがいなんか語っていません。だって、そもそも生きがいを持つような自分がいないと悟るのが仏教ですもの。個は全です。
で、全が個なんだから他人もいない。自分も他人もいないというのは、言い換えれば他人も自分も等しく大きな自分ってこと。だから協力し合って生きないと愚かだよね?自分勝手に生きるって自傷行為だよね?みんなで不誠実に生きたら悪因車が煽りまくり、急ブレーキ急発進しまくり、事故りまくりで大渋滞するよね?みんなで誠実に生きて善因車でスムーズな交通を楽しみましょう。と、そういう話です。それを生き甲斐と言いたいなら、まぁそれは1つの表現としてアリと言えばアリ。
どうせ死ぬから意味ないなら、あなたの空腹感は何?それがあなたの中に存在する過去・現在の全ての結果であり、全ての未来を内包するもの。それが生命力であり、悟りであり、仏。
なのに脳内でグダグダ理屈作り出してアーだコーだ言うのが煩悩。
グダグダ言ってねーで全心全霊で生きろ。テメーに繋がる原因全てがテメーを生かしてんのに、テメーの勝手な理屈でカサブタ作ってんじゃねーよ。空気読めや。
至高の存在を目指すな、余計なモノを落とせ。そういうのが仏教です。
ついでに神道の神話も擁護したいけど字数が無いので割愛します。
とことん求めてみては?
私も同じ問いをもうすぐ二十歳さんと同じ頃抱いていました。
ちょうどバイトに明け暮れ、何度か大学を留年し、先が見えず人生に絶望しかかっていた時でした。
(私は)なぜ生きなければならないのか?
(私の)生きる目的は?
概してこのようなことを考える時は、うまくいっていない時だったりするものです。
※もうすぐ二十歳さんがそうでないなら申し訳ございません。
縁あり仏法に出遇った今でも、私自身、その問いの結論は完全には出ていないかもしれません。
ただ、自分自身が生まれてきたのには何か特別な理由があって、特別な使命が与えられていると考えてしまうこころ、そういう「生きがい」を求めてしまうこころというのも自分の「欲望(煩悩・エゴ)」なのかな・・・なんて思っています。
要は、考えても無駄!ってことです。
今のところ、この結論で私は自分を納得させています。^^;
>どうせ死ぬのになぜ勉強し、働くのか?
との事ですが、確かに人間は生まれてきた以上必ず死にます。
生きたいと願っても必ず死にます。
もうすぐ二十歳さんはまだ若いんだし、縁あり奇跡的にも人間として生まれたんですから、もっと人間を楽しんだらどうでしょう。
欲望を肯定しましょう。認めましょう。
勉強して、なりたい職業につきたい!
就職して、たくさんお金を稼いで、たくさん遊びたい!
経済力をつけて、結婚したい!
それでは、勉強する意味、働く意味にはなりませんか?
(もうすぐ二十歳さんの)生きがいは?
(もうすぐ二十歳さんの)生きる目的は?
ぜひ、とことん求めてみてください。
その答えを探すための人生というのも素敵だと思いますよ。
自分の意味を決めるのは自分だけ
他人がいくら「君は素晴らしい人だ」と言ったところで自分の人生の意味に価値をつけることが出来るのは自分しか居ません
他人に何を言われたとしても自分自身が自分の人生を「無意味」だと決めたならば、まさしく無意味です。
どうせ死ぬのに何故働くのか。
今生きるために働くのです、今日生きるために働くのです
どうせ死ぬのに何故勉強するのか。
今を生きれるようにするために勉強するのです。
うけがたき 人身にうけて
あいがたき 本願にあいて
おこしがたき 道心をおこして
はなれがたき 輪廻の里をはなれて
生まれがたき 浄土に往生せんこと
悦びの中の悦びなり
法然上人の一紙小消息の中にこうあります。
これだけのレアケースが重なった縁にあなたは巡り合っているのです。
生きることを肯定しているというより「生まれたから生きるしかない」、ではないでしょうか
生まれるかどうかを自分が決めて生まれてきたわけではない、生まれるべくして生まれたから生を享受して緩やかな死に向かって生きるのです。
死はゴールではありません、通過点に過ぎません。
質問者さんが「脳内で作った理屈であると考えている」ことこそが、それこそ「こうに違いない」という「質問者さんの脳内で作った理屈」ではありませんか?
釈迦牟尼世尊という方は2500年前に確かにいらっしゃいました。
もしそれを「お前が直接見たわけじゃないだろう」となれば歴史に名のある人物を含め向こう100年遡る人すべてが実在していたのか怪しくなります。
生き甲斐が見つからないから生きる意味がないと結論づけるにはまだ年齢が若すぎます。
それこそ60,70になって生き甲斐を見つけられる人もいるのです、あと2,30年探しながら生きてみてはいかがですか?
遠いようで案外あっという間ですよ
質問者からのお礼
もう少し生きてみようと思います。
ありがとうございました。