素晴らしさはわかるのですが…
お念仏のありがたみは分かるのですが、どうしても「阿弥陀さまを信じてお念仏を唱えたら極楽に往生できる」ということに疑念を抱いてしまいます。疑い深い性格でして、「たったそれだけで?」と思わずにはいられません。
もちろん、「たかがそれだけ、されどそれだけ」というのはわかるのですが、どうしても信じられないというか。
信じるって難しいですね。
私にはお念仏があっていないんでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
信じられないままお唱えください
目に見えるわけでもない、触れることができるわけでもない、そのような阿弥陀様を信じられないのは当たり前のことです。
それでもいいのです。
疑う気持ちを抱えたまま念仏を唱えてください。
阿弥陀様は唱える者を救うと誓われました。
ですから、疑う気持ちで唱えても構わないのです。なぜなら疑うことも阿弥陀様はお見通しなのです。疑っていても我が子のように命尽きる時に迎えに来てくれるのです。
そう思って安心して疑って唱えてくださいね。
南無阿弥陀仏
念仏道
現時点で何かお念仏に「ひっかかる」「感じるところがある」ならそれでよいのではないでしょうか。
それがたとえ「他に比べて楽そうだから」という内容であったとしても、「私が救われそうな気がする」という導入が大事なのだと思います。
導入部分に魅力を感じない本はそれ以上読めませんからね。
さて、同じお念仏の教えでも(以下個人解釈であり誤解の可能性も有り)
浄土宗さんは死亡→往生→修行→成仏(悟り)のような感じですし、浄土真宗は往生即成仏(悟り)です。しかし浄土真宗でも本願寺派さんは死後往生に対し、大谷派は現生往生寄りの解釈です。
さらに個人レベルでもまちまちです。お念仏の教えだけでもいろんな味わいがあるのですから仏教って本当に奥深いですよね。そんな中で自分の感覚を持つことと自分の感覚を捨てること両方が大切なので難しいのですが…。
なお、誤解をおそれずにぶっちゃけると私としては「諸行無常」「諸法無我」「縁起」に深くうなずけばそれはもう「悟り」です。
つまり、
「私のいのちは私だけのものでない」
「この世界はみんなつながっている」
「思いどおりになどならない」
ということです。
「悟り」が何者にも影響されない「心」であるならドラッグで廃人になったってあまり変わりません(極論です。)
「悟り」が完全無欠の知識の塊でわからないことはなにもないなんて状態なら、人工知能AIや超高性能コンピューターの開発の方がそれに近いかもしれません。
そうではないのです。「悟りや救い」とは「(自分が思う)悟りや救い」などないのだとハッキリわかることです。わからんわからんと言いながらみんな「勝手にわかったことにしている自分の悟りイメージ」を追っかけて一人相撲をしているのです。それは我です。
しかし「我を捨てなさい」なんて説かれても、我しかわからない、いや、むしろ我もわからない我々は「無我」なんてわからんのです。
だから念仏しなさいと釈尊(あるいは釈尊の教えを聞いてきた人)は説かれた。仏という我を離れた存在・世界を念じなさいと説かれた。
しかし我で無我を念じたってただの我です。私の思う無我など我でしかなかったと我に頷くところに無我の世界が差し込んできます。我々は真理に逆らう形で真理とつながるのです。
だからお念仏の道に間違いはありません!と、私はいただいております。
南無阿弥陀仏
悟りへと向けて
清香様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
私たちが仏教を修習して目指すところは「悟り」です。
往生も大切ですが、何よりも悟りが目指すべき最終の目標となります。
往生というのは、悟りを目指すための一道程、過程に過ぎません。
自分に合わないルートであると判断されれば、まだルートはお釈迦様により幾つも開かれているのですから、別のルートを選択するのも必要なことであるかとは存じます。
頑張って悟りを目指して仏道に精進して参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
聖章さん
ありがとうございました。
なんだか安心しました。
川口さん
なんとなく念仏があっている気もするので、当分はお念仏の勉強をします。ありがとうございました。
吉武さん
ありがとうございます。確かにお念仏って唱えるだけなのにかなり深いですよね。悟りについても色々ご説明くださってありがとうございます。分かりやすかったです。南無阿弥陀仏