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結婚と改宗

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はじめまして。

何年か前に結婚したのですが、私の実家は浄土真宗だったのですが、嫁いだ先は曹洞宗でした。

私の地元が浄土真宗と縁のある場所だったこともあり、個人的には浄土真宗に親しみを感じていました。

ここで質問なのですが、結婚したらやはり、改宗するのが一般的なのですかね。

義祖母のお葬式の際にお経も全く違い、もし私のお葬式で曹洞宗のお坊さんだったら違和感があるな。と思ってしまいました。

年齢的にも考えるにはまだ早い気もするのですが、義父義母の手前、私だけ浄土真宗で。というのも申し訳ないし普通はどうなんだろうと思っております。

ご回答のほどお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人類の歴史の中で、世界中のお嫁さんが悩んできたと思います

  いろいろな宗教が存在する中で、結婚する際には、新郎新婦のいずれかが、相手方の生活文化宗教に合せなければならないことに悩み苦しむ。この悩みは結構根が深いものだと思います。それ故、単純明快には回答出来ません。
  世界のどんな地域においても異なる文化との交流を謝絶し異なる宗教との接触を拒否し続けることは不可能でしょう。好むと好まざるにかかわらず、我々は他の宗教との接触を余儀なくされます。そういう場において、宗教間で軋轢や齟齬が生じたり、対立や紛争が生じたりしたことも多々あります。誠に残念なことです。
  「他者の信仰」・「他者の宗教」を受容し尊重し、他の宗教と協調共存を図る事が大事だと私は思います。キリシタン禁令や廃仏毀釈のような例外を除けば、日本人は他の宗教を受容し、協力協調してきました。宗教の優劣を競ったり文化の優劣を判定しようとしたりするのは、あまり賢明な事ではありません。それ故、あなたの質問に対する絶対的な回答は有り得ないのかもしれません。 私が申し上げられる回答は、「個人的な信仰を否定する必要は無いけど、嫁ぎ先の伝統や宗教は尊重しましょう。」です。

 同じ仏教でも宗派によってお経も違うし、葬儀法要も異なります。違和感を感じるのは止むを得ないでしょう。でも、それは慣れていただくしかないと思います。そして、嫁ぎ先の家の伝統や信仰を尊重していただくことも大事なんです。以前似たような質問がありましたので、そちらへの回答も御参照下さい。無宗教の私と新興宗教信者の彼との結婚(http://hasunoha.jp/questions/513

  上記の回答に対して、「嫁は辛抱しろ、というのですか?」「嫁ぎ先の宗教に合せなければならないのか?」という批判される方も居るかもしれません。でもねえ、家庭というのは、議論や論争をする場では無いと思います。家族みんなが協力協調し合って生活する場だと思います。やはり「郷においては郷に従え」という姿勢も必要です。あなたは長年浄土真宗のお経や教えに親しみ信仰して来られました。今後も大事にされて宜しいと思います。それと同時に、どうか嫁ぎ先の曹洞宗にも慣れ親しんでいただきたい思います。慣れれば、曹洞宗の教えもお経も味わい深いものがあると思います。

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 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努めております。決して容易いことでは有りませんが、一期一会の気持ちで相談に、葬儀法事に励みたいと思います。    最初法学部部にで学び、4年間ほど公務員をしていました。(税務署勤務)その当時の学びと経験を終活相談に活かしたいと思います。                                              昭和63年5月に住職となってから、30年が過ぎてしまいました。仏教学・禅学もそこそこ真面目に学んだつもりですが、宗教学・宗教民俗学に力を入れて学びました。そういう分野については丁寧な回答が出来るかも。
一人一人の気持ちに寄り添い、傾聴に徹して、心をほぐしてあげられるよう、努めたいと思います。 それと同時に、完璧に出来るとは限りませんが、其の人が歩むべき方向を一緒に考えてあげたり、次の一歩を踏み出せるよう背中をおしてあげられるよう、努めたいと思っております。

曹洞宗は曹洞宗ではないのです

道元という方は「私の死んだ後、あんまり曹洞宗とか、禅宗とか、宗派根性もつな」と言ってます。
どういうことかというと、喩えで申し上げるのですが。
道元「私は宗派だとか小さなことを通り越して世界中、万人がすくわれる、誰でも入れるスーパーやコンビニみたくお客選ばず、誰もが入れる、救われる教えを説いただけだ」ということなのです。
水に宗派なんてありゃしません。花に宗派なんてラベルもついてないです。
現在は他宗との区別の上で、たまたま曹洞宗と看板があるだけで、本当のところは曹洞宗なんてラベルもないのです。
だって、そもそも仏教って、元をたどればお釈迦様。
説いた教えが、仮に「小麦粉」(また食べ物のたとえかい)の美味しい食べ方であったとしますね。
ある人には、うどん。ある人にはパスタ。
ある人にはチジミ、パン、お好み焼きにせい、たこやき、インドだけにナンだと、相手が受け取りやすい形で、同じ「さとり」という味がする仏のコナをそれぞれの人にウケ入れられる形で説いたまでなのです。
自分という小麦粉が本当においしくなる(悟りを開く)ための調理(修行)方法を相手に応じて説いたのが、宗派の枝分かれと言えます。(ほんとかいな)
よって、宗派や行法違えど、目指す心はおんなじです。
なんでしたら、浄土真宗さんのお唱え事も続けていってください。
曹洞宗でも3と8のつく日に念仏もします。あまり知られてませんが。真言も印も結びます。護摩たく寺も公案する寺もあります。大学教授に摩訶止観の研究の大家もいます。
日本人だからお茶しか飲んじゃいけないなんてことは無いでしょうに。(^<^)
昨日、キリスト教系の布教家さんがお寺にやって来ました。
いつも布教パンフを置いていくんですが、こちらのは受け取りもしない。
「聖書だけを学んでいて他宗のは読めん」と言われるのですが、友人のキリスト信者さんというのは、私の著作も読んでくれますし、聖書以外読まない、なんていうケチなキリストさんでも神様でもないですよ?とお伝えしました。
宗教宗派の前にこの人間の身心は、目は桜を見れば桜。宗派問わず美しいはずです。
それが宗=おおもと なのです。
宗祖様というのはもっとおおらかな人ですが、現代人が自分たちの都合でちいちゃくしているだけだではないでしょうか?
どうぞ、そういう囲いを超えておおきく活動なさってください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答のほどありがとうございました。
他宗教に改宗いなくてはいけないことに比べれば、宗派の違いは大した問題では無いようにも思います。

郷に入ったら郷に従え ですね。

時には飲み込み従うのも正しいかもしれないと少し思いました。
新たな教えも親しめるように努力したいとおもいます。

洞林寺 吉田様 にご回答いただき、お礼を書いたのですが、その後、安穏寺丹下様にもご回答いただきありがとうございました。

主人にもう一度宗派を聞いたら「確か日蓮宗じゃなかったっけ??」とか言ってたので、だんだん雲行きが怪しくなってきました(笑)。せっかく、道元和尚の話を引き合いに出していただいたのにすみません…。

この際、あまり宗派にこだわらず、広く信じることにしました。

実家は浄土真宗ではありましたが、初詣など一番よくお参りするのは長野の善光寺なので、あそこはたしか宗派が混在していたかと思います。そのぐらいの気持ちでいきたいと思います。

ご回答のほどありがとうございました。

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