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過度な心配性について

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質問失礼します。私は過度な心配性だと自覚しています。とにかく、不安が募ってしまいます。

例えば、彼氏や家族、ペットが地震やなんらかの災害や事件、事故でいなくなってしまうのではないかと考えてしまいます。今お付き合いしている方が現在アメリカへ留学中の為、はっきり言うと急に彼が死んでしまうのではないかという恐怖が常にあります。地震が起きてしまったらどうしよう、こうなってしまったらどうしようと不安は尽きません。考えないようにしていても、一度考えてしまうとその不安は止まりません。考えたくなくても考えてしまいその不安感がとても辛いです。
自分でも何故こんなにもネガティヴ思考というか不安を抱いてしまうのかよくわかりません。率直に言うと私は自分や大切な人の死に対しての恐怖がとても強いと思います。

心配性や不安になる気持ちを和らげるようなことはなにかありますでしょうか…?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

現在に全力を尽くそう 過去はもうない 未来はまだない

 未来に起こるかもしれないことが心配なんですね。そうですよね。
 私には子供がいますが、朝、家から送り出すと、この子は夕方ちゃんと帰ってくるだろうか?今の「いってきます」「いってらっしゃい」が最後の会話になるのではないか?などと心配になってしまいます。

 以前、仏壇の業者さんが、カレンダーを持ってきて下さいました。月めくりで1ヶ月ごとに名言が書かれているカレンダーです。
 そのカレンダーに、「現在に全力を尽くそう 過去はもうない 未来はまだない」という言葉がありました。

 この言葉には、以下のような解説もついていました。(一部省略・修正)
 「私たちの人生は常に「現在」の連続であります。わずか1時間前のことでも、もう過去のこととして過ぎ去り、また、明日のことはどうなるかわかりません。帰らぬ過去についていつまでも執着したり未練を持つことは愚かです。また、まだどうなるかもわからない未来のことをいたずらに気にかけ、要らぬ心配ばかりして過ごすのも無意味なことです。今の瞬間、今の機会をおろそかにしていては、新しい光ある未来が開けるはずもありません。過去にも現在にもとらわれず、その時その場でするべきことに自分の全力を尽くしていこうではありませんか」

 なるほど!その通りだと思いました。
 私も、この言葉を見てから、子供に対して「いってらっしゃい」をしっかり心を込めて声をかけるようにしています。もしかしたらこれが最後の挨拶になるかもしれない。だから、あとで後悔のないように。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

実物だけ見るのです

煩悩や苦しみ、妄想から自由になるには、坐禅してインナーワールドをホットケさまにしてホッタラカシにすることが一番です。沸き起こる妄想は増幅させずに放置していれば、自然に煩悩や妄想から自由になれます。
私は、このホッタラケのホッタラカシのホーチミンの功徳を広く世界に廻らすべく、このhasunohaの回答も3日間ホーチミンにして日本総ホットケサマ計画を推進していたホーチミン丹下と申します。好きな禅語は既読スルーです。
あなたの悩みを即解決するには坐禅会に来てください。既読スルーでもOKです。それもホーチミンの一種だからです。思いをホッタラケにするためのコツを伝授しますが来なくても結果オーライ。どのみち即日ジョーブツ確定です。ちーん
このサイトでは具体的な方法は伝えていません。文字化して伝えても誤解されてしまいますし、直接伝授でないとフィーリングが伝わらないし、力のない僧がパクって別物になってしまうからです。
人間は過去にあった悲しかったこと、苦しかったことなどを再発させないために、同じ危うきものに近寄らせないように防衛反応として、フラッシュパックにも似た警戒心が働きます。
でも、それは生命の方がご主人のあなたに「気を付けなさい」と教えてくれているだけであって、実物が何でもなければ何でもないのです。
「情報」と「実物」は別物です。
あなたは脳内情報を信頼し過ぎなのかもしれません。
ちょっと、そっちを放っておけるようになることが必要かと思います。
本当は、現物、実物の方。実物をちゃんとを見なければいけません。
過剰な防衛意識、防衛反応よりも実物をしっかり見ましょう。
貴女が心配してきたことの大半はほとんど現実にならなかったはずです。
思いの取り越し苦労で生きることに疲れたら、その生き方自体を警戒すべきです。
過剰な思い込みを治すには坐禅会が一番だと思うのですが、あなたの警戒心ではウチのお寺はきっと厳しいに違いない、恥をかくかもしれない、とか思っちゃうかもしれませんが、基本的に当方、ホーチミンのホットケサマですので名前も聞きませんのでご安心ください。いつでもどうぞ。あ、お礼もスルーで結構です。その感覚で、自分の妄想をスル―するべし。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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