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子供時代の記憶

回答数回答 1
有り難し有り難し 7

私は幼少期、小学生の頃の記憶がありません。

以前、父の件に相談にのって頂きましたが
父からの母に対する日常の悪い事を吹き込まれているからか全く思い出す事も出来ないです。
唯一、思い出す母の事といえば
やはり父が母に怒鳴ってっている場面。
私はそれを見て泣いているか、怯えてる所と言うか…
そこで今回、相談にのって頂きたい事は
子供の頃の記憶を思い出す事は可能なのかどうか。思い出すべきなのかどうか助言して頂きたく質問しました。

娘に「ママの子供の頃はどんな子だったの?どんなお母さんだったの?」
と聞かれ答える事ができませんでした。
「ママね、子供の頃の記憶がないの…」
と答えるしょんぼりと「どうして?」と聞いてきます。

私にも本当にどうして記憶がないのかわからなくて、最近 記憶を思い出す事は出来るのだろうか?
と思い始めました。
父との関係は前回の質問後 連絡は取らないようにしています。
記憶を思い出す事によって父の悪い態度が露わになって余計なパニックになるかもしれないのですがどうしたらよいでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思い出す事が苦しいから思い出さないのでは?

人間の無意識は防衛本能が強く影響しています。
防衛本能が記憶の引き出しに鍵をかけているのでしょう
おそらくはあなたが恐れている通り
思い出す事にはリスクが伴うと思われます。

仏教的にも過去を見ながら生きる事は勧められません
今の幸せをお感じになりなされば
それで良いのです

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有り難し
おきもち

山形のそれは小さなお寺の住職です。 私は子供の頃いじめられ、社会からドロ...
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質問者からのお礼

回答いただきありがとうございます。

そうですね。
アドバイス通り防衛本能が働いているのかもしれないですね。
過去を思い出してもいい事があるとは思えないので、現在の幸せを大切にして行きたいと思います。

「心構え・生きる智慧」問答一覧

自分の話を聞いてもらいたい

私は小さい頃から、余り自分の話をするのが苦手で、どちらかと言うと、相手の話を聞いて、共感したり、自分の考えを時に挟みながら、相槌を打つ方が好きでした。 仲の良い間柄では少しスタンスも変わるかもしれませんが、概ね、相手を否定するような事は極力控えるのを意識してました。 相手が流暢に話を進め、「話聞いてもらえてスッキリしたよ。ありがとう」 そう言ってもらえると役に立っていると感じ嬉しくなります。 私がこのようなスタンスになったのは、いつの頃からか、自分が話の中心になると、「〇〇さんは一人っ子だから、いつも自分が一番なんだね。」や「気遣いが足りないよね」と兄妹構成を聞かれる度に、色眼鏡で見られることが多かったため、自分は聞き役に徹する方が上手くいくと思うようになりました。 指摘されるように、家庭環境で、兄妹がいる家庭よりは、視野が狭く、気配りが足りないのかもしれません。 ただ、自分のや中では精一杯に接しているため、自分が話側になり、「わがままだよ」などと否定されたら、やっぱり話すを辞めようと思ってしまいます。 ただ、やはり、少しは自己主張も必要かなと思うようなり、相手に否定されても恐れずに話をできるようになるには、慣れなのでしょうか。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 1
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過去の清算の仕方について

過去に配偶者と喧嘩しその際に警察の方にお世話になる事態になりました。 すでに相手とは和解をし、あとは会社内での処分を待つのみとなりました。 しかし、一向にその処分が来ずまたいつになるかも不明な状態です。 私がしたことについて、今でも反省する毎日でまたなぜそのようなことをしたのかと後悔する日々です。 してしまったことについては今後は2度としないという気持ちで反省と後悔の気持ちは忘れずに前を向いて、人生を全うしていきたいと思い、私はもう一度家庭を持ちたいと思うようになりました。 そのために過去のことについては会社の処分を受けて早く清算したいと思っています。 この処分を受けずに新たにパートナーと出会い家庭を持ったとしても、その時に新しいパートナーに迷惑をかけたくないし、できればこのことは自分の中にしまっておいてやり直したいという気持ちがあります。 ただ処分が一向に来ないため、私はいつになったら前に進んでよいのだろうか、新しい人生のパートナーを探してはいけないということなのか等の将来についても嫌な気持ちになりますし、処分についてもどのような処分が下るかはまだ先の話でどうなるかも不明な状態です。 先に進んでいきたいという気持ちの反面、処分という過去の清算が終わっていないために将来がとても不安です。 年齢も若くはないため、早く動きたいという気持ちもあって焦燥感や不安感で押しつぶされそうです。 近くに頼れる人もいないので孤独感もあり不安感は増すばかりです。 このような気持ちとどう向き合っていけばよいのでしょうか。

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最近仕事が上手くいきません

なにかあるごとに悩みを聞いていただきありがとうございます。 異業種に転職してもうすぐ1年経とうとしていますが、最近失敗やミスが目立ち、またそれが続いてかなり落ち込んでいます。 このままではいけないと自分を奮い立たせて今日出勤しましたが、今日も知らなかったこととはいえ、売上に関するミスをしてしまいました。 上の方にもそれはお伝えし、怒られはしませんでしたがすごく申し訳ない気持ちでいっぱいで自分に関する評価もどんどん下がってしまっていってるのではないかとすごく自分に嫌気がさしました。 ポジティブに考えるなら、失敗したから学ぶことができたんだと思う一方、性格上落ち込みやすく引きづってしまうので気持ちを切り替えることができません。 自分の注意不足なのは承知の上ですが、そのことにとらわれて自分ばかりミスして情けないと自己評価をどんどん下げてしまったり、自分はどう思われてるんだろうと上からの評価を気にしたままでは正直精神的にきついです。 こういうときどういう風に仕事と向き合えばいいですか?? 怖いし、自己嫌悪に陥るのでミスや失敗はしたくないですが、仕事上つきものだとは思ってるので、それも含めていろんな経験をして成長していけるんだというスタンスでもいいんでしょうか??

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

家族とは

私は幼い頃、母から虐待をされてました。 暴力はベルトで首絞め 頭を足蹴り 足をペンで刺されたりなど。 暴言は毎日でした。 社会人になりすぐに家をでて今の主人と出会い結婚をし 1人息子がいます。 主人はおとなしい性格な為、主人の前でも平気で暴言吐き、さすがに主人も呆れて 『連絡しなくていい』言い出し、2年近く音信不通にしてます。 昨年の11月に息子の七五三でしたが一切連絡ありません。 一生に一度の事なのに連絡もない。 お参りに行った際も他の家族は祖父母と来ている方が多くて虚しくなりました。 私には兄がいます。 兄は結婚する前は良き相談あったんですが、結婚してから別人のようになり この間 久しぶりに電話をしたら なぜか敬語で話しておりバカにしてるように聞こえました。 『お前の事、親の事は俺には関係ないから連絡してくんな』と電話を切られました。兄嫁がそうさせてるのかもしれません。 兄に娘が産まれた時はお祝いや誕生日プレゼントなど渡してましたが、私の息子には何もありません。 3年前から義父が高齢な為、同居し介護をしてましたが昨年11月に急逝。 今年2月に主人の弟が持病で急死しました。 今、私には主人と息子だけです。 何かあった時の助けがありません。 親と関係を続けるべきでしょうか? 母も兄夫婦と不仲になり3年近く音信不通でしたが母が謝罪に行き和解したそうです。 今後、親が年老いて色々出来なくなって私に頼まれても都合良すぎる様に思えますし、兄の役目だと思います。 私も福祉を15年やっていたのでこれからどうなるかは想像つきます。 もし亡くなっても葬式にも行かないつもりですが非常識でしょうか? 回答宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 6
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なぜ人は罪深いのに生きていてよいのか

わたしは子供の頃から、両親との関係もあり人との境界線を引くことが下手でした。病んだ人を助けようとして共依存したり、嫌なことを断れなかったりして地獄のような日々でした。今は心も落ち着きましたが、ずっと引っかかって先に進めないことがあります。 カウンセリングで心を見つめていくにつれ、健康な人間というのはわりあい利己的に生きていることがわかりました。嫌な人がいれば避け、好きなことをする。自分を愛しているから、人を愛せる。 その仕組みはわかるのですが、私はそこに躊躇しています。 現代で、人は罪を逃れられません。私は、虐殺だって、社会にある色々な闇だって、自分と無関係と思えません。すべては繋がっています。たとえば、私たちの服はウイグル自治区の子供が作っているかもしれません。多くの家畜を食べ、畑の為に森を壊します。富や権利が運よく不平等に分配されているから平和に生きているだけで、私たちの殆どはお金や食べ物がなければすぐにあさましい人間になると思います。 わたしの両親は「普通の人」でしたが、社会でストレスを受け、立場の弱い子供である私を虐待しました。でも世の中の「普通の人」が追い詰められたなら、弱い立場の人間に酷いふるまいをすることはたくさんあるだろうと思います。 正常になる、健康になる、ということが、逃れがたい人間の悪や罪に目をつむり、「自分は幸せになっていいのだ」と許すことなのだとしたら、私はそれこそ狂っていると思ってしまいます。それが、ずっとずっと怖いのです。 世の中では、自分を善人とか繊細な人間だと信じられる人ほど幸せそうに見えます。自分が外側に「持っている」状態で満足し、それがあたかも人格の証明のようですらあります。それは殆どの場合、時世の運にすぎないでしょう。 言葉は悪いけれども、愚鈍な人ほど幸せな世の中のように見えます。だからわたしが賢いとかいう話ではなく、なぜ当たり前の事実として誰もが抱えている悪を見て見ぬふりして気楽に生きていけるのかがどうしてもわからなくて苦しいのです。 わたしは、自分のなかに明白に悪があると思いながら、しかもそのわたしが救われることを許して生きていくということが理解できず、身動きがとれずに何年も苦しんでいます。 よいたすけがあれば、ご教示くださいませ。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ